沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩223

2010年10月30日 11時34分45秒 | 政治論
 最も重大で深刻な、しかもいかにもありふれた問題は、沖縄県の議会制民主主義的アプローチに基づく総意(名護市議会、名護市長、沖縄県議会、県知事)及び県民投票的輿論(名護市民投票、種々の世論調査結果)の、所謂多数決原理による多数派乃至大多数の県民意思の普天間代替施設県内移設反対という、誰が見ても文句のない民意というものに、アメリカ政府アメリカ軍、日本政府民主党政権という、本来国民の意思をもって代議的に国政に参加しているはずの政治家及び他国の政府、軍関係者が何の顧慮も与えることもなく日米合意という馬鹿の一つ覚えを繰り返す異常な事態の本質が、全く理解不能な民主主義的矛盾を露呈している現状である。後戻りして県内移設受け入れや主に経済関係懐柔策による薄汚い裏取引やはたまた「銃剣とブルドーザー」による強制執行は本来あり得ないことは誰の目にも明らかだ。民主党政権の対応の不透明さは益々前政権に似て、政権交代の意味はすでに皆無だ。対米関係、日米安保、にまつわる保守政権の体質は明らかに論理性を欠き、国民を納得させるだけのいかなる筋道も示していない。無論これらは日本の戦後処理の本質的誤謬に基づくもので、一政権が単独で他の政策並みに容易に答えを見出せるほど単純な問題ではなく、戦後民主主義の破綻と経済政策の瓦解に象徴される日本国自体の歴史的検証対象であることは今更言うまでもない。論壇マスコミマスメデア新聞放送こぞってかかる本質的問題から目を背け、戦後65年をキリギリス的遊興三昧に呆けてきたこの国のなまくら振りが白日の下に晒されている。沖縄と本土との乖離は、実は単純に米軍の軍事的占領を受けたかなかったかの違いらしい。軍事占領を受けたドイツは未だにナチ戦犯を追及しその断罪は徹底的に行われ、沖縄では今もってあの戦争の話題と体験の継承に心血を注いでいる。一方戦時官僚体制を維持したままGHQの支配をかいくぐってきた本土はあの戦争の体験をなおざりに、いわば大日本帝国的生き残りが牛耳っていた官僚本体の意向そのままに戦後を安易に深慮もなく処理してしまった。だからここに沖縄との決定的な乖離が生じたというわけだ。自由主義は行われたかもしれないが、どうも穿違えられた自由という謗りは免れまい。当然その民主主義は70年安保以降みるみる消沈していった。(中断)

詩222

2010年10月25日 17時21分37秒 | 政治論
 C・ダグラス・ラミスの「なぜアメリカはこんなに戦争をするのか」を読んでいて次の文章に出遭った。「今日、ガンジーがやったことは忘れられようとしています。陳情かデモか選挙か暴力以外には抵抗の道はないとみんな言いますが、それはインド独立運動が歴史上なかったような言い方ですね。ガンジーの非暴力不服従は消極的な方法ではなく『非暴力』の実力でイギリスを追い詰め、独立を勝ち取ったのです。」非暴力が有効だという一見逆説めいた論理だが実は大衆運動の基本はまさに論理的な「不服従」にこそある。憲法が書き換えられようとしているとき多数決の原理からは最悪改憲が現実になる可能性はないとはいえない。このとき自衛隊にしろまた多くの国民がこの改憲に対して「不服従」を言い続けるなら、徴兵も防衛軍組織化もはたまた有事法制に対しても憲法違反を根拠に有効な抵抗運動となり頑強な保守主義者を駆逐することができるかもしれないという実例を、ガンジーは示したのだ。辺野古闘争は最終的にはここにたどり着くだろう。「ブルドーザーと銃剣」と知事が言ったが、古来この手の暴力的国家行為は枚挙にいとまない。ましてかの征服民族アメリカである。暴力と強権に対して非暴力と不服従。国家対人民の対立においては基本的にこの方法が最も有効な永続する抵抗運動といえる。言論闘争もこれに入る。沖縄の反基地反戦運動は概ねこうした精神に貫かれていると想像する。

