沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩407 日本の生き死に 21 安保破棄2

2013年06月30日 21時43分18秒 | 政治論

 例えば東日本大震災はこの国にとって本質的にどういう意味を齎した事件なのか

 新潟県知事が、福島第一原発事故検証の結論が出ないうちに柏崎刈羽原発再稼働の是非を問うことはできない、という見解を示したのは、極めて常識的なものである以上に、原子力規制委員会への強烈な「ダメ出し」であり、国の原子力政策の基本的な姿勢への自治体からの不信任動議であり、抑もこの未曾有の放射能被害を人為的に造出した張本人たる自民党政権への有罪告発なのだ。

 然り、福島第一原発事故の人為的犯罪的性格について日本国の人民は、人民裁判の立ち上げを論うべき責任がある。官邸前でシュプレヒコールを上げるのは結構だが、「蛙の面」にすぎない日本国宰相にいくら「小水」をぶっかけても、彼又は彼らは同じことを繰り返し強行するだけの話だ。

 沖縄県はこれがために戦後の県民人生を「煮え湯」と「冷水」で待遇させられた。司法権が腐りきっているうえに、立法府の徒輩は党利党略、政争と、愚にもつかぬ非本質論議に血税を浪費する大泥棒どもであり、今やこの国は「人間の住む国」ではなくなった、人間が住めない国に成り下がった。

 とりわけ福島県は文字通り、まともに人間が平然とその生活と生存を不安なく継続する何らの保証も到底得られずに、仕方なく住まわされる土地になってしまったし、その近辺周辺乃至ほぼ東日本の大半を、放射性物質の量的計測のうちにおっかなびっくり暮らす地域に貶めた。

 未だに臆面もなく群を成す「原子力ムラ」集団の犯罪的無責任が、何のおとがめもなく忘れ去られるなら、この国の国としての生命は尽きたのだとしか言い様もない。こうした犯罪的人災に対する劫罰は神の領域ではなく、我々人民による罪状明示如何にかかっている。

 一方こうした非人間的な国柄に落ちたこの国は、その根本をアメリカ合衆国という異国の様々な干渉と恫喝、威圧、謀略、植民地支配意思によって牛耳られているということは既に指摘されていることであるが、就中日米安全保障条約という、沖縄ほか数箇所が押し付けられている以外は、ほぼどこにも不動産提供を拒否されている幻想的軍事同盟が、「破棄通告」のみで解消する外交上極めて単純なものにすぎないので、これがために人民が強いられている幻想的安保税負担を取り払い、真に自国の現状に向き合い、人間的情調の回復に務めるために、即刻安保の破棄へシフトすべきと心得る。(つづく)


詩407 日本の生き死に 20 安保破棄1

2013年06月29日 19時22分35秒 | 政治論

 文民の統制力が効かないという実情にある。文明が開化したはずなのに何故、かくも非文明な状況がまかり通るのか、この実態について自身の「及ばざる力」という気味の表現で、例えば芥川龍之介は「畢竟理性は無力だ」といい、石川啄木は「時代閉塞の現状」を指摘し、漱石は「則天去私」の「個人主義」に一定の可能性乃至ゼロ地帯の活路を見ようとし、鴎外は「かのように」や「最後の一句」で時代批判と権力の相克関係に個々の民衆の詩的な抵抗意思を喚起しようとし、三島由紀夫はおよそ国軍たる士気にない自衛隊員に絶望し割腹する。

 つまり単純に言えば日本のシビリアンコントロールは必ず失敗する歴史であった。例えば激越で酷たらしい軍官民混在の玉砕戦だった沖縄戦という歴史的実体験は、おじいやおばあの「二度とあの戦争は繰り返したくない」という切実な思いを、肉声や文芸、絵画、映像によって戦後の我々に生々しく伝えているのは間違いないが、これを見聞きしようが、あるいはすまいが、安倍晋三は内閣挙げて憲法を改悪し戦争のできる法体系を整備しようと、戦前の「軍国主義」へまっしぐらに突き進んでいる。この男が一度その目論見に挫折したあと、反対勢力(民主政権)の追い落としに成功し再度政権を奪還するや新たに身につけた世論籠絡術を巧みに駆使して所謂根も葉もない支持率に馬鹿高い数字を叩き出し初期段階はほぼ順調さをアピールする展開に操作されている。

