沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩348 その11 現代日本という視点 11

2011年09月28日 09時01分03秒 | 政治論
 幼少時彼の生活環境においては定期購読の小学館学習雑誌、偶々母がたった一冊彼のために購入してくれた三省堂の年鑑的百科事典、兄が購読する上級生の学習雑誌、同級生が買ってもらう少年月刊漫画誌の回読、教室の本箱に雑然と並ぶ数十冊の本、毎朝目にする新聞、ラヂオ、貸本、図書室の本類、が大方の知的好奇心の対象で、彼の幼少時の感覚的時代背景を形成した自然と生身の人間以外の媒体ではあった。こうした媒体の中に彼の「戦争」にまつわる体験の欠片のようなものは例えばラヂオ放送が伝える「尋ね人」やら少年誌のグラビアが派手な彩色を施す戦艦や戦闘機の絵を掲載したのやらあるいは綴方に綴られる貧困と不幸の有様など実に限定的な印象の貧弱そのものの体験にすぎないのだが、こうした意識の内にうっすらと透視されるとりわけ敗戦まもない日本と日本人の追体験的触感が、現在のとりわけ沖縄戦に触れたとき肉薄しようという意志となり現実に起こった悲惨な事件の実感性を掴みとろうという試みになるのではあった。感傷にすぎない感覚的雰囲気の手探りが何を掴むのか知らないが、当然ながら彼にしても時代の子であることに変わりはない。彼の生涯で彼の晩年に集中したこの現代日本の醸した局面から重大な本質を見逃しようもあるまい。見えてくるのは「人類の滅亡」という集団強制死であり、望むと望まざるとに拘わらず引き続き浸潤する数々の現代的病根である。「呑気な父さん」的ご老体諸氏には孫たちの愛玩に興ずる一時代らしいが、その足元にとぐろを巻く毒蛇たちにはとんと気づかないようで相変わらず愚にもつかぬ手慰みに我を忘れ恍惚として眠りこける日々をお過ごしのようだ。彼らの泡を食う無様な結末には全く興味がないので彼らの戯言に付き合うことは金輪際ない。好きなようにのたまっていろ。あらゆる瑣末な低レベルの国政談義なぞ糞くらえ。右ならえの日和見主義者どもよ、さっさと埒外に去れ。現代日本はかくして彼にとってただ単なる甲斐のない罵りの対象でしかなかった。軍国主義礼賛、戦争を知らない根本的無資格者が言い募る汎太平洋戦略における米軍の役割とは一体どういう内実か。どっちが無知かと言えば「汝自身を知」らないあいつらこそ本質的痴れ者ということさ。我々の税金を無駄遣いする「ドラ息子」どもよ、お前たちに言うことはない。(中断)

詩348 その10 現代日本という視点 10

2011年09月27日 12時00分25秒 | 政治論
 「現代日本」とは、「近代日本」という概念との相克という運動エネルギーを軸として主に第二次大戦の敗戦という体験の追体験的経験認識化を精神的目的としつつ既に絶望的とも言える戦後既成「現代日本」の総ざらえという主体的省察を通して自己自身における真の「未来の日本」を見据える作業によりひとつの時代的意味を具備することになるような時代として措定する。従って遠くは天皇制国家形式の完成と古代日本の歴史学的評価の更新を企図し、神話化する政治的主体の絶滅によって民俗学的に検証された民衆主体の国家の有り様を模索し、同時に民衆自身の総体的本質的検証により成長段階を把捉し如何なる形式と内実による戦略的革命が可能かを実質的に検討し、日本の歴史的権力実態を分析究極し「現代日本」において民衆が果たすべき役割を位置づけること。かかる理念に基づいて近くは敗戦、原発事故、に関し、近代日本の歴史的検証を加えその影響実態を究明する。重要なことはこれらの理性的業務においては諸外国の懸念は度外視され民族自決を基本とし一切外交的粉飾を排斥する。日本国憲法の評価はただ一点、政治レベルでの議論を拒否すること。又同時に多くの場合、想定される軍事的戦略的懸念もまた完全に度外視される、というよりもこの現実的即戦的実戦的考察以外の人為的なる不可測的事態に関し所謂仮想敵を標的とする考察の無意味さを確認しなければならない。しかしながら国内問題にしても多くは見解の相違を並行的に辿る以外なんのメリットもないこうした議論を功利的に忌避すべく暫時休戦とする判断もやむを得ない。とりわけ沖縄中心の基地問題は沖縄における「非戦意思」から題意は頗る民衆側の理念自体に関わることでここに日米の偏頗な思惑を考慮する無意味さを想起し、「現代日本」的考察対象から外す必要性がありそうだ。つまりここにあるのは日米の沖縄差別乃至占領意識乃至沖縄において惹起された現実的要請のコラボという不純さだ。総論的には戦後日本の在り方自体に関わるが、現在ここに見られる低レベルの人権運動的波動に何らかの歴史的価値として評価すべき実質を見ることはできない。明治以来の同化された琉球が醸す奇妙な日本人性をここでも散見する実態は例の「集団強制死」同様論理的把握が困難な従ってナショナリズムに火を点け易い危うさに満ちている。しかもこの沖縄の「抵抗」には飛び抜けた精神性がありそのダイナミズムがどこからきたか不明だ。結論から言えば恐らくアメリカはベトナム同様沖縄民族解放戦線によって沖縄からの敗北撤退を余儀なくされるだろう。勿論軍事的意味での過不足はアメリカにあろうはずもない。「抑止力」の大嘘は証明済みじゃないか。ふざけやがって。(中断)

