ここ数か月、筆者自身の病態により浮世を離れて完全看護の病床(コロナ禍で面会禁止)に就いたり、その後ひたすら養生したりしている間に、この世は様々な変容を遂げているわけで、その故にほぼ純粋培養された精神の態様は次のような在り様を示している。
心房頻拍という不整脈を発症し、6月3日入院した循環器病棟で2週間経過観察したがその後何も起こらずに6月18日退院。心房頻拍は1分間150回ほどの頻脈が連続して止まらない不整脈(頻脈)で、AED(除細動器)で一度心停止し、電気ショックで回復させるという荒業が施された(通常は薬物で簡単に正常化する)。
筆者の場合、3月に3回目のワクチン接種後4日ほどして心筋梗塞を発症、カテーテル手術により梗塞した動脈をステント(金属のチューブ)処理しバルーン(風船)で血流回復という病態を経験していたので、不整脈処置後なお経過観察が必要とされたもので、今月末には不整脈起生個所の排除のため更にカテーテル手術が予定されている。
ところで何度考えても何故心筋梗塞を発症したかわからない、多くの場合何らかの強いストレスが一時的に集中したようなときに起こると言われ、思い当たるのは、その数日前に実施したファイザー社の3回目のワクチン接種以外ないのだった。
既に巷間では4回目のそれが検討されているのだが、今は到底受ける気にはなれない。接種で起こったとしか言えないかつてない筋肉の微妙な痛みも気になる。その後の何らかの不具合が気のせいか皆そこにつながる。所謂ワクチン副作用だ。
コロナ感染者に起こる後遺症もまた、よりひどい症状で数か月も苦しめられるという事例が後を絶たず、菅前首相があの時期ワクチン至上(ワクチンさえ打てばの掛け声)を謳ったのはいかにも全体主義者の単純すぎる発想であり、波打つ感染者数を経済主義(経済活動優先)で軽視し、結局一定数の重症後遺症者や接種後死亡した者に負担を強いた格好だ。軽度の感染でも後遺症を免れないというのに、世界中がどうやら感染可能性への警戒感を薄める方向へ流れ始めている。
感染力の強いオミクロン株BA.5により第7波が生起しているが、沖縄では国同様何らの対応策も出せぬままで医療関係者や専門家が警鐘を鳴らし続けている。このような事態は、どうやら神がかりの奇跡でも起こらぬ限り好転する気配がないらしく、人事を尽くしてさえなお目に見える効果というものが望めそうもない、つまりはお手上げ状態であり、結局のところ無為無策、国も他の行政機関もあってなきがごとく、何となく個人の責任に転嫁(菅が言った「公助」なき「自助」)して、これまで通り5項目程度の単純な回避策の実行遵守以外には方途がないわけだ。しかもこれをひとし並みに各自が徹底すれば徒な感染拡大は間違いなく防げる。
さて安倍君は7月8日、得意げに(そう見える)応援演説している背中方向から数発の銃弾を浴び、事実上即死状態(心肺停止)でその67年の生涯をその日のうちに終えた。晩年は、漸く翳り気味の権勢を自ら惜しむかのように、追随する女性議員やネトウヨ系議員、極右的政治家の後押しや何やら画策を続けていたが、ある日突然、非現実的白昼夢の中に現代的で奇怪な死を遂げたという印象だ。思い出されるのは森友事件で自死した赤木氏とその家族の無念さ、あるいは加計学園事件、桜を見る会事案と、彼の在任中の明らかなグレイゾーン案件が放置されたまま闇に葬られたという印象が、一般国民の脳中には間違いなく渦巻いており、到底安閑と哀悼追悼適わぬ心境に落ちるのだ。そういう意味で彼の死は一人の人間のありふれた死(死はありふれたものだ)とは決して言えないものがある。岸田の「国葬言上げ」などは、どうしても神経逆撫での、丁度あのコロナ禍の東京オリパラのような、時宜を得ない非政治的暴挙としか言いようもない。
参院選は自公維等改憲勢力の圧倒的勝利(安倍氏憤死の弔い合戦などと言われている)で終わり、向後誰が何を言おうがほぼ絶対的に動かない平和憲法への無駄な攻撃が繰り返される。敵基地攻撃なる物騒な議論も防衛費2%への拡大という好戦的にして野蛮な思惑も、到底国民に向けてまともになされるべき話ではない。コロナ禍でも議員報酬返上さえ誰一人言い出すものもなく、共闘すべき野党が、ああでもないこうでもないと言っては無様に与党の組織力の前に敢え無く潰える、その愚かしさは目も当てられない。