 辺野古のことは簡単に言うとアメリカ政府にとっては何年かかってもいいから、既得の「思いやり予算」やら地位協定に守られた別天地たるリゾート駐留の癒しやら、100年経過してもベッタリはりついている敗戦国日本という従属傀儡国家確保の担保として取っておくだけの話だ。沖縄は日米関係の実質的な命綱であり、この退っ引きならぬ状況は日本政府の決断による日米安保破棄以外に改善の余地はない。しかも沖縄特化している限りは(安保破棄は)日本国自身のいかなる切実な要求にもなりえない。では我々は何をなすべきか。(つづく)


詩407 日本の生き死に 19 慰霊3 司法の堕落

2013年06月27日 16時46分20秒 | 政治論

 福岡高裁那覇支部の高江通行妨害訴訟控訴審(今泉秀和裁判長)は「ヒラメ裁判官」そのものというべきこの裁判の判事の正体を暴露しているが、実はこれがとりわけ戦後日本国の司法権が有する実態であり、この場合は明らかに憲法9条違背の日米同盟を優先する国家施策のお先棒を司法の側が率先担いだことを意味し、高裁の判事たちが「ヒラメの目」で見ているこの国の国策が徐々に「軍国主義」を翼賛的に実現しようという表れであり、当然ながら7月に入っていよいよ再開するオスプレイパッド建設にとって「邪魔者」たる住民活動へ一定の権力的圧迫感を醸し出そうという魂胆が見えてくる。

 残念ながら「銃剣とブルドーザー」的な強権主義、米帝植民地主義の犯罪的傾向は覆い難いその醜悪な姿を露骨に見せ始めた。ここにきての参議院選とは烏合の衆と化した現行国政の代議員を選び出すということでなく、人民が自身の目と耳で見聞きした通りの事実を正確に評価し、誰彼の申すところに従うのでなく、自身がその悟性を駆使して考え認識し判断することに極まる。既に間接民主主義は有名無実化しているのであり、現行選挙制度そのものが実質破綻しているとみていいのであり、もし国政への参加がその選挙においてしか有効でないのなら我々の行動はもっと別のところに赴くはずだ。(つづく)


詩407 日本の生き死に 18 慰霊2

2013年06月25日 19時35分56秒 | 政治論

 沖縄戦は特殊な軍略(本土防衛の捨石、本土決戦の引き伸ばし)に基づく異例の地上戦(日本唯一の地上戦、ではなく、民間人を巻き込んだ市街山地戦)ということができるが、それでも被害県民は原爆や空襲(東京など)の被害者と同列に看做される必要がある。つまり通常の戦争犠牲者にほかならない。

 しかしながらかつて他のどんな場所での戦闘にも見られなかったか、あるいはそれがあっても余り問題視されなかったであろういくつかの特徴的な戦争真実(集団強制死、軍による一般人殺害、壕からの追い出しなど)が展開された事実には、今にして到底許されない非人道的意味があるはずだ。そして一番重要な特異点はこの戦争が(8月15日以降)他の地では行われなかったのに、ここでは占領支配という形(アメリカー世)で、又占領者の軍事展開がその後も継続してこの地を利用して行われている(在沖米軍基地)という、言わば未だに戦争の気配を消し去っていないという事実だ。

 戦争の傷は癒えない。体験者の4割以上がPTSDに苦しめられている事実の可能性についての報告があった。この地で展開する米軍の存在が「戦争」の記憶をここに押しとどめ続けている。公共放送もあるいは各種メデアもここでは日常的に「戦争について」語る。だから沖縄と沖縄戦は、日本国のなかでは特殊にして特異な扱われ方をされる必然性を有する。

 6月23日は、沖縄戦における組織的戦闘の終結を意味するのではない、この日を「慰霊の日」とするのは、4月28日を「屈辱の日」とするように、第32軍の首領たちが無様に自決し去ったあと残された沖縄県民が「玉砕」に向け南下し文字通り皇国の皇民たる最後の一人まで戦わされた悲劇の始まりだからだ。9月7日降伏調印までそれは終わらない。(つづく)


詩407 日本の生き死に 17 慰霊1

2013年06月25日 08時52分30秒 | 政治論

 沖縄戦。

 戦後の、徐々に支配的となる米軍民政府統治、占領地意識に包まれた米兵犯罪、地位協定の沖縄県民に対する奴隷的植民的非人間的行為の数々、基地負担軽減など洟も引っ掛けない米国政府の沖縄軍事要塞化計画とその実行、沖縄の苦難受難に対し一度として寄り添うことのない日本政府の官僚的施策、そして何よりも沖縄戦。