詩221

2010年10月22日 20時22分03秒 | 政治論
 だから残念ながらお前さんがたの安保ただ乗り時代は終わらせなければならないのだよ。沖縄を危険地帯に放置してきた戦争と戦後の日本は、今後一切沖縄抜きで安保を考えてくれ。もう皇民化教育は終わったのだし、沖縄に過去の遺物を押し付けるセンスのないやりかたは恥じて捨てろ。まず安保は破棄すること。日米同盟の米軍駐留を継続するなら、基地自体の再編に取り組み、国内平等負担とし、そろってアメリカのお世話になれ。アメリカがいやだだめだというならアメリカとは金輪際手を切れ。おまえさんがたの他力依存を受け入れる馬鹿はいない。どこも財政難で大変なのだ。中国との戦争は起こらないが仮に尖閣あたりで小競り合いがあっても米軍がどうしようというのか。自衛隊が海上戦をやったとして米軍が何をすれば沖縄を安全化できるのだ。弾が飛んでくるのはまさに米軍基地のある沖縄じゃないか。米軍は沖縄を守れないし守る気もないし、救出は在沖米兵家族が優先する。こんな割に合わない米軍基地をなんで沖縄県民が好き好んで歓迎するか。つまりこの基地は本土のためであり沖縄を防波堤にするためにある。沖縄県民はきゃつらの欺瞞偽善大嘘に決して耳を貸してはならない。これは間違いない事実だ。沖縄戦は沖縄を完全に裏切った本土の性根をあからさまにしたのだ。

詩220

2010年10月22日 19時08分07秒 | 政治論
 仲井真が再選されたとする。知事の専権公有水面埋め立て許可はあらゆる偽善と欺瞞の末下りるだろう。彼が県外移設を標榜しても彼の県内移設反対の意思は明らかでないというレトリックのせいで、政府はあらゆる懐柔あらゆるばら撒きで最後は恐喝恫喝を交えながら、彼仲井真を口説き落とした格好で知事の責任回避も念頭に段取り杯を交わすというさながら3流やくざ映画のような猿芝居を想像する。この汚辱に塗れた辺野古の事は後世まで語られる非民主的暴虐だが、本土の人間たちは「これで安心してアメリカ様にべったり張り付いて生きていける」と大喜びなわけさあ。やつらの論理は非論理だが、軍事的戦略的専門家でさえ辺野古の必要性に疑問を持っている状況では沖縄県民に阿漕な真似をした民主党政権及び日本国民という果てしなく不名誉な結果を生むこともさして気にならないらしい。ここで思い出すのが皇民化教育の結果日本中が護国の鬼と化し、これに反するものを「非国民」として隣人さえ告発する時代には、わけもわからずただ国のいうことを聞いていれば安泰だと思い込んだ国民が、国の誤った誘導のまま敗戦の地獄へひた走った、あの再現を辺野古に見る。一体誰が沖縄を好き勝手にしていいと言ったのか。かの昭和天皇である。戦犯そのものの天皇がなんの権限があってあのような専制的な言明をしたのか。そしてこれを100%利用したのがアメリカ政府と吉田茂であった。こいつらは本土のために沖縄を切り捨て、その後の日本政府と保守主義者に都合のよい口実としての沖縄処遇政策を遺産として残した。今の民主党政権さえこの愧ずべき犯罪的天皇宣言を踏襲するという。沖縄県民不在の非民主的方法で日米合意はなされた。(中断)