詩348 その9 現代日本という視点 9

2011年09月22日 17時10分25秒 | 政治論
 民主党が政権に在する限り、自民党が20%程度の支持をもって第二党らしく見えている限り、沖縄は永久に聾桟敷に置かれるだろうという感覚が移住者の正直なところだ。つまり公明党含めこの3党が政権獲得圏内にとどまる限り、沖縄は官僚どもの思うがままに、否、決して沖縄の思いが届くことなく永久にこのまま推移するだろう。「このまま」というのは面白い表現だが、では沖縄は一体今どういう状況状態にあるのかよく吟味してみよう。今の沖縄の姿には、「現代」という時代はただ時間としてしか存在しない。時間乃至時間的名辞、もっといえば現代日本という実質があるならそこから過去に取り残された状態にある。沖縄はまさしくこの現代日本によって薩摩侵攻の時代以前に放出されたといえる。沖縄は佐藤栄作の大嘘「沖縄返還なくして日本の戦後はない」以後最も底気味の悪い薄汚れた日米の国と民によって糞ツボに放り込まれたという状況にある。では琉球はどうして立ち上がらないのか。どうしてこの奴隷状態から奮起しないか。馬鹿を言っちゃいけない、大震災も原発事故も集中豪雨も都市ゲリラ豪雨も台風も現代日本の惨状をものの見事にアケスケに露骨に目に見えて明らかに顕現し、この国の土性骨が腐朽していることを物語っているではないか。石原都知事は「天罰だ、国民はかわいそう」と付け足したが実は感傷を廃して凝視するなら、戦後日本全体がもう一度敗戦当時の瓦礫の山に立ち返る実に切迫して緊急な精神的要請の普遍化という内実にあることを見逃してはならない。原発事故はこの国の基本的姿勢、日米安保はじめあらゆる他力本願的仮託的漁夫の利的狡猾にして怯惰なかつ情けない日本の日本人の精神を象徴的に現実化した形で現在から未来へ害毒を垂れ流し続ける。もとはアメリカに一も二もなく追従した我々の「偉大なる馬鹿爺様」たちが為出かしてくれた愚行のツケにすぎず現代の我々がほんのちょっと首をかしげるだけで180度転換するはずだ。で、どういうわけか誰も首を曲げないので大方はこのまま推移するといったわけさ。さて琉球亡国論という古めかしい論陣を掲げるなら、イラクやアフガン等の傀儡政府の有り様から類推するに日本によって侵略された琉球王府はまず薩摩藩によって中国並みに冊封関係に組込まれ当時の江戸幕府によって地方の一大名並みに処遇されたが、事実上民族としてローマの属領よろしく貢物によってその支配下に置かれ言わば独立性を失った。これが明治新政府により独特な廃藩置県の末王は華族とされ琉球王府は断絶した。時の権力の推移はいつの世にもあることでこの王朝歴史は民衆の頭上に風に舞うこの葉のように吹き飛んでいったウタカタではあったが、実はこの琉球処分こそ沖縄の本当の滅亡そのものだという見方だ。何がその実態か。琉球文化の国家的形式の改変という欺妄である。これを同化策という。沖縄の豊年祭はつい先だって何気に終わったがその豊年祈願の祭礼は移住者にとって実に興味深いものがあった。本土にいてさえ一度として真面目にお目にかからなかった所謂地域の祭礼というものをここ沖縄やんばるで直に目の前で拝観した結果そこに繰り広げられた不思議な郷土芸能の祈願形式に、頭の中では「文化的凌駕」という文字が踊りまわっていた。格調高いその歌舞音曲に4時間近くがあっという間に過ぎ去り、いつまでも余韻を残して止むことがなかった。なんとなく、意味も分からずに、目と耳で見聞きしたというにすぎないが、「いいものを見せてもらった」という感想しか浮かばない。個人の感覚はともかく彼らがむしろ嬉々として演舞する様は見ていて大変に気持ちが良く当然のように村の人も観客観光客も殆ど席を立つ気配すらなかったのだが、それら演目の一つ一つが人々の日常に生きて生き生きと息づいて語り継がれ絶やすことなくウタキの下に集うのだと思った。生え抜きの「文華」を維持しているのは何か、この移住者にはとんと見当が付かないにもかかわらずこの国が沖縄に対してしていることはある意味「大人(たいじん)」に対する「餓鬼」の所業、とでもいうしかない。(中断)