 広島長崎の原爆はその日(8月6日、9日)一瞬にして数万の人間存在を消し去ったが、その日から現在まで絶える事なく多くの「後遺症」患者を増産し続けてきた。戦後66年目にして今度は福島で自ら準備した核施設の爆発で日本人にとって何度目かの被曝を繰り返すことになった。戦後体制を容認した「自業自得」といえばそれまでだが、現在もそうした原発立地自治体は「生活生存のため」再稼働する方向へ流れようとしている。彼らに「フクシマ」は何を情報として伝えたか、あるいは彼らは「フクシマ」から何を知ったのか、この国は中央から地方まで正常な人間的反応を阻害する「何か」とんでもないものに支配されているとしか言い様もない。しかもこの国の総理大臣は自ら出向いて諸外国への「原発セールス」に励むという、気違いじみた行動に走っている。

 さて沖縄戦は先ず1945年3月26日、那覇の西40キロにある慶良間諸島での戦闘から始まった。所謂「集団強制死」事件が起きた。これはその後日本兵が駐留した土地に特徴的に生じた極めて異常な異様な事件であり、同時に軍が住民を「スパイ視」して虐殺するということも起きた。降伏した住民が投降を促すために戻ってきて殺されるし、食糧難から畑の作物を、夜間盗ろうとして殺されもした。こうしたできごとは「軍隊は住民を守らない」という明瞭な教訓を垂れた。この教訓は戦後の沖縄に「非戦」の思いを島ぐるみで貫く意思となって顕現している。

 普天間返還という「負担軽減」は、如何にしても「代替」としての辺野古新設にはなり得ないことを、常識的にそうだと考えている、140万県民が住する土地と空間、海域に軍事的展開を容認するいわれは全くない。彼ら異国の軍隊の発するけたたましい音響に絶えずさらされるこの特殊な環境を、「国の安全保障」から我慢するように日本政府が言うならそれはつまり明かな「軍国主義」であり、現在の県民の「安全」は国の保障対象にならないということだ。当然人権問題そのものだが、彼らは今度は憲法を「国民の義務」の方向へ転換しようとしている。沖縄から見る限りこの国は「国民の権利」は到底守られそうにないので発想を逆転しようというわけだ。(つづく)


詩407 日本の生き死に 16 奴隷社会

2013年06月24日 07時40分07秒 | 政治論

 自公政権の、「棚ぼた」的な、荷重を割り振らない多数決原理による安定多数国政他地方自治(しかも低投票率)という傾向が今次都議選も含め公職選挙に顕著に見られることから、選挙結果に関し「民主主義」の本質が反映されない実態が浮き彫りとなり、自民党に突出している「憲法改悪、再軍備核武装国軍創設」路線のヒトラーナチス的「衆愚政治」全体主義の悪魔的実現に向けいよいよ国をあげての行進が加速し始めた。しかしながら安倍政権の「夢のような」軍国主義復活の狼煙は、「アベノミクス」なる市場経済主義非実体幻想に幻惑されながら現況ただ根拠のない「期待感」を綯い交ぜてウッスラ揺らいでいるだけで、前面に押し出されてないため国民の「危機感」に未だ火をつけるに至ってない。むしろ議席の持つ「代議」の荷重が均等でない傾向にある間接民主主義、という実態を覆い隠す歴史の反動状態を自公政権が権力維持のために悪用し囲い込み運動にその情報諜報陰謀テクノロジーを駆使するとすれば、人民による「文民統制」が立ち遅れ縛り上げられ身動きならぬ翼賛政治にしてやられる事態に引きずり込まれる、恐るべき奴隷社会が現実のものとなる。(つづく)


詩407 日本の生き死に 15 世界性その3

2013年06月22日 07時12分31秒 | 政治論

 天皇という存在は、現人神とされた戦前の皇民化教育にあっては「人」のなりをしながら「人」そのものではないので、例えば通常の人間なら当然に負わされる公的社会的群的な縛りの中での責任性を帯びた言動について「人」としてその功罪を問われることがない存在であった。

 「神」という絶対者である以上、初めからその言動乃至意思が、何をおいても真正のものとして人が「恭しくお受けする」ものであったわけだ。だが、敗戦後この絶対者は「人間宣言」した。「人」のなり、だけでなく「人」そのものだと自ら告白?したのである。

