神の試練というのは、往々にして人を惑わすように作用する。神を信じるかどうかはともかくこうした試練の局面を一度も経験しないというような者はいまい。例えば聖書ではこんなイエスの言葉が異彩を放つ。「人の子が、この世に平和を齎すために来たと思うな、却って剣(つるぎ)を投げ込むために来たのである。」「人をその父と、娘をその母と、嫁をその姑と仲違いさせるために来たのだ。」これはマタイ伝にあるイエスの長い説教の一部だが、後半が幾らか詩的でないのはマタイの立場からはしかたがないとして、この言葉の持つ言い知れぬ厳しさは、神のみぞ正しくあとは地獄、という信仰の本質を表現しているのであろう。
辺野古の海が騒乱を予感させる7月決戦と相成った。
百条委員会は開催される。
永い琉球沖縄の軛を、彼の浅ましい判断力放棄で途轍もない人民的重荷に投げ返したあの日から、大地踏み鳴らし叩く島のテエクヌヒビキもオジイのサンシンもデイゴの花もシマンチュヌ宝も、なんと色あせたような空間が広がり始めたことだろうか。(つづく)