詩348 その8 現代日本という視点 8

2011年09月21日 09時23分15秒 | 政治論
 当然ながら国家の起こす戦争の担い手は国家によって国の民として確置された人々、我々一般民衆であるが、その戦争責任について一部の確定的戦犯を除けば殆ど言及されないということが必ずしも免罪符を交付されたということでないことを常識ある成人なら理解するものと期待する。沖縄戦は帝国が領土的野心に基づいて起こした日中戦に始まって連合国により無謀な誘導的陥穽に落ちた太平洋舞台の必敗玉砕戦役から順次急迫してきた戦線的地平の一端にすぎなかったしそれは実質的には維新以来日本同化という皇民化教育と県民挙げての運動展開によって培われた皇国の民としての人心収斂からまさに「天皇の赤子」たる国家人として軍官民共生共死精神に統制された県民が自発的にでさえある戦争協力によって確実に進行した戦闘行為であった。但し見落としてはならない事実はあらゆる悲劇の根源が全て日本軍の存在に拠っているということであり起こった悲劇は全て軍隊の所為だといっても過言ではないのだが、事実上この軍隊が一般人同様の立場にはないことを承知した上でこの日本軍の兵士たちでさえ「全て上官の命令」でした行為として論理的には一切の戦時行為を片付けることができるのである。ここで立ち止まって事の真相を煎じ詰めれば戦争責任がA級戦犯に究極し彼らの首を撥ねれば「全てなかったことに」できるなら「人間の尊厳」っていうやつはなんとも都合よく出来てる代物だということになるが、実際は多くの民が内心痛撃される個人としての戦争責任という永続する闇に苦しめられるのだと思われる。戦争というものを一種合法的な殺人行為の集積とするなら殺人行為も死体も戦争にあっては戦果であり勲章であり手柄、自慢、為遂げられた戦略の成果にほかならないが、見方を替えれば忽ち後悔と自責と罪悪感に苛まれる普通の平時の常識がよみがえる。簡単な話が「手を下した」ということがどれほどのことなのかを例えば「何故人殺しはいけないのか」という異常低年齢殺人事件の当事者たちの疑問に答える内容でどれほどの人が正確に「断罪」できるのか、という問題も含めて、とりわけて殺人行為が積極的に推進されるはずの戦争行為を吟味する必要があるのだ。国家が企画し民衆が実行する関係ではこの国事行為は容易に没個人的な従って没人間的な性質を帯び「真空地帯」が蔓延ると言われる。戦争を知らない、まして軍隊を経験しない多くの戦後世代が想像するところその異常な空気感だけは何となく理解できるが、例えば沖縄に展開している米海兵隊の訓練の様子、例えば沖縄戦で米兵の多くに見られた精神的変調、例えばベトナム帰還兵のPTSD、例えばイラク帰還兵乃至イラクアフガン駐留兵の中に見る自殺者の急増、こうした現象を目の当たりにすると当局が見て見ぬふりする、戦争の人間に作用する異常な心的亀裂が物語る戦争自体の非人間性という余りにもありきたりな真実を繰り返し語るしか方法がない我々自身に気づく。(中断)

詩348 その7 現代日本という視点 7

2011年09月19日 12時35分28秒 | 政治論
 外務防衛官僚の思考ベースにある単純な事務手続き的簡略化(既に2+2で合意に達した既成事案だと彼らは強調するだろう)という理由によって推し進められる普天間辺野古移設方針は政治家の理念を全く反映しない対米外交姿勢としての安保関連無問題化がさながら心理的荷重の軽減のように彼ら民主政権には受け止められているということかな。つまり普天間問題の本質である沖縄基地負担軽減という理念は「辺野古拒否による普天間固定化」というヤクザまがいの恐喝を背景に一方では確実に対米心情的危機感(従って全くの杞憂だが)を理由に無駄な軋轢防止という穏健策こそ何にも増して重視されるという倒錯外交精神の発露が見える。これは同様に同質の事件で中国に関しこの国の奇妙な蠢きとして我々は既に目にしている(尖閣沖漁船衝突事件)。理念が問題にされず却って生のリアルな外交センス(とても上質とはいえないレベルで)によって国家間の重要案件が片付けられようとしているのが真相だ。ここに民主政権がなによりも言い募った政治主導理念の完璧な敗北宣言を国民側は見なければならない。そしてこの自民民主2政権によって戦後66年は誰がこの国を真に牛耳って来たか、誰が最も重大な責任を負うべきか、を如実に知らねばならない。官僚は政治責任を負わない。彼らは情報と累積されたデータ、統計的確率的解答案、提案、等をさながら絶対的確定的既成の世界のごとく立て板に水よろしく滔々とプレゼンしてきただけだとも言える。そしてむしろこれ以外には答えがないように絞り込む彼らの驚異的な分析総合力によって政治家は答えの前提である民意を見失う。これが実態だ。普天間問題の解決困難な性格はそれが対アメリカであるが故に一層始末に負えない。寡聞にして想像でしか言えないが北の拉致問題もこうした複層する縺れ糸から解かれるには徹底した政治判断を実行しない限り無理な部分がありそうだ。(中断)