 彼のこの宣言は彼自身の中ではどれほどの重みを持ってたのだろうか。つまり彼は本当に自分を神と思っていたのだろうか。そしてこの場合の「神」とはその全ての言動と意思が唯一無二の真正さを持つものとして自認されたものだったのだろうか。しかし、そうであるならこの「人間宣言」は単なる真相暴露以外の意味はなく、「宣言」などというのは甚だおこがましいと通常なら思われる。

 このからくりを当時の日本人はどうして見抜かなかったのだろうか。我々も大概はこうした見え透いた陥穽にまんまと引っかかった部類なのだが、言ってみればポツダム宣言と玉音放送に仕掛けられていた、この国とアメリカ政府との「談合」(ポツダム宣言の裏工作では既に国体護持が諮られていた)は結局だまし絵のような天皇の延命に成功し、東京裁判を演じきる舞台作りに決着をつけたということになる(玉音放送時、天皇は自身の延命を確保していた)

 その後の天皇とマッカーサーの猿芝居は周知の通りだ。第一級戦争犯罪人と指定されて当然の天皇が、その重大な意味を持つ地位の「人間」にもかかわらず、最初からその国際司法的追及の矢面から外されたなら、この東京裁判自体が根本的に「骨抜き」され、「戦争犯罪」という史上絶無の「犯罪」立証事案として成立しないことは誰にでもわかろう。

 日本の戦後は、初っ端から嘘で塗り固められた「国体」の恥知らずな延命によって、旧大日本帝国的国柄のまま、その「世界性からの脱落」を確定してしまったのだった。

 アメリカは日本の「日陰者」的戦後の庇護者然と、様々な「干渉」と植民行為(とりわけ沖縄において)に血道を上げたわけだが、天皇問題で恩を売った以上、日本の超エリートたちがどういうわけか、いつも既得権のように「保守反動」体制作りに邁進することと実にピッタリ呼吸が合ったのだった。この明瞭に「傀儡国家」そのものである国体のために、天皇は結局「象徴」という「間」に追いやられたが、騙され続ける国民はこれを自身が選んだ「無条件に尊崇し親愛する対象」として、さながらペットのように無邪気に受け入れた気配だ。(つづく)


詩407 日本の生き死に 14 世界性その2

2013年06月20日 23時45分39秒 | 政治論

 何故日本は世界性から脱落することになるのか。この問自体に答えがある。

 抑もこの島国に古来異人種、他民族、攻撃的外敵、が造作もなく侵入することなどありえない話ではあった。その比較で言えば絶えず北方からの外敵に狙われねばならない中国などは安閑と自己満足に浸っている余裕などない国情にあった。

 敵は、身内にさえ忽然と立ち現れるような明日をも知れぬ生存競争下にあって日々の「自己更新」は切実な要請であったのだろう。それは自身の座している所が即座に「世界」であるべく練磨される命の剣そのものであった。「中華」という概念、即ち「世界性」という人生観だ。

 江戸幕府において封建的中央集権国家体制を完成させるには、「鎖国」は自然地政学以前に人為的リストラクチュアのため、どうしても要求される安全保障要件だった。

 将軍は日本国に関し美辞麗句で着飾る必要性にない。彼の人生観は、種族保存の一点にしかない。さてここに言う世界性とは何か。

 酷薄な現実は、生存の営為をもってその持続性永遠性に絶対価値を置かざるを得まい。一家はその家名保存に、一国はその威勢の維持に、ひたすら加担し続ける。これを獣性への仮託、又は本能への輪廻的回帰と名付けようか。

 当然ながらそこに世界性は皆無である。あるとすればひたすら種付けに勤しむ動物が一匹特権的に異性を独占するということ、つまり人間の究極をリピドーに仮託し(分析された精神でなく)繁殖を合目的化することである。これはもしかすると200年以上を安泰に治世した江戸徳川幕藩体制の、単なる印象に過ぎないかも知れない。

 日本史上唯ひとり世界性の可能性を示したのは聖徳太子であろうが、それ故に太子の生涯事跡伝説奇談には神格化した空気感が漂っているが、世界性の究極表現が「宗教」じみてくるのは致し方ない。