詩219

2010年10月22日 12時46分11秒 | 政治論
 民意とは何か。人は己に降りかからぬ火の粉は取り敢えず危険とは認知しない。沖縄の基地被害が長年の積み重ねから原因として取り沙汰される米軍駐留を名指すのは当然で、被害の頻度確率危険指数の問題とは根本的に違うことはすでに明白な事実だ。つまりこれは民意という限定ではなく、客観的危険物そのものにほかならない。この客観性を見てこれを除去すべきと判断しない日米政府が国民を危険の中に放置してでも押し通さねばならない重大な客観的理由とは何か。それは軍事的秘匿条項らしく「抑止力」やら「地の利」やら漠然たるこじつけは繰り返すが未だに判然しない。従って国民はこのような専門的詮索には努力する必要はなく専ら自己の基本的人権生存権財産権を「憲法違反」の観点から主張し続けること。あらゆる訴訟要件を収拾してまずは国に次には国際司法に、訴えること。つまり国民が自己保存と幸福の追求に全力で勤しむ本来ありふれた基本的な生活を継続するとき障害となる基地被害こそ排除すべき対象であり、この主張にはなんらの顧慮も必要がない。国の専権事項など知ったことじゃないのだ。このとき国に妥協するものはその時点で自己の基本的権利を放棄したものといえる。国民がなければ国家もない。本土が安全ならば沖縄は危険の中に放置しても構わないという国家論理は絶対に成立しない。ましてやアメリカのために沖縄が犠牲になるなどという馬鹿げた状況は前近代的事態だ。

詩218

2010年10月21日 11時48分56秒 | 政治論
 岡田はじめ民主党本部は沖縄県民の明確な敵である。仲井真知事も県外移設を謳い、沖縄全体が県内移設反対の意思を明確にしている以上、「日米合意」を踏襲する民主党は結果はどうあれ現在沖縄総意と真っ向から対立する。彼らが独自候補を擁立しないのは調整不足でなく選挙に勝てないのがわかりきっていると認めているからだ。つまり彼らの「日米合意」踏襲はアメリカへの揉み手という以外にはなんの国内的な政治的メリットもない、「対米追随姿勢」の表明にすぎない。ここからいえることは、今の政府も今後の日本政府も決して沖縄県民の方には目を向けないということであり、沖縄からの議会制民主主義的アプローチは絶望的段階に入ったということだ。これは日本の民主主義という観点からも由々しき事態といえる。選挙も議会決議も何の民意も反映しないという、根源的破綻だ。国民不在の国家が架空的にできてしまった。この国家は一体どこにいこうというのだろう。アメリカと一緒にどこへでも行っちまえ。喜納よ下地よお前らは一体沖縄人か?民主党の沖縄議員は魂を悪魔に売ったとしか見えない。

詩217

2010年10月20日 08時52分38秒 | 政治論
 今日の沖縄問題の最も根本的な原因は、沖縄に関する認知度の低さにあることは間違いない。例の教科書記載の訴訟沙汰は沖縄県民が大騒ぎするほど本土には重大でないことを、県民は十分に知っておく必要がある。一方、集団自決に関する裁判の大向こうの評判はただノーベル賞作家大江健三郎と岩波書店が被告だという事実によってのみ本土の耳目を惹いているということだ。先の大戦の沖縄戦と集団自決は沖縄にとって大損こいた悲劇であり、今日の基地被害や普天間は沖縄の大変な貧乏くじとしか言いようがない。この国の政府、ジャーナリズム、国民の大半は、「沖縄など知ったことじゃない」のだ。集団自決の割に合わない犠牲は、その悲惨な地獄的様相よりも皇民化教育の恐るべき効果ばかりが目だって、一体この悲運はどういう目的を持っているのかと心底疑問に思う。領主様然としているアメリカ、多大の貢物を献納し続ける日本人、今度は中国にねらわれているらしい。敗戦の負い目?優秀民族優等生主導のおりこうさん国家は泥臭いじたばた抵抗は性にあわないらしい。負け戦から何を学んだのか。返す返すもこんな日本に住みついた沖縄は、残念な運命を背負ってしまったのか。どこに人間としての普遍的価値をみればいいのか。絶望的な文化的環境を強いられた沖縄の未来は、ただただエメラルドグリーンのちゅらうみと温存された人情のみが救いの神器なのだろうか。しかしながら沖縄の人々よ、本土の人間もやはり同じ日本人なのだよ。この情けなくも落ちぶれ果てた精神の落伍者たちは、おのれの進む道を知らないのです。あの戦争から学び続ける沖縄だけが日本の未来を見つめることができるのです。