詩348 その6 現代日本という視点 6

2011年09月18日 13時02分08秒 | 政治論
 興味深い事実は例えば本土の特攻隊員が散華するときには残念ながら殆ど「天皇陛下万歳」と叫ばず却って肉親の名を呼んだものの方が多かったというが一方沖縄の集団強制死ではまさしく大概「天皇陛下万歳」を叫んで自爆、集合爆死、肉親撲殺等悲惨な最後を遂げたのだった。しかも生き残った人々にあっては本心からそのことを(死ななかったことを)死んだ人たちに自責と後悔と謝罪の念において対する心情に覆われたという。特攻隊員にみられる普通の人の子の感傷と沖縄人にみられる不思議な共同体仮託の心理傾向の対比を眺めると見えてくるのは帝国の絶対天皇制さえ沖縄人にとって最後の共生乃至共死における究極の葬送曲足り得たという事実と、本土における皇民化教育が人民の深いところの心情には決して真には届いてなかったことが窺われる。単純な話、国家神道が強制した現人神の存立のためにだけある国体が民衆を把捉する如何なる効力もないことは明白であり一方沖縄において見事に実現した「マインドコントロール」は実は非常に晦渋な本質に微妙に関わっていたことを沖縄の天皇論天皇制批判にあって論じられていることを本土人は知る必要がある。何故沖縄では狂熱的な天皇憎悪の暴走がなかったのか、高々皇太子に火炎瓶を投じようとした程度の動きしかなかったか。これは中国における日本軍に対する剥き出しの復讐心が殆ど見られなかったことと実質は類似する。一方は如何に皇民化教育が帝国の国家元首を神として押し付けたとしても国の思惑とは別に琉球古来の神が消え去るわけでなく只共同体共生思想からすれば統一的に掲げられた名目「神」である天皇を日本国民として忌避する理由は全くなくむしろ「同化策」に全県挙げて必死に取り組んだ結果として「天皇制国家」の全き受容こそ真摯な民衆的有り様だった訳で、本土が純一でない心情的内包による二重生活を送ったであろう大戦中、真に共同体としての人心収斂が可能だった沖縄は「天皇陛下万歳」においてさえ「集団」で「強制」的にも「死」を選んで自足し得たという驚くべき内容が、下らない名誉回復などのたまっていた低劣な旧戦隊長どもとは一線を画す。天皇陛下のために喜んで死んでいったという神話はかくして本土人の都合の良いようにでっち上げられた。むしろ本土人なら絶対に起こり得ない「集団」での、肉親をさえ手にかけた驚くべき「自決」は、沖縄に古来からある共同体実質と「ニライカナイ」信仰が可能にした、不思議な普遍的宗教的価値を現実に生々しく顕現した行為という評価でしか語れない。そうでなければ沖縄の慶良間諸島での「集団強制死」は歴史捏造集団によって皇国美談にされて宙空に漂泊する下等な浮遊霊と同断の列に加えられてしまう。こうした戦後数次に亘る不当な弑虐的扱いは沖縄に対する侮辱であり犯罪的差別だ。(中断)

詩348 その5 現代日本という視点 5

2011年09月15日 14時53分00秒 | 政治論
 再び、「天皇」とは何者か。何故昭和天皇は沖縄をアメリカに売ったのか。本土決戦へ移行する前に沖縄戦で一矢を報いる算段乃至薄弱な希望がアメリカの圧倒的火力物量の前に玉砕壊滅した時点で天皇は最高戦争指導責任者としての意地も張りも一気に喪失し、敗残国としての身の処し方だけが連合国最高司令官ダグラスマッカーサーのまえに課題化されあのような訪問と言辞になって奇妙な記念写真とともに国民の目に曝されたということから彼の心情を忖度すると、自己保身という思惑は当然あったろうし一方天皇制国体の継続が喫緊の重大な関心事だったろうが果たして戦争責任者でしかも敗軍の将である自身の自死というのは頭に全くなかったのだろうか。いずれにしろ武士道は彼には対極概念だったろうが、後世の戦後世代の我々は冷徹に必敗至極の状況での沖縄決戦を遂行せしめようとする天皇という存在が、多くの文化人思想家をラーゲリに送り死に至らしめたスターリンを連想させるのは錯覚か。彼が人質さながら貢物として沖縄占領統治を申し出る誠に沖縄住民軽視差別視の最たるものを感得するのは、明治以来の日本帝国は勿論薩摩侵攻や秀吉の朝鮮征伐のときから(濃度は異なるが)ずっと日本人にあった中国朝鮮沖縄東南アジアその他後進国に対する、欧米への劣等感の裏返しとしての優越感であった。しかもこうしたcomplex(複合心理)は近代化以降この国の知的エリートに特徴的な心理状態であり民衆とはなんの関わりもない屈折した現実対応精神であり、ひいては日本の近代化自体がこうした醜悪さを胚胎した指導者によって始められ推進し行き着くところまで行ったという見方もある。少なくとも机上乃至想像上の戦争意思決定主体であった天皇が彼のロボットにすぎない参謀本部の無責任極まりない情報上梓に則って勝ち進む帝国軍隊幻想を拭いきれず(一人近衛文麿だけが大戦の趨勢につき降伏の勧告を行なった)沖縄戦にて起死回生の大逆転を成功させ停戦条件を有利に運ぼうと画策したのだが、参謀本部のでたらめな方針伝達と支離滅裂な作戦改変の結果人災に近い無謀さで県民巻き添えの犯罪的玉砕戦を繰り広げ結果歴史的悲劇を引き起こしてしまったのだった。つまり沖縄戦は戦争遂行作戦上最も無駄で不必要なしかも全く戦略的価値のない無謀な犠牲ばかりが目立った、愚劣な戦争行為そのものだったというべきだ。こうした惨劇の主役は天皇だったが大方は古来公家文化に引け目を負うた権力者たちの最終的仮託的無責任性によっている本質が露骨に現れており、言い方を変えれば天皇もまたこの時腐った土台の上に載せられた神輿そのものではあったのだろう。(中断)