 イエス、ムハンマド、仏陀、言わずとも、この、人とも神とも名づけ難い奇跡の具現者は彼らの言動自体が世界性にあった。だが「あなたの心の中に神がいる」としたイエスは嘘をついているわけではない、「人の子」はイエスだが「女から生まれたもの」は誰でも「人の子」にほかならず、故郷の地でイエスは「彼も人の子ではないか。マリアとヨセフの息子じゃないか」と言われその宣教活動の実をあげ得なかった。これを何げに聖書は素通りしているが、この事件を評価するとつまりは「世界性」からの脱落にほかならず、誰でもその出自からは生命の原基以外に如何なる価値も生み出し得ない。(つづく)


詩407 日本の生き死に 13 世界性

2013年06月18日 10時30分35秒 | 政治論

 大日本帝国の敗戦は、欧米流に言えば戦争行為としてはありきたりな一事件に過ぎず、例えばアーリア人絶対主義のナチスドイツが、暴力と凶悪性、犯罪的な排他主義に縁どられた稀に見る反世界性に満ちていたというのと比較すれば、泥沼の日中戦も真珠湾、南方戦線も、通常の戦争行為として見られてなんら違和感を覚えないものと看做される。

 この見方考え方においては、戦後日本の歩み方についての「自虐史観」という印象も少なからず肯えるものなのだが所詮印象に過ぎず、むしろ消極的自虐史観という評価がしっくりくる。

 この消極性にあっては官僚的発想を予感するものだが、一般的には「敗戦」は「敗北」であり「(戦勝国に)何をされても大方は受け入れるしかない」という本音に落ち着くのであり、そこに越えられない人間的姿勢を見出すしか方途はないということになる。

 一方9条の「戦争放棄」はこのこととはなんの関係もない。つまりそれこそが積極的歴史観であり、戦争の持つ「世界性」への「申し開き」にほかならず、言ってみれば世界に対して「申し訳ありませんでした。私たちはもう二度と戦争を起こしません」と宣言したのだった。

 これを、アメリカ合衆国等連合国が日本国に押し付けたわび証文と見るのが現憲法改悪グループの見方考え方であり、彼らの中に欠けている「世界性」から、史実改竄、「資料が見当たらないから事件はなかったことになる」という歴史学的判断のミステーク、というあられもない醜態を晒すことになった。

 彼らは大嘘つきどもだから、国民を搦手から徐々に囲い込み、がんじがらめに縛り上げて、やがて人々が気がつかないうちに戦場に駆り立てられるという結果へ導くのだ。

 世界の常識は、日本国は既に自衛隊という軍隊と日米軍事同盟という戦争行為準備段階を完遂し、いつでも戦争ができる国にする法整備段階を経過していると見ている。

 従って安倍晋三という軍国主義者は、時宜を得て(その復古的政治思想の具現化のため)再登場したのであり、戦争無知世代が大半である、その他の「軍国主義亜流」どもがこれに追随して、現今「日米安保堅持」論者の土性骨を形成しつつある。

 日本国は勿論単独で戦争をするエネルギーを有しないから、国防軍=自衛隊は米軍の補助部隊にほかならず、彼らの実戦場は今のところ災害現場以外にない。しかも喧伝するほど自衛隊が、組織的効率的効果的救助能力を遺憾なく発揮したかといえば、民主も自民も「政治機能不全状態」を脱しえず、この政府の指揮系統では恐らくは「人間らしい」難民救難事業は途絶してしまっている。

 原発再稼働、原発輸出、が「フクシマ」を通常の災害地にしてしまうことは目に見えている(地域特化の限定処理)。「フクシマ」から発した被爆国日本の宣言性がここで無様な失墜という事態に至った。安倍政権がした犯罪的政治行為だ。


詩407 日本の生き死に 12 世界史

2013年06月15日 07時52分33秒 | 政治論

 欧米の帝国主義(資本主義の最高段階)が、アジア・アフリカ・東洋を植民地化していった19世紀から20世紀初頭にかけての産軍複合+市場開拓経済活動(当時はこれにイデオロギーも加わる)において、日本の超国家主義が「大アジア」主義を標榜したことは蓋し故なきことではない。

 今歴史学的評価を問わずに眺望すれば、一切の粉飾を取り払うと途端に「侵略行為」「軍事制圧」「強者の論理」が一筋に浮かび上がり、21世紀米帝国主義の覇権主義に流れ込む劇的な潮流が見えてくる。

