沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩 48

2008年02月02日 16時33分08秒 | 手記
 やんばるの森から現われた彼は、妻の駆け込み訴えにより旦那の許しを得、ミルクとイワシで手なずけられその夜からO家の一員となったのだが、未だに自分がO家に属することを認識していない、未だに...もう8ヶ月になるのだ、そもそも彼の種族は古来群れることなく単独行動をしてきた、食事と居住空間を無条件で与えられても彼には従属の意識はなく、なんなら引っかき噛み付きかき回しぼろぼろにしてもいいんだぜ、とでも言いたげに平然と頭をかく、ああ確かに彼は全く身分をわきまえない、はすに構えて威嚇のポーズなんざあどう見ても渡世人のそれである、眼光鋭くあたりを睥睨するところはなかなかのもんだ、こいつは呼んでも来ないし呼ばなくとも来たいときは来るが、妻の意向には甚だ無頓着ときたもんだ、かの漱石が想像力を発揮したのには訳がある、ただ邪魔にならないかわりに時々妙に甘ったれる、チョコンと膝に乗ってしばらく転寝するときはさすがに情が湧く、まあ捨てるに捨てられない状況なのだが、ふと跳ね起きたと思ったら膝を蹴ってどこかに徘徊しにいく、その瞬間はこいつ主人を蹴飛ばして行きやがると思うのだ、

詩 47

2008年02月01日 10時01分46秒 | 手記
 彼のなかにある卑俗なもの、決まりのつかないところを押し切っていかずに、恰好の巣穴に逃げ込んだ功罪は生涯の終末付近で彼を思わぬ時間つぶしへと追いやった、尤も単なる趣向のせいで道草を食うことはたいした罪でない、70歳過ぎて道徳的には小学生以下だと自ら断じてはばからぬトルストイを思え、カラマーゾフ3部作に挑んだドストエフスキーはあの長大な第一部を書き終えた時点ですでに生涯の時間切れを言い渡される、初めに、常時自らを更新していく神の前の子供であることが、(神の前でなくともよい) 絶対的に素質しなければならない、