詩348 その4 現代日本という視点 4 

2011年09月13日 10時51分43秒 | 政治論
 現代日本とは、21世紀の日本のことで、少なくとも平成以降の現代を標定しているが、しからば昭和は、明治はというと明治が近代と称するなら昭和は恐らく日本史のうちに、かつてない重大なブラックホールを作ってしまったという評価が最もふさわしくかつ大正は近代と昭和の間に、転げ落ちる急坂を生んだ名状しがたい奇妙な時代としかいいようがない。つまり日本史は、日本の近代化を準備したが近代化自体に失敗した結果現代があり、この地点で見据えねばならない現実がある、という認識と覚悟を強いる。世界が「カソリスム対コミュニズム」という対立構造を曲がりなりにも突き崩しベルリンの壁をソビエトを官僚社会主義を放逐した「前現代」のある潮流を導いた時代評価はともかく、侵攻するアメリカ主導軍事警察的「民主主義」=「覇権主義」強硬路線を是とするヨーロッパの凋落ぶりは目を覆うものがある。このへんの歴史学的評価は「地球滅亡」「人類消滅」といった禍々しい極論さえいよいよ現実味を帯び始め、環境問題とコラボして由々しき深刻さを醸している。今更「原子力平和利用」なる大嘘つきの偽善的欧米的倫理観など誰も信じちゃいないがぬけぬけとしたり顔に多くの無辜の民に危害を加えて平気なアングロサクソンの野蛮な性向にはアジア東洋弱小国後進国こそ大挙して国際協調し強固に対決していく必要がある。つまり古来大航海時代より延々と継続し世界に繰り広げた、白人系征服民族の内に根差した、反民族自決主義的、侵略駆逐征服精神を打ち砕き、個々の民族的価値観の復興と再生を目指すこと、恐らくは世界史的に大きく変動する可能性がここに垣間見られる。こうした世界事情のうちにあって日本がどうだということではなく、日本の置かれた世界史的地位が敗戦国であり敗残の天皇ファシズムであり矛盾に満ちた混濁した戦後を「エコノミックアニマル」として食い潰したのであり抜け落ちた度し難い精神的堕落を苦々しく凝視せざるを得ない環境にあることを想起しておくことだ。(中断)。