詩216

2010年10月19日 09時31分42秒 | 政治論
 三島由紀夫で終わった戦後国民文学、という捉え方で考えると、拙劣ともいえる彼の政治的奮闘が戦後日本文学の究極の姿なのかなと一瞬錯覚する。生硬な法律序文のような彼の文章から政治という畑違いのジャンルに一直線な道を見る時、戦後焼け跡からの起死回生などというのとは全然違う復興する日本への警鐘こそ戦後文学がその役割を担うとすれば負うであろうシビリアンコントロールという役目であった、と一応いえる。今更文学の再生でもあるまい。この絶望する精神の発露は堕落し損なった国家へ向け、ドンキホーテの孤軍奮闘以外には手がないことを肝に銘ずることだ。しかし果たして救い出すべき姫は元々彼の中にいたのかどうか。本質的に重大な問題はまさにそこだ。君は死をとしても救うべき思い姫を持っているのか?ベアトリーチェ、ノスタルジャ。川端康成「美しい日本と私」。民衆は?夜鷹の星。

詩215

2010年10月18日 15時49分47秒 | 政治論
 朝日新聞や毎日新聞の、ベルリンの壁崩壊後の右傾化というのは左翼陣営の論陣退却ということもあるが、一方戦後民主主義の衰退により勃興した戦無自由主義が醸し出すニヒリズムが、例えばオウム真理教や震災共同体を生み、特殊犯罪や無差別殺人願望、尊属殺人、など異常性を帯びた社会現象を生み、価値観の混乱、といったアナキックな国内状況を予感させたときに必然に保守化するジャーナリズムという図式かと思われる。彼らはその情報選択、乃至報道する対象の問題性へのパースペクテブを失うことによって健全な反応という体勢をとらなくなり、戦後保守主義が完成させた現状に寄りかかることにより一切を本質的に評価するという精神から脱落したと考えられる。日本のジャーナリズムなど知ったことじゃないが、こいつらがどこに向かおうが関知するところではなく、ただただ衰退した戦後民主主義というのはいまやどこに行ったのかと探してみると、政権中枢にいるわいるわ、しかもかつての闘争心むき出しの姿はどこへやらすっかり堕落したジャーナリズムに突っつかれて右往左往、肝心の政治のお仕事のほうは一向に成果を挙げられない。所詮権力というのは強権振り回すか馴れ合いに終わるかどっちかで、理想的な政権運営やら政治主導の実現など100年かけてもできはすまい。この国のスッタモンダは国民にとって死活問題のはずだが誰も過剰反応さえしない。デモもストライキもない。せいぜい尖閣問題で中国に踊らされているだけだ。多分欠けているのは精神とか富とかじゃなくカリスマではない偉人だろう。偉大な時代精神の持ち主がいないのだ。ヒトラーでもナポレオンでもない指導力、吉田松陰の無私の精神が見当たらない。