 西洋が没落していくというのに、何故アメリカ合衆国は世界の覇者になり得たか。当然その巨大資本たる国土と独立戦争以来の「愛国的全体主義」に集結した人民軍(必ずしも軍事組織ではない)の存在、アメリカンドリームに代表される「自由主義」の無際限な可能性、殺人(戦争)と神への祈りが渾然と同居しうる超楽天的精神性と倫理感(あるいはこれを黙殺する国家的ダイナミズム)、このようなこの国独自の運命的成り立ちに起因することは言うまでもない。

 この国が自滅する何事かが生起しない限り、パクスアメリカーナは21世紀中に崩壊することはあるまい。しかし彼らの覇権主義、世界警察意識、あるいは武力による単一民族の自動的制圧は、今後も決して十分な成果と実質的遂行の可能性を示唆することはない。

 現にベトナム、イラク、アフガン等彼らが手がけた「戦争」が、「平和」を齎した実例は皆無であり、地域紛争はむしろいよいよ激化する有様だ。

 一方、テロと銘打った反米戦線は「報復テロ」の脅威を綯い交ぜながら、中東近辺からアラブ、南方アジア周辺にかけていよいよきな臭い傾向を醸している。米中対決という実質的世界覇権的局面を迎えた今世紀、我々に必要なのは世界史的視野という巨視(マクロ)にほかならないが、所謂「格差社会」を自動生産させた資本主義が、今後も増産する地域特化現象については個々に、正確な見通しを持って対処することが求められる。とりわけ日本国で差別的に特化した琉球に関しては、本土が迫る国家安保の担保物件化に抗する真剣な抵抗運動なしに、地方自治の自律的権利獲得の実を上げることはできない。「独立」への道筋はその先に偶成するのかもしれない。(つづく)


詩407 日本の生き死に 11 暴動

2013年06月13日 09時57分10秒 | 政治論

 1970年12月20日未明、沖縄県コザ市(現沖縄市)で起きた所謂「コザ暴動(騒動とも)」に関して、司法的には決着しているがその歴史的評価に関して、未だに当時の琉球新報社説以上の論説を加えたものに出会わない。

 社説の骨子は、これを「日米政府に対する沖縄県民(復帰前でそのときは県民でなかったが)の衝撃性警告」と位置づけた。

 その暴動を指揮した首魁の存在について論う(特に瀬長亀次郎に対する)検察陣は当時もあったらしいが、当然憶測の域を出ない。結局米軍関係車両だけを襲った偶発テロにしては極めて統制された行動始末に違和感をおぼえた治安当局の勘ぐりに終わったのだが、新報の見方でさえ、むしろ組織テロの可能性を示唆しないこともないニュアンスにあり、当事者に軍労関係者が散見されたこともあって、沖縄人民行動の特徴的な性格としてよりも、曖昧ながら、突出したイデオローグを予感される空気もないことはないのだった。

 しかしながらこれは本土並みの、沖縄に対する「穿っているようで穿ってない」、的を射ない論調一般に共通する愚考に過ぎず、「荒れ果てた人間性」に陥っている本土に対し、豊潤な人間性に満たされた昔ながらの風土に根付く「ユイマール精神」が醸し出す、琉球的行動形式を意味するものと筆者は思ったりしている。現今琉球沖縄で展開する民衆行動を「本土の活動家の扇動」と見る右翼系軍国主義亜流どもの根拠のない論調論難は問題外だが、かつて確実に整然とした民衆の抗議行動が日米政府に対する「警告」として無血的「暴力」を選択した歴史があることを、半可通で不勉強な本土政治家はじめ識者たちははっきりと認知しなければならない。(つづく)


詩407 日本の生き死に 10 自分で判断しろ

2013年06月10日 07時08分47秒 | 政治論

 「裁判員拒否のすすめ」(WAVE出版2009年)という本を読んでいたら「陪審裁判にとって、他人(捜査機関)の判断を前提にして、自分の判断にするということは全くありません。他人の判断を自分の判断とは決してしないという点が、民主主義にとって最も重要な要素なのです。」という一文に遭遇し、共著者のひとり生田暉雄氏の何気ない一言によって、氏の法曹人生の一端に触れた気がされた。

 氏は大阪高裁判事を最後に官僚司法人を退任し弁護士となった。その人権活動については詳細を知らないが、所謂「ヒラメ裁判官」呼称はつとに巷間に知れ渡っている。ヒラメのように政治権力、公権力、に「上目遣いをする」裁判官のことで、捻じ曲げられた司法権の代表格だが、実は日本国では、こうした構造的本質悪が堂々とまかり通っている国柄にある、ということにこそ、この国の末期的症状が如実に示されているということなのだ。