詩348 その3 現代日本という視点 3 

2011年09月11日 15時58分34秒 | 政治論
 人の一生はまさに光陰矢のごとく過ぎ去り余生を削り取って忽ち崖っ縁に立たせる。それでも多分人は未決の独房に大方はむしろ気が遠くなる程長い時間という鎖で縛り付けられ死刑執行の待機状態を不思議に苦もなくお過ごしになる。そしてやがて誰でもこの世にオサラバするのだが、亡霊というやつはどうやらこの世に何かしら言い残してしまった悔いがあり中有に漂いながら時々我々生存者に語りかけるということがあるらしい。こうなると立派な神秘主義だがランボウに言わせれば「見たものは見たのだ」見てないということはできない。妄想、独善、幻覚、錯覚、なんでもよい、人はいずれ間違いを犯す、パスカルの賭けは損する方には博打たぬ。何が損で得かなど一体誰が量るのか。
 間違いなく言えるのは普天間の代替飛行場を辺野古に移設する話というのは、アメリカと日本政府が合意して決めたことで本来なら常識的には最高国家意思決定案件として有無言わさず実現されるものと思われるのだが、何故この国家意思は16年以上かかっても通されないのか、そのことになんらの顧慮も示さないアメリカと日本の同盟関係というのがまず理解しがたい。つまり最初の動機「沖縄基地負担軽減」という理念は見え透いた嘘であり「普天間危険性除去」だけが宙に浮いてしまったのだが、この現実的処理の停頓はそもそもその危険性発想そのものが日本国国土における事実上の基地受け入れ拒否という「藪蛇」をつつき出してしまったのさ。橋本君はこれに気がつかなかったのだろうか。否、日本国中この重大な実質に無頓着だったというにすぎない。それほどに日本人は日米安保体制というものにドップリ浸りきりそこにある落とし穴に気がつかなかったのさ。かくして沖縄という格別の地に米軍を集中させそのことに安んじ自らの沖縄差別体質を封じ込めてしまったというのが真相である。従って明確に言えるのは普天間危険性除去という課題は「どこに移設するか」という問いの前に単独に考慮すべき事柄であって、普天間という地が明確にその危険性を明かしてしまった以上世界中どこにも人の住む場所に軍事基地は有り得ない、まして沖縄に新設するなど狂気の沙汰だといっているのさ。これは原発事故から日本人が仕方なく否応なく学んだことだ。危険性を決して担保しない施設を命懸けで受け入れる気はないと沖縄ははっきりと意思表示している。おまえさんがたの戦争準備やら訓練やら防共最前線思想に基づくあらゆる軍事行動は沖縄の非戦意思によりキッパリ拒絶されている。で、このわかりきった論理展開を無視し現民主政権はあくまでも防衛外務官僚どもがいうままに現行合意案を押し通そうとしているのだが、相手がアメリカでは彼らの言うとおりアメリカのご機嫌を損ねぬよう現状のまま行くのが最善なことは彼らの論理では至極妥当な見通しではあるので要は政治主導の本筋からいえば沖縄県民意思をアメリカに首相自ら伝えかつ民意を無視できない現日本国内輿論傾向を説明し、敗戦国日本が沖縄を筆頭に如何に戦争を忌避し軍拡を食い止め世界に平和国家たることをアピールしようとしているか切々と訴えればいい。「沖縄返還なしに日本の戦後はない」といった大見得が嘘でないなら日本国家に属する沖縄を米軍基地で支配する構造そのものに異を唱え安保体制を見直し最終的に駐留なき安保を主張することだ。で、鳩山は初っ端からこれで首相の座を追われた格好だが、それならば最後に日米安保破棄を断行しなければなるまい。ここまでが政治論理に適う筋と思われる。政治主導というならマニフェスト通り「沖縄基地負担軽減」を引っ込めるがモノではない。恥ずかしくないのか。子供たちが呆れ返るぞ。そしてここからが国内政治の領域だ。アメリカにシノゴノ言わせないし、内政干渉こそ密室政治の悪しき弊害だったのでホットラインを公開性にしろ。ウイキリークスが素っ破抜くのはいいが事後公開は彼らの言い訳の温床だ。前原のやりかたは改革をあきらめた堕落した政治家の成れの果てにすぎない。今やこいつも安倍政権並みに右傾化してやがる。アメリカに尻尾を振り再び日本を身売りする気だ。いずれにしろアメリカ抜きでもアメリカありでも事実上の本格的な国防論議乃至国家志向基準の展望はここからしか始まるまい。(中断)

詩348 その2 現代日本という視点 2

2011年09月09日 10時46分09秒 | 政治論
 沖縄戦は、太平洋戦争において、大日本帝国国土では唯一の本格的な、住民を巻き込んだ地上戦と位置付けられている。つまり、日本列島と現在称する現国土にあっては、米国が唯一箇所、空襲以外に艦砲射撃・陸上迫撃戦・掃討作戦を展開した日本列島の中の島嶼と言える。
 実質的には、一般住民が戦闘行為の真っただ中に放り出され、剰え、殆ど年齢性別を問わず軍事徴用に駆り出され作戦任務すら実行したということだ。この事実だけ取り出すと沖縄県民は軍国日本の全くの被害的境遇に叩き込まれた印象だが、実際は当時の「一億総玉砕」すら叫んだ国情からすれば、逃れようのないいかんともしがたい状況だったことは明らかで、実際多くの住民にあっても所謂軍国少年、護国の鬼めいた風情を随所に垣間見られる。
 問題は、こうした激烈な戦場に繰り広げられた惨状が、多くの戦争には必ず展開されてきた事実であり、机上に駒を進めて作戦会議をする将官連中の描く、想像にすぎない戦争とは似ても似つかぬ、惨たらしい現実が地獄絵を醸し出す光景として後代には示されるということだ。
 第二次大戦史上最悪の悲惨さとしてこれを伝える米従軍記者もいた。我々は今となっては想像するしか方法はないが、多くの体験記・戦記・報告書の類を何冊でもできるだけ広範囲に読んだり聞いたりして実像に迫っていくしかない。沖縄における非戦意思はこの生々しい体験そのものが決定的だった。
 さて我々が事戦争や安全保障を語るとき、忘れてならないのは、我々が如何に苦心惨憺刻苦勉励しても、この軍事的展望に関して正確な認識やら情報を得ることは到底不可能だという事実であり、多くは事後において判断出来るかもしれないというに過ぎないことを、一川防相ではないが素人としては十分確認する必要がある。
 要は餅は餅屋ってことさ。軍事専門家がこうだと言えばそうなのだろう、とでも言うしかない。しかしながら素人、つまりは一般人たる小市民は自己乃至その近辺を守るためには国家が、政府が、戦争屋が、死ねといったからといって死ぬわけにはいかないのだ。
 つまり戦争も安全保障も、我々には現実には、命と引き替えに決して受容するがものではないということ。論理的には従って一般徴用兵士すら自己と自己の家族とその周辺のためには、徴兵拒否という行為において国家と対立するしかないのだ。
 一方国家が必要とする戦争や安全保障とは国家の国体を維持するという一点のみで考えられるといえる。先の大戦では国体護持の主体は天皇制国家という国体にほかならなかった。「天皇のため」に多くの局面で沖縄戦は、日本帝国の中国・朝鮮・沖縄への差別精神によって「軍隊は住民を守らない」という現実を示した、と伝える。そしてこの事実が沖縄非戦意思の根幹にある。つまり、日本人の、日本軍の、天皇の「沖縄はじめ弱者後進国差別」こそ憎むべき敵だったし、今後もそうであり続けるわけだ。この認識は今も変わらないし、政府の裏切りや欺瞞、密約姿勢は益々この県民意識を増幅させている。(中断)

