沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

この国の終わり 米軍基地由来の第6波 その2

2022年01月28日 11時45分40秒 | 政治論

 こと沖縄に関しては、日本国及び米国により地域分断策という植民地政策(軍事植民地扱い)が執られているので、実は何が起こってもおかしくない(この度の名護市長選や南城市長選のように)というのが実情で、例えば報道ではそのタイトルに必ず「辺野古移設」(実際は同じ県内に北部ヘリパッドと一体化してより強化された新たな軍事基地を造作すること)というキーワードのもと、此れを巡る国と沖縄の駆け引き乃至攻防、というふうに彩るのだが(名護市長選では自公系候補のその争点外しがこれ見よがしに行われた)、本来(正常な国柄であったなら)あり得ない、国と単一地方自治体のゲーム的対立関係が闡明され、結果市民あるいは県民は奇妙な「(望まざる政治的局面の国家による)押しつけ」としかいいようもない、不可能な二者択一を迫られるわけだ(こんな自治体は他にない)。事実上これこそが国の狙いで、まさに地域を民意的に分断し、分散させ、かくして糾合しない民意(オール沖縄は退潮気味など)という構図をでっちあげるのである(ネトウヨどもの恰好の標的、沖縄いじめの好餌となる、ヤフコメなど)。逆に、移設反対派の勝利しようが何しようがこれを無視し、むしろ踏みにじって現行工事(高江・辺野古)を強行させてきたのが特に安部・菅政権の国家主義的やり方だった(何のための民意か)。選挙工作が薄汚く行われる(官房機密費とか)自公政権に限らず、日本国の対沖縄国策は露骨に差別的に執行されてきたし、これからも同様であろう(としか言えない)。このことを沖縄は肝に銘じなければならない。

 元々敗戦後、欧米戦勝国が牛耳る国際連合なるまがい物(連合などという欺瞞的な名称は当初からその実質を確実に損ねてきた)の所為で、永続的「敵国条項」に縛り付けられ、現今(トランプ以来)落ち目のパクスアメリカーナの、思いあがった世界覇権主義にすっかり「傀儡国家」(戦前米国では既にその企みが明確に仕掛けられていたのはよく知られている事実だ)としての欧米圏囲い込みが成った日本国(極東の防共最前線)は、ネトウヨどもが意味もなくがなり立てているように、この「負け犬の遠吠え」以外の在り方を知らない。

 完全な治外法権、二重基準(米国内・外での基準の格差)の地位協定そのものがどのようにいじられても(自公政権では事あるごとに、ゆるゆるの異議申し立て程度で済まされている)、日米安保体制という、即戦性も現実的機能も実質適用されるわけもない軍事同盟(幻想的核の傘)が解消されぬ限り(無条件の軍事用不動産無償提供の奴隷的約定を取っ払わない限り)、日本国そのものはもとより沖縄のこの消化不良な非現代的隷従境遇は永続的に取り残され続けるだろう。

 名護市長選は先の稲嶺氏の落選以来二度続けて移設放任派(論点外し)の渡具知氏が勝った、しかも大差をつけて。茂木などは大喜びだそうだが、ちゃんちゃらおかしい。自らの身に引き替えたら、どちらにしてもアメリカの属国身分が恥知らずに引き継がれているだけなのに。コロナ禍で、ほぼ尋常ならざる精神状況を強いられる市民県民が、国のありように絶望して「なんでもあり」の心理状態で、経済重視などと変質しても仕方がないことはわかりきったことじゃないか?

 茶番としか言いようもない。過去最低?の投票率は、この国のやり方に対する無言の抗議であり、アメと鞭、「米軍再編交付金」という札びら切り(移設反対派が市長になると途端に不交付とされた、これが決定的な事実関係だ)、振興策という名の騙し絵(決して法外な振興予算ではないし、実態は後進県の中で特に突出しているわけでもない)、自治体に対する憲法違反の自治性侵犯(国が自治体を訴えるという話)、いずれにしろ全て沖縄では米軍基地温存推進のための大っぴらな環境整備にほかならない。ただ単に敗戦国として戦勝国に卑屈に媚びるために?

 オミクロン株による第6波は日本ではほぼ確実に米軍基地由来と目された(その後そのことを問題にして何事かが始まった形跡はない)。但し、その後の爆発的感染拡大は国民自身が招いた自業自得の在り様(第5波収斂傾向に踊らされた)で、大元は国家政府の、自公政権の煮え切らぬ、自己保存本能がなせる無策、愚策、悪策、責任逃れの「玉虫色」施策と言える。このような政治集団を(消極的にも)頭にいただいた国民が愚かなのだが、その事実を誰も認めない、この国民性が先の大戦の大きな遠因にもなっていたと考える。(ところで、沖縄人についても同じことが言える、事大主義や裏切り行為などむしろ内地人よりたちが悪い。これを沖縄学の泰斗伊波普猷は、完膚なきまでにこき下ろしていた。尤も彼は明治期のあの時代背景のもと、後進地そのものの琉球を立ち直させようと日琉同祖論など、勢い勇み足的な批評批判を加えたともいえるようだ。)