詩214

2010年10月18日 14時18分03秒 | 政治論
 太田氏の結論は、「戦争が人間を非人間的にする」ということだろう。従ってあらゆる反戦思想はこの一点から論じられなければならないということ。戦争はいかなる理由からもその非人間性を超えて実行することはできない。「正義の戦争」は論理的にはあり得ない。犠牲というが実は必ずその主体は人民兵士に限られ、指導者は生き延びる。あけすけに言えば犠牲ではなく残念死ということになる。死を賭して、というが実は逃げようもなく前進させられた結果にすぎない。あらゆる殉国美談は生者の勝手な作為にほかならず、真実はいつもむごたらしい。無論この反戦思想は戦争が絶望的になくならない現状を認識したときのみ、個別の戦争への警告として立ち上がる。戦争は人間の、人間だけが組織的に実行できる、史上決して絶滅しなかった悲劇として捉えられる。非人間的な行為とは何か。人間的な行為とは。この問いの周辺に広がる漠然としたイメージは言わずもがなの情念を想起させるが、赤子を放り上げて銃剣に突き刺す図を目前にしたなら、人間の残酷さに慨嘆する前に人間をこうした行為に導く戦争を呪わずにはいられまい。これでも「多少の犠牲はしかたがない」といえる人間は、人間じゃない。人民は決して戦争を「しかたなく」受け入れてはならない。それが必ず予測不能の不幸を造出し惨たらしい悲劇の山を積み上げ、人民の塗炭の苦痛を強いることを忘れてはならない。とりわけ国家という名の下に行われる戦争は、有形無形の国家的作為に掛かる人心収攬により、戦意を高揚し、敵愾心を煽り、情報操作による軍事的戦略的反人民的方向付けをするのであり、それらの国策から人民レベル生活レベルの一切が大小の犠牲に供される。沖縄の反戦思想反戦運動が沖縄戦の体験から特殊に発現したことは、沖縄戦の残忍性、不条理性、本土との決定的な差別姿勢、軍隊は人民を守らないという事実など、数え切れない「非人間的」「非日常的」現実を目の当たりにした人々の証言体験談を通じ、発信されたものだということを意味する。そしてこの実体験というものは戦後の戦争を知らない世代にとってはただ言葉や映像でしか体験できない時代を迎えたとき如何に次世代に語り継ぐかという重大な課題に直面することになる。畢竟するところ巨大な組織的圧力に基づく戦争への誘導という政治は、人民にとって必ず不幸を呼び苦痛を強い、無念な犠牲を伴うという認識を人民が共通に持つ必要があるのかもしれない。(中断)

詩213

2010年10月16日 11時27分20秒 | 政治論
 沖縄県議会、名護市議会、沖縄県知事、名護市長、所謂議会制民主主義の地方レベルの総意が普天間代替施設の県内移設反対という結論を内外に示した。にもかかわらず何のアクションも起こさない起こしたこともない日米政府というものを考えると、そこにおどろおどろしい保守的停滞を感じるし、そもそもが日本の前時代のエンペラーが帝国主義的発想に基づいた沖縄人質判断をした時点で、今日の状況は用意されていた、といえる。やくざの杯ともいえるこの沖縄住民を人間扱いしなかった行為は現在、なんの反省もなく踏襲され、そのおそるべき内実を抱えたまま未来へ引き渡されようとしている。この政権に普天間問題を解決する断固たる決意も覚悟も見えない以上、普天間固定化は現実のものとなりつつある。国家又は日米政府対人民又は沖縄県民という対立軸を措定し、人民はいかに自己の生存権を保持するか、いかに基本的人権を保証させるか、財産権を確保するか、を考究し続けなければならない。沖縄問題はこの国の戦後を本質的に抉ろうとする歴史的課題だ。沖縄の反戦思想は血塗られた沖縄戦の体験から立ち上がった、原爆と同じ実質の国内最高級の内容を有する世界的思想だ。オバマごときが大嘘つこうが、その軸のぶれは一切ない。日本政府に訴えるのではなく全世界に向けてこの思想を発信しなければならない。日本政府は国家専権事項と嘯くことで沖縄を一地方の一般的政治的障害にまで貶めようとする。こんな国の不毛な政府に頭を下げる必要はないし又効果もないだろう。議会制民主主義を踏まえ甲斐のない交渉を続けるのもいいが、原爆同様アメリカ覇権主義のまえに敢え無く潰える姿が見えてくる。あいつらには地図上の戦略的軍事的構想しか頭にないのだし、ローマ以来の征服民族的発想だけが生きがいなのだ。こうして沖縄の嘆きは永遠に無制限に継続する。しかし沖縄の嘆きは間違いなく全世界の叫びである。

詩212

2010年10月15日 14時41分59秒 | 政治論
 アメリカはベトナムで失敗しイラクで大嘘をつき新たな混乱を産み出し、アフガンでもおよそ先の見えない危険を醸成し、世界各地至る所に派兵して大概泥沼の悲惨を人民兵士国力において作り出し、何一つ好結果など残しもしないうえに、自己の過ちを決して認めない。このため国連を無視しても恐喝恫喝で多国籍軍を編成する覇権を握って離さない。正義の戦争とはよく言ったものだ。この巨大な国力と軍事力で世界を睥睨し、正義を振りかざして強引に相手をねじ伏せ、これまで史上稀に見る無数の人民兵士小国を犠牲にして倦むことがない、幼児的ガキ大将を一体世界史はいつ放逐できるのだろう。