詩348 その1 現代日本という視点 

2011年09月07日 16時42分30秒 | 政治論
 例えば沖縄戦についてこの現代で語るとき、それは「66年前に終結し最早遠い過去のこととなったのではないか」と誰かがいった場合、彼にとっての現代日本が、見るもの全て明らかで、素敵な未来に向かって広々と拓けている、というのが事実なら誰でも「其のとおりだ」といって拍手でもしよう。
 しかし、もし過去の事跡に関し見えないはずの亡霊が其のへんを徘徊しているというのなら、ハムレットでなくとも「大地が覆い隠してさえ現れる悪業」に関して、目の当たりに凝視しようと思ったとしても格別偏執とはいえまい。
 古代トロヤ遺跡は、シュリーマンの素人学者らしい想像力がその実在を証明した。我々は自身の悟性が働く限り、その好奇心の触手を意味も無く引っ込めたりはしない。そして現代においてひとりの移住者の全霊を捉えた出来事がこの沖縄戦だったという必然でさえある偶然だ。
 しかも彼にとっての沖縄戦は確かに「遠い過去」のできごとだったことには今も昔も変わりはない。ただ昔は図らずも「関心がなかった」ために遠かったのであり、今はその事跡について語る人すら僅かとなり、種々の情報が折り重なって、捉え方考え方一つで右にも左にも偏頗する危険があり、その意味で「時間的に遠くなった」といえるわけだ。
 まずそういう事情はどうでもよいのだが、時間も空間も相対的なものなので、沖縄にとって沖縄戦が(本土に比較しても)はるかに現代的に語られ、扱われその残滓??としての米軍基地の現代的戦争関連性が、実に頻繁に現実的即時的に問題視されるが故に、今持ってそれは現代日本の問題そのものであり、又、同じく戦争と原爆の問題は、原発事故がはからずも顕現させた諸問題から派生して、益々リアルタイムに現代人に深刻に作用している事実は、沖縄戦に限らずあの戦争全般について、いよいよ頻度を増して接近しなければならない課題が山積していることを窺わせる、ということだ。(中断)

詩347 その11 日本の戦後5

2011年09月04日 21時54分21秒 | 政治論
 我々がこの無防備非守護状態におかれて不可知論的武装に活路を見出す事情はいかに非情な事務管理社会でもいやいやながら承認せざるを得まい。沖縄の主思潮は反戦ではなく完全なる非戦であると思われるが、この100年戦争的住民闘争は決して権力との根比べではない。なぜなら沖縄には実質としての「沖縄戦」体験と日本国による侵攻囲い込みの歴史的事実があり、新参者の政治的当事者の無根の観念的飛躍がこれに対抗する対立軸を有しないという原理だ。普天間も辺野古もどこにも逃げてはいかない。同様に沖縄が、沖縄の精神が、移住者まがいの大量移民を敢行するとも思えない以上真の人民戦争はここでしか起こり得ないし第三者の目からも客観的見地からも国際司法的にもまた沖縄文化遺産の総合的価値観からもあらゆる国家規模の横暴やら強制執行やらアメリカ軍拡思想やら中国脅威論対テロ無差別殺戮思想やら、おそるべき覇権主義、警察国家思想、などなど到底許容できない好戦的軍国主義的右傾化国勢として唾棄して排除する激しい憤怒に満ち満ちている。普通に考えれば誰が広島に原発を誘致しようとするか、同断で苛烈な沖縄戦を被害的に体験した沖縄にどうして更なる戦争推進軍事基地を新設するのか、県民がこれを素直に受容するいかなる屈辱的根拠があるのか。最早ありえない愚策をゴリ押しに継続する日本政府のインテリジェンスのなさたるやそれこそ国際グローバリゼーションの理念には真逆な偏頗性を恥じ入るべき事態ではないか。問題の本質は人民の強固にして大規模な反対の渦の中にアメリカ世界制覇の警察連合編成を捩じ込み「民主主義」とは名ばかりの欺瞞に満ちた「正義の戦争」をでっち上げ多くの無辜の民を死地へ追いやる犯罪的非人道的行為に加担する日本政府という実態だ。(中断)