 ところで実にわかりやすく力強い厳守すべき民主主義の要件に関する定義なのだが、日本国民が現況何げに陥っている、「自己判断」でないところからやってくる「他人の判断」による意見というものに左右される性格は、実はまさしく先の大戦におけるシビリアンコントロール欠如事態を招いた元凶であるといって過言でないし、当時の民衆どうしの監視懲罰排除主義にも、体制や集団心理に打ち負かされる脆弱な自律精神が醸し出す、一億総白痴化現象を見ることができる。

 我々に本来備わっている「懐疑精神」というものは、無益に唯やたらに「うたぐりぶかく」なっているわけではない。敦賀原発の直下に活断層が走っている、それは地震動に拠らずとも断層の変移によって原発建家自体が破壊されることを意味する(小出裕章氏説明)が、2号機単独の爆発で収まらず他機にも破壊的影響を及ぼすことさえ想定されるわけで、2号機のみの廃炉ばかりかほかの原子炉も廃炉にすべき事案ではないかといった疑惑が当然に生じるし、同様に世界に冠たる地震国に58基もの原発を次々と認可建設していった、その驚くべき安全保障感覚の欠如に気づいて、いかにしても押し留めることができなかったのかと、この国の民を疑う。

 一方、これほどに騒然たる民意が南西の海から海鳴りのごとく鳴り響いているのに、未だに国民総意のレベルで、沖縄米軍基地偏向存在に異議申し立てしない群集的な「事勿れ主義」、「我関せず主義」「対岸の火事意識」に捕らわれているこの国の常民の質に、非常な危機感を覚えないわけには行かない。(つづく)


詩407 日本の生き死に 9 現状

2013年06月08日 23時20分33秒 | 政治論

 橋下あるいは石原又は維新立ち上がれその他の折衷主義的不鮮明政治姿勢が陥っている日和見主義が、彼ら自身の墓穴を掘る事態に差し掛かっているのは自業自得とはいえこれが日本の戦後民主主義の成れの果てという、しかも新たに意匠を凝らして画期的旗幟鮮明な動きの気配すら絶無な当今の政治状況を見るに付け日本国自体が21世紀のこの時点で、「事此処に畢った」という現実を感じないわけには行かない。

 筆者の罪過は、こうした結論を導き出すことにさえ少しも楽しまない自身のペシミズムにあるのだろうが、かと言ってこうした日本の実情に論理的弁証を加え一分の隙もなくこき下ろしてみたところでささやかな希望なんぞが湧き出す保証は少しもないのも事実だ。従ってこのようなブログで徒然な「言いたい放題」を書き連ねるのもどちらかといえば暇つぶし、手遊び、気休め、手慰みの域を脱し得ないという、情けない状況ではある。

 ここ琉球島嶼の北端の本島北部に移住して現在6年目を経過しているところだが、上述のような感懐は、ここでは誰しも持つ琉球に対する機能不全政治実態として、この国に対しいよいよ増殖する傾向が常態化する勢いにある。それを「差別」「差別性」と名づけたところで如何ともしがたい。「問答無用」の植民政策に駆られるアメリカ合衆国と、これを黙認追認増援する日本国政府と、このふたつの「理不尽な」国家体制が、日本の一行政単位に過ぎない弱小地方自治体に対し、他府県では到底起こりえない非人道的人権無視の行為を不断に継続して、今後益々欺瞞めいたカモフラージュを作為しながら政争や個人的つぶやきすら公然と綯い交ぜ、し続けるということが、なんら理念的に非難もされず突き上げもないまま無事に済むとは到底思えないのだが、永い不如意な時間の空費感はとりわけ前政権時の体たらく以来日増しに痛切になってきていて、近頃アメリカ辺で無差別な発砲事件が多発するように、この地にもいつか暴発する憤懣というのがありえないとはいえない。