 人流より人数制限を、とかホームステイは必要ないとかいう尾身氏のよくわからない発言は、経済活動等日常的営み(人流)の制御より、集団化、集合化を避ける行動を、という意味合いらしい。具体的にはどうか、例えば今更だがスポーツイベントなど不作為の観客動員の場合、ソーシャルデスタンスや人数制限を加えることが求められるし、他の大規模イベントでのそれも当然であり、空気感染的な密閉空間等を避ける行動など、常識的に考えられるこれまで通りの感染防止の手立てを忠実に実行することだろう。専門家の意見を総合勘案して適切なメッセージを国民に向け発すべき国家政府が、適宜に存在性を示すまさに事案そのものだ。しかし、世界的posttruth風潮とこれに呼応したアベスガイズムの蔓延で、知的な部分の不可思議な退潮、理念性をこき下ろし、倫理性を欠損し、科学を軽視する態度ではまともな感染対策が講じられるはずもない。その結果的犠牲は必ず国民に落ちてくる。いつになったらその理不尽に気づくのか?

 黒船来航以来、近世近代日本の外交的幼稚さが醸し出してきた国策的無責任体質が、戦後日本の悪癖抜けぬ体たらくを準備していた。諸外国は与しやすしのこの国を、今では3等国並みに扱っているとしか言えない。ドイツや韓国のような対等関係が築けず、一地方自治体に偏頗に過重負担を押し付け、愚民化政策で自己保存にしか興味がない。コロナ禍でも当然のように国費を満額得ている今の国会議員たちの時宜すら弁えぬ税金泥棒地で行く姿は、茶番じみた滑稽さで笑ってしまう。その実彼らを選んだ国民が笑われているのだ。

 日本国憲法の根幹思想としてのカントの「永遠平和のために」の理念は決して絵空事の空虚な理想論ではない。発せられた地盤はまさに国民が立っているその場所だ。例えば戦争は絶え間なく人類の歴史に立ち現われ、すべては戦中戦後(戦争という文言から離れず)の状況でしかない。このことを認めるなら、同時に休戦という考え方も有効なわけだ。休戦状態(平和)を持続させるための手立てを講じるのが人類のすべき唯一の事であり、それが人類の幸福や進歩、所謂平和な生活を実現するための実践行為のはずだ。

 およそ軍事的行為、準備、軍拡、など、これらを国家予算掛けてやろうというなら、内地とは比較にならないほどに反戦、非戦、避戦意識に覆われている沖縄に何故、わざわざ新たな強化された軍事基地を、異国の軍隊のために作ろうとしているのか、よくよく考えてみるがいい。最早議論は地政学など、言われてきた理由の根拠なきこと白日の下にさらされている。「政治的理由」というふざけた言い訳が残されたのだ。現代ミサイル事情は、「殴り込み部隊」米海兵隊の駐留や存在理由を消し去っている。沖縄にいる理由がないのに関わらず、「思いやり予算」なるお恥ずかしい下司な名称の賄賂でご機嫌取り、「大和民族」の名折れとしか言いようもない奴隷根性で、異国の軍隊に我が国の国防を委ねるという無様。

 最早口にするのも不愉快なのだが、「人馬鹿にした話」を沖縄に通用させる本土内地の日本人は、おのれを恥じてよくよく玩味、吟味、咀嚼し、自分たちのしていることの情けなさ、不明、愚かさ、を認知、認識し、誰をたたくべきか誰を擁護すべきか、はっきりと見定めることだ。

 

 

 

 

 

 

 

 


この国の終わり 米軍基地由来の第6波 その1

2022年01月21日 09時02分55秒 | 政治論

 沖縄返還は50年目になる。

 今更言うまでもないが、これまでの本土のメデア・マスコミ・ジャーナリズムが流布する、どう見ても誤解に満ちた沖縄情報など、金輪際全く信用ならないデマゴーグ垂れ流しと断じてやまないものだ。一方、メデア・マスコミ・ジャーナリズムの功罪とはその責任度合いが全く異なる、この国の戦後政治のことは「この国の終わり」と題して余すところなく論じ切らないとどうにも収まりがつかない。

 第一に米軍基地(米軍専用施設)の事だが、戦前戦後通じここまで、沖縄側からこれを誘致したことは一度もない。どういうことか?