現在の野党には確かに政権担当能力はないだろう。共産党以外は自公系の保守停滞主義と大差なく、れいわの「正論」がどこまで打倒与党への武器として有効かを見定めねばならない。群小多党状況には時代閉塞の突破口は見いだせない、だから(国民の)代議員を選ぶ現行公職選挙には半数近くが「絶望」して棄権し(と思われる)、残りの半数にあって組織集票能力ばかりに長けた自公系政治集団が全有効有権者数の中の2割程度の支持で、絶対安定多数などという茶番劇がどこまでいっても絶えないわけだ。
「葉隠れ入門」に「武士道とは死ぬことと見つけたり」とある。安藤昌益並みに物申すなら、所詮無為徒食の「武士」などに生や死の本当の意味がわかろうはずもないが、もし武士道という理念的な「道」というものがあるとすれば、この階級的不公平を身に戴した有閑人種に残された真面目が唯一「死」であろうことは直ちに納得できる話ではある。三島由紀夫は彼自身戦時において最も近しく感じた「死」を通して考えないあらゆる現代思想を否定する。一方で今、戦争体験もない我々が「死」を想起するとき、どうしても(生死のやり取りが現実にあった)先の大戦と敗戦という歴史的経験に立ち戻らざるを得ない。そこにしか我々の生(せい)のリアリティが見いだせないということを実感する。どういうことか?
不確実性の時代に自然の脅威(地震、洪水、噴火、コロナ禍など)に怯えながら、拠所ない不安を抱えて動物的に死を恐れるというような、虚無感に満ちた生を生きなければならない我々現代人は、おのれらの生や死が何一つ意味を持たないと考えることには耐えられない霊長類として、その生と死へ精神的にアプローチするのだが、周辺を俄かに見渡してさえ何らの「義」のきっかけすら皆無と来ては、無差別殺人や自殺(死刑)願望の道連れ人殺しも「理由なき反抗」として時代を象徴しているとさえ思いたくもなろう。
安倍君のああいう死に方(決して英雄的でなく悲劇的でもない、ただ白昼夢のように無意味な死に方)はこの時代の閉塞性を暗示している。ある意味我々の誰もがそういう生き死にを味わうことになるかもしれない。
ネトウヨ、時代的モブ(社会的劣悪部分の集合)、日本会議、極右勢力らの非論理的「新自由主義」の横行。歴史修正主義。世の中あげて滅茶苦茶なposttruth現象が渦巻き、魑魅魍魎跋扈。人知が到底追いつかない自然界の襲撃に右往左往。何ら責任所在が問われない統治機構。国が国民をスラップ裁判にかけ、一民族に限って虐待する。
どこをとっても「義」は見いだせない。「国民のための政治」はなく、権力者の脳漿に宿った「妄想」から出る稚拙な「国家主義」が国民をないがしろにし国民は生活苦にあえぐ。「日本!死ね」は恐ろしいほどに現実的なうめき声ではないか。
あの戦争の敗北以来大和民族は死んだ、民族的矜持は潰えた。しかしそれはどうみても階級的上層部分の話であって、平たく言えば国民には何の関係もないことだったと思われる。このことを忘れてはならない。
天皇大権と知的選良階級(帝国官僚機構)----明治維新の歴史的跛行性と決定的な責任媒体の欠如、並び超国家主義的飛躍、神国幻想、非科学的観想、非論理的覇権的暴走---が織りなした度し難い玉砕性がこの国の敗戦までの国柄であり、その国は、盲目に皇国国体を死してさえ護るべく生きよとその民に強い、沖縄、広島、長崎を集中的に生贄とし、かつは、本土決戦など全く為す気概もなく、天皇国体護持が約束されたとたんもろ手を挙げてぶざまに降伏した。この瞬間大和民族の民族的矜持はかなぐり捨てられ、「死」と「生」は無意味な日常的雑事と化し、意味もなく「義」もない、動物的獣的在り様に堕したのだった。
安部君の死はそういう戦後日本の国柄を彷彿させる。アベガー(安倍氏批判媒体?)が悪いと言い出した文化人がいたが、事実は真逆の内容だったらしく、ここにも思い上がった非論理的な風潮を感じないわけにはいかない。