詩347 その10 日本の戦後4

2011年09月03日 09時08分22秒 | 政治論
 「天皇」とはわれわれにとって如何なる存在か。私見によれば「彼」は従来朝鮮からの帰化人であり多くの氏族の中の一氏族にほかならない。氏族とは専ら血縁関係を中心にまとまった一系譜というものらしいがそもそも日本の歴史に所謂「神話」をもって登場する唯一の存在でありかつ代々西日本のどこかから出発して6世紀頃畿内にほぼ定着した最も権威あり段違いな力があってかつ「神懸かり」な集団の頂点におわした。「神話時代」と人為的自然淘汰の時間的凌駕によりこの氏族と天皇は政治的な全体性を具足した一種「カリスマ」的君臨を可能にしているものであろう。しかし近代化を拙速に完成した日本ではこの「あいまいな存在」については近代化の範疇に加えることがなかったばかりか「王政復古」という時代錯誤を冒してまで残存させたという経緯がある。これは維新の主体が特権階級の下層部に端を発し本来「革命」が有する「無産階級」性を横溢し観念論先行の「跛行性」を運命的に孕んでいた本質に因果する。この事実はしかし重大な結果を招来したと我々は確認せざるを得ない。少なくとも日本国憲法同様「天皇制」は連合国特に米国政府の暫定的占領統治理念に依拠し、戦後も特に決定的徹底的論議もなく自動的にこの国のある意味根幹部分に鎮座することとなった。日本国憲法がその前段においてむしろユートピア的発想の高雅な理念をうたいあげることでこの国の置かれた惨憺たる精神状況に大きな価値を加速的に付加した実質は恐らく今後共評価されるものと思われるが、一方で無反省に等しい内容で戦後直ちに持続され「象徴」化された「天皇制」はとりわけて21世紀の現代にあってどうしても腑に落ちない玉虫色を発していると言わざるを得ない。何故か。例えば極東裁判における「天皇不訴追」が仮にアメリカの日本占領政策の政治的判断に拠ったとしても当然ながらその戦争責任を追及されるべき存在であったわけで少なくとも国内輿論において天下を上下するほどの論議は必要だったはずだ。いずれにしろそれはなかったし、この国の無神論的傾向と氏神信仰は全く別種の趣を呈している。しかも氏神はついに天皇という「神」を排除する絶対的要件を充足し「天皇制」の謂れを正面から否定している。(天皇の人間宣言は虚構、本来無根のパフォーマンスといえる。元来民衆に根付くことがなかった現人神が今更「人間です」といったところでお笑い草ではないか)神道の問題ではない。もしそれが問題になるとすれば国家神道が醸した先の大戦における無類の人心収攬政策だけだ。人々が氏神において信仰心を充足する現況では土地、天然物、もしくは地域の地縁、をして精神的内面的安定を得るわけで、象徴天皇の御陰ではない。(中断)

詩347 その9 日本の戦後3

2011年09月01日 11時06分33秒 | 政治論
 天皇制が何故この国の政体にとっても民衆にとっても為にならないかというと、その虚構性はもとより絶えず時の実権によりよくも悪くも利用されかつ国家の非常時には其の虚構性により仮託された「政治責任」の架空性を造出し多くの政治的管理者が古来責任逃れの架空な根拠としてでっちあげる材料となった事実があり、仮にこの国が民主主義という名の実質を有していると仮定するならば本来人民のための政治であるべき国政が為政者の都合で偏向する場合彼らの心理的精神的の脆弱さによって人々を誤った方向へ誘導するリスクはこれを担保しない傾向にあるということがおおよそこの国の政治傾向として思量されるがゆえだ。この国の非常時における国政のだらしなさは「神風」の時代はともかく江戸幕府においてしかり、明治維新においても、またましてや今次大戦の不始末においてをや。勿論今度の大震災大津波原発事故においてはまさしくあらゆる局面において統制されてない国家非常事態対応失策を我々は誰も大変な失望と絶望、苦慮、憎悪、不快、憤怒、の目で眺めていたのだ。原発公害は永久にここに放置される。子々孫々人類滅亡まで。だが多くの反論はこう、言うだろう。「それでも戦後66年、平和裡に過ごしたではないか。」馬鹿を言うでない。誰のおかげでもなく人民の平和希求の念とたゆまぬ努力があったから当然の報いとして当たり前の「非戦状態」を醸し出したというにすぎない。現に世界中が好戦家どもの巻き起こす、住民を巻き込む戦争に明け暮れているではないか。それを対岸の火事とばかりに無関心を決め込んで金の亡者になりおおしたのはどこのどいつだ。おかげで精神的なことについては何一つ分かっていないではないか。しかしながら天皇制という制度の廃棄は所詮実証されない民俗学的問題性を孕み一朝一夕には即断し得ない実質を有していることは認めないわけにはいかない。つまり欠けているのは天皇制乃至天皇の存在性に関する本質的な研究論議だと思われる。人民レベルの共通認識の欠如だ。感傷でもなく事大主義でもない真正の評価である。(中断)