旧日本軍が強制接収した土地を米軍が接収した・沖縄戦下と占領下で米軍が接収した・戦後の米軍統治下で米軍が強制的に接収した・日本政府による埋め立て

 以上がその内容であり真相だ。最後(日本政府による埋め立て)は現行辺野古埋め立てのこと。この、日米による接収行為などが沖縄が望まない軍拡を継続させてきた、という事実が、原発に関わる本土自治体の対応とは本質的に異なる、と言われる所以だ。

 また、昭和40年ころ30%近い財政シェアだった基地経済は、平成に入ると5%前後まで低下している。つまり沖縄県は、押しつけにすぎない基地経済などに頼ることなく自律的に経済を回せるし、返還跡地利用実績 

 那覇新都心地区の場合、返還前は年間52億円だった活動による直接経済効果は返還後は年間1634億円となっていて、その倍率は32倍だ。小禄金城地区では返還前34億円に対し、返還後は14倍の489億円桑江・北前地区は返還前3億円に対し、返還後は108倍の336億円だ。三つの地区を合計して返還前後を比較すると返還前が年間89億円なのに対し、返還後は28倍の2459億円に達している。
 雇用の側面から見た数字もある。那覇新都心地区では返還前が168人だったのに対して返還後は1万5560人で93倍となっている。小禄金城地区は返還前159人に対し、29倍の4636人桑江・北前地区は返還前は雇用ゼロ、返還後は3368人の雇用を生み出している。(地元紙記事)

は、本島中枢部を占拠し、陸海空域をほぼ独占的に使役する米軍さえ去ってくれれば、無類の豊饒な地区生産地としても、観光立県としても、(基地就労に拠らない)雇用の健全化とともに驚異的な活性化を図れる自治体と言える(独立への弾み)。

 当然民意は(日米政府の疑似植民地政策による地域分断策が影響しても)住民投票や公職選挙結果にほぼ確実に示されて、(首長たちの思惑に影響する)時の趨勢や争点ぼかしで目に見えない動きがあるにしろ、大概国の方針やり方に異を唱える結果を示している。取り分け日米安保体制には明らかな反意(8割がた)を持っているのだが、これらの民意が政治に反映された明確な事実は絶えてなかった。本土の日本国民の、基地負担不公平事実への公正な疑義は戦後ずっと希薄であり続け、多くの基地公害訴訟は「統治行為論」という司法の言い訳?のもと、県民側の明らかな勝訴も先ず皆無と言える(ヒラメ裁判官や国が自治体を訴えるという転倒現象が頻発する事実は、司法の独立さえ問われる問題だ)。

 さて、第6波の感染拡大は、我々の耳目には先ず日本各地にある米軍基地由来のそれとして捉えられたし、この事実に誰も異論はないだろう(来日米兵の検査はせず、出国して韓国へ行く米兵のそれはするという、ブラックユーモア的で漫画のような事実が暴露された、まさに日韓における対米外交の本質的な違いを露呈している)。

 その後の事は、ありきたりな(場当たりな、これまで通り脆弱外交の傀儡政治で、その場しのぎを恥じない日本国政府に合わせ)ゆるゆるの米国米軍司令部の対応から、事はいつの間にか騙し絵のように、ありふれた日本国内問題に大きく取って代わり、肝心の基地問題の方はまたぞろ本質を外れた愚論冗論へと流される。(ネットに散見するネトウヨたちの見当違いの言いがかりや、ヘイトそのままの聞くに堪えぬ誹謗中傷が所狭しと蔓延りだす、既にヤフコメなどはそういう情けない風潮へ急速な離岸流のごとく傾斜している)

 現在急激に感染拡大し続ける(オミクロン株にほぼ取って代わったらしい)世界の2年越しのコロナ禍は、その現況重症化率の低さ(発現タイムラグはあるし、即断はできない)に関わらず、日本では市中感染も含め濃厚接触者としての医療従事者が休職等余儀なくされ、一般外来対応の通常医療すら覚束ないという一種の崩壊現象を見るに至り、沖縄などはこの第6波襲来というかつてなく急激なパンデミック状況に恐怖し、日常生活が至る所脅威に満ちているという、(沖縄がこれまで経験してきた)これまで通り踏んだり蹴ったりの不運に見舞われているが、勿論、第5波の終盤に見た分析未達の収束傾向から盲目に刺激され、無警戒にノーマスク大騒ぎの羽目を外した日本国民全体が(あるいは世界が)、自業自得の感染爆発に打ちのめされ、またぞろ繰り返される自粛生活に否応なく追い込まれる、ストレスの絶えぬ2022年を迎えてしまった。

 但し、世界は両立論から、偶々軽症で経過しているらしいオミクロン株に乗じて「自由」「通常通り」「罹患を恐れない」行為行動へ流れて行っている(それが在日米軍の感染爆発に当然に現象し、日本に駄々洩れして基地界隈から発した第6波を招来した、という現状か)。

 年初岸田の「辺野古推進」口上(軟弱地盤や航空法的瑕疵を無視し)は、この宰相の行く末など、歴史的に「この国の終わり」として単純に同列化し、戦後自公系政治の「非常識な常識」(幻想的国防策ーー日米安保体制)を踏襲し、日本国民が戦後政治の絶望的行進に無知で無関心な追随を続ける代弁のように受け取らざるを得ない。

 というかそこに一片の対沖縄感情も見出せないという、苦りきった、我々自身の内面を反芻する情けない繰り返しで、この度の名護市長選(現職優位)も、先の衆議院選結果(屋良氏落選)も、いずれにしても「この国の終わり」「琉球独立」という究極へ結論づける傾きだ。