 むしろ事態はもっとはるかに深刻かも知れない。本土の感触はこの地が極めて穏便に処し結果的に言うがまま強引に押さえ込まれる風情で経過していると思われている。一見「非暴力不服従」が無力なひ弱な勢力しかないものと見られがちではある。だが歴史的視点で見れば明らかにこの抵抗運動は米帝国主義の植民地支配とこれに傀儡する日本国政府の対米追随国内人民無視非人間的統治に対する屈服しない民衆の人権回復行為にほかならず、辺野古座り込み、高江抗議活動、普天間ゲート前座り込み、他嘉手納爆音普天間爆音訴訟等、凋落する日本の、戦後民衆行動を島ぐるみで展開する、かつてガンジーが大英帝国政府に対し試み成功させた独立運動に匹敵する意味合いの歴史的評価を齎らすものだ。(つづく)


詩407 日本の生き死に 8 真の現実というもの

2013年06月06日 17時34分57秒 | 政治論

 一人のまじめなテロリストが、安倍晋三に銃口を突きつけ「死にたくないか」と問い、やつが「死にたくない」といったなら、「その気持ちが、目の前に同じ人間の爆裂死体を見なければならなかった戦争体験者の、お前さん方にほんとうに言いたいことだ」と、彼テロリストは言うだろう。参謀本部のお偉方が「やってみなきゃわからない」程度の戦争感覚で「一億玉砕」必敗戦争に突入したのがあの戦争だよ。二度と同じ体験はしたくないと言い、子や孫にさせたくないと言う。沖縄ではほぼ毎日のように公共放送で「沖縄戦」に関する報道レポートを流している。これを、事実に基づかない作り話で繰り返すなら、まさしく戦前の皇民化教育と同じ心理操作となろうが、むしろ、自ら語りたがらないほどに「痛切な」体験として存在するそれを、我らのおじいやおばあたちは、様々な心情、複雑な感情の中に「選み取った」ひとつひとつの言葉で、子や孫、国や政治家に言い伝えようとするのだ。沖縄ではまさしくこれを現実主義という。相対化し日和見化する現実主義もどきが、「ありのまま」に見ているという現実は、実は物事の全くの一面でしかなく、何ら痛切にして切迫したものの真相には肉薄しない。(つづく) 


詩407 日本の生き死に 7 愛せない国

2013年06月05日 12時22分16秒 | 政治論

 浜の真砂が尽きるとも世に泥棒の種は尽くまじ、は大盗石川の五右衛門が辞世の一節らしいが、「悪」というものが根絶やしになることも決してあり得ないだろうことはいかにも頷ける事実ではある。太宰治は「家庭の幸福、諸悪の根源」とか言っていたが大きにその通りではないか。五右衛門も政治家も凶悪犯ももとは「家庭」から生じたモノに違いはない。人の世の百鬼夜行魑魅魍魎が跋扈するのも「人の子」を出自とすることに相違はない。だから元を正せばまさしく肯んぜない赤児の姿をしているに決まっている。純粋なものが不純に染まり徐々に悪へとなだれ込むのはむしろ自然の理である。従って我々の戦いは自己自身に立ち返ることでもあり、「お前の敵はお前だ」というパラドクスを噛み締めることになる。基本的な現実認識の初めはここにしかない。政治が執り行える範囲に人間に関する本質的試みがあるとは誰も思わないだろう。この国の大戦戦後の歩みには敗戦国という不純な条件が付き纏った。敗戦という事実は国家の戦後的歩みをどのように縛り付けたか。しかしその国の民はいかにして敗戦と関わり条件付けられ、自身の生活生存全般にその影を、どう落とすものなのか。例えば靖国に合祀された戦犯たる7人の国家指導者が死をもって断罪された事実により、我々はいかなる戦犯的責任からも免罪されたことになるのだろうか。国の民は国の過ちを全く与り知らぬ政治的軍事的専従行為として切り離し得るものなのか。(三島由紀夫がかつて朝日に書いていたが)「愛国心」は恋愛のようなもので、昭和天皇なんぞはどう見ても恋愛の対象足りえない、少なくとも戦後世代のうちにかかる熱烈な愛国心めいたナショナリズムが浸透するとは思えず、あらゆる右翼的言辞に大嘘を発見するのはむしろ容易ではある(ゲテモノ食い、蓼食う虫の類なら話は別だ)。愛せない国柄(敗戦後愛せなくなったという事情もある)に面してどうやって我々の先達が犯した罪過の一端でも引き受けられようか。しかし多くの局面で世界の外交的状況はこの国に、従ってこの国の民にさえその負の遺産を誰ということもなく負わせる形勢を醸し出している。これはまさしく第一に国内での問題提起としてこの国の維新以来の総合的な検証が不足しているということを裏付けているのだ。(つづく)