詩211

2010年10月14日 10時50分31秒 | 政治論
 昭和天皇と吉田茂による旧帝国時代の思念に基づく国家的決断だった、戦後日本の出発点における重大な誤謬。それは沖縄をアメリカに人質乃至基地用の土地として提供することによって戦後日本の本土が安定した安保による守護のもと復興発展を望めると見込んだ天皇と吉田の偏頗な帝国的発想である。この点に注目しなければならない。彼らの全身にある国家思想は明らかに非民主的な国民不在の帝国主義といえる。何故なら彼らが提供した沖縄には数十万の住民が同じように焼け跡から出発する運命にあったのにもかかわらず、異人種の支配の下、軍事基地に占領された土地に非人間的な環境で住し続けなければならないという、極めて不公平な奴隷的境遇にぶち込んだ事実だ。このことをはっきりと見据えなければならない。そして今なおますます日米同盟のもと沖縄を拠点とする安保が軍拡化する状況で種々の事件事故犯罪悪質環境に苛まれている沖縄県民の人権無視を、見逃すわけにはいかない。全ての出発点が旧大日本帝国のエンペラーだった、本来戦犯として裁かれなければならない天皇の国民不在の国家的判断とそれに追随した宰相吉田茂の狡猾な政治的判断によったということは、どう考えてみても「現実主義者の平和論」としては非民主的結果を生んだとしか言いようがない。こと沖縄に関しては、物心両面で、本土においては精神的自律性の崩壊という意味で。(中断)

詩210

2010年10月13日 12時21分58秒 | 政治論
 昭和天皇訴追が争われないことは昭和天皇の免罪符ではなく、逆に天皇の決定的な戦犯性を立証している。つまり戦犯かどうかは別として天皇の戦争責任は明白な事実といえる。このことに疑問をはさむ余地はない。しかも戦犯として裁かれなかったがために沖縄は誤った認識と判断に基づく戦後処理に付され、本土との決定的乖離を余儀なくされた。それは琉球処分以来の沖縄の近代化、及び戦後民主主義、現代不当地位まで一貫した歴史的真実である。今更昭和天皇の戦争責任を追及する必要はない。問題は彼が沖縄に関して抱き下した認識と判断が暗に陽に戦後の日本における沖縄の差別的状況を醸成した許しがたい事実だ。従って沖縄が天皇に対し又天皇制に対して持つ本土感情認識との相異は天地ほどの差がある。エンペラーが帝王が国家的決断を下したときそこには国民の介在はない。この帝国主義の時代に即した沖縄処決は正されなければならない。それがアメリカに対するメッセージとして伝えられる必要がある。基地問題に関する沖縄偏重は明らかに昭和天皇の恣意に基づく本来無効な国家意思としてあらためて再考を促すべきだ。(中断)

詩209

2010年10月13日 09時18分44秒 | 政治論
 昭和天皇の沖縄に関する重大な誤謬は彼の大日本帝国時代に培われた彼自身の教育的成果であり、彼自身の逆皇民化教育の帝王学の成果であろう。日本国憲法は彼の理念の外であり、彼の沖縄に関する認識と判断はアラヒトガミだった彼の時代の時代錯誤な旧思想によるのであり、戦後日本の歩みにおいては完全に齟齬する見解と思量される。彼の誤謬は戦後日本の矛盾を生み、アメリカの傲慢を助長した。決め付けではなく想定である。こう考えないと現今のこの国の沖縄、普天間に関する対応のありかたを説明できない。60年、70年代を当時の学生運動に費やしただろう今の政権中枢が前時代の負の遺産を引き継いだときに生じたあらゆる自家撞着を国民は見逃してはならない。敗戦はかくして未だに決定的に未消化のままだ。そしてこのことが戦後民主主義の崩壊と自己破産状態を生んだ。そう考えないと論理的に納得できない。(中断)