沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩398 沖縄からのメッセージ 1

2013年01月29日 10時40分05秒 | 政治論
 沖縄は今、北部やんばる(山原)地方を中心に緋寒桜も見頃を過ぎ、桜まつりは終盤を迎えている。日本一早い桜として県内はもとより県外からも、物珍しさから観光客が押し寄せるが、いかに温暖な亜熱帯気候の恩恵があるとは言え、それだけで人が心浮き立ち、「鼓腹撃壌」して「我が世の春」を謳歌するといった生易しい状況ではないということを、28日の本土での首相直訴沖縄県窮状訴え集会が、いささかなりとも伝えているものと思われる。
 翁長那覇市長の言うとおり、沖縄には基地経済で食っている現実(基地関係シェアは5%にすぎない)などない。基地労働者は1万人(県人口140万で労働人口は60万)を切っているのであり、基地が返還されれば、この失業者の雇用を救援することなど訳もない。
 観光資源の観点からすれば、企業努力と強固な県経済地力のバックアップで、米軍向け生業を質転換する方途はいくらでもある。経済的実情からの基地温存理由付けには、本土側の意図的で根本的な欺瞞がある。むしろ、様々な屁理屈をくだくだ言い募っても到底払拭できない県民のなかの基地への憤懣は、まさに根本的な解決法なしには収まりがつかないという現実だ。
 根本的な解決法とは日米安保破棄に始まる沖縄県独立自治体化、であり、最終的には琉球立国に至る精神の自律的復活にほかならない。
 沖縄県人は「優しい」、だがもしかすると「臆病」かもしれない。何故か。「不安」があるからだ。その不安の内容には言及すまい。ドラマトゥルギー的には「波乱万丈」な境涯ということになろうが、その意味では物語の主役には違いがないとしても、この現実的主役はしかしながら、日本国のなかで興行収益を爆発的に伸長する、根本的な、強烈なメッセージ性に事欠く一面がある。
 先頃目取真俊氏の「虹の鳥」(2006年初版とあるから結構新しいが初出は「小説トリッパー」2004年冬季号らしい)を拝読したが、こういう線の押し出しなのかとも思う。ただシュペングラーの言うように、歴史にはもしかすると普遍妥当な「人間」を要求する決定的な理由がないのかもしれず(ギリシャもローマも果てはこのアメリカーナも、いかにその個別的偏頗性をこき下ろしてさえ、その生存を続ける何か別種な正当性というのがあるのか)、甚だ穏健な保守的見解にまで墜落する危険性がある。学者は「限界の発見」を仕事とするらしいが、生活者は基本的には保守的では到底ありえない。保守的では食っていけないのだ。つまり可能な限り(法的に?)ギリギリ過激な行動で生き続ける。そこに極めて生々しい弁証法があり、肉体と精神の相克乃至調和が生まれる。いかにして「間違えるか」、失敗するか、「誤って」米兵をその平穏な基地生活から引きずり下ろすか、いかに過激に衝撃を与えるか、だ。(中断)

詩397 沖縄からの沖縄移住者のメッセージ 21

2013年01月28日 10時06分39秒 | 政治論
 恐ろしいことだがこの自民政権は、バカ正直さを露呈した先の民主政権よりはるかにあくどい正体を持ち、かつ2009年衆議院解散時にボロクソにこき下ろされた政治体質のまま何らの改変もこれなく政権崩壊を傍観していたのであり、今次選挙で議席だけは圧倒的な獲得数を誇りながら(多数決原理の大いなる矛盾)その実質支持率は2割程度の低レベルに沈む事実上の人民不在政権にほかならず、従ってこの政権が繰り出す政策法案が全く民意を反映しない強権政治そのものであることを忘れてはならない。彼らは所詮財界の派遣社員に過ぎずアメリカ合衆国の走狗、官僚の意のままに動く政治理念なき政権保持奴隷にほかならない。
 原発全基廃炉、オスプレイ受け入れ拒否強行配備全機撤去、普天間無条件返還、跡地現状復元、高江オスプレイパッド建設即刻中止、地位協定改訂乃至日米同盟破棄、米軍基地戦闘機爆音の除去対象公害認定、これらは沖縄に来てインプットされたコモンセンス、常識である。従ってこれ以外の関係するあらゆる施策は全て非常識、即ち民意に沿わないアメリカ合衆国安全保障国策優先の傀儡政府強権国策にほかならない。当然この国策に民意を排除する法的根拠はなく、代執行は憲法違反であり(環境アセスのでたらめ、県提出方法のコソ泥的無様さ、公有水面埋め立て許可などどこの誰が裁可するか!)、そもそも軍事的国策(今次防衛費増額含め)は全て憲法9条に違背する可能性を有している。
 既存原発の廃炉は当然だが、この欠陥危険物を推進してきた自民政権の遡及責任検察事案を放置してはならない(個人レベルを超えてすること)。当然事故当事者における刑事訴訟は必要不可欠であり、その波及的追及はあらゆる「原子力ムラ」の住人をも把捉しなければならない。これらを徹底的に行わなければ現在本来の住環境をやむを得ず捨て避難生活を余儀なくされている数万の人々の内心の憤懣怒り後悔を慰謝する方途はないし、ここを無視してなんの復興があり得るというのか。政府が真剣に対応しなければならないのは廃炉作業の研究改善と高レベル放射性廃棄物処理に関する徹底的な研究以外はない。
 自公政権への監視体制が必要だが参議院選で「数の論理」を逆転させたなら国会空転が見えてくるのでここで選挙制度の見直し論議を尽くすこと。埒があかないのなら最終的には直接民主主義を考慮するしかないし、原発に関する住民投票を拒否する代議員が地方を席巻している現状ではあらゆる政治環境の劣悪さを認めざるを得まい。日本人のなかの政治への無関心は日本での民主主義がいかに幼弱なままよちよち歩きをしているかを示している。(中断)

詩397 沖縄からの沖縄移住者のメッセージ 20

2013年01月21日 16時49分20秒 | 政治論
 ヒルティの「幸福論」もアランもラッセルも筆者は知らない。小林秀雄並みに「幸福とは幸福感のことだ(敗北とは敗北感のことだ)」と言われて即座に納得してしまうほど、幸福について考えたことはない。
 その相対的な性格からして、その個人的な分化を予感するのだが、例えば「日本で一番いい県ランキング」(寺島実郎監修日本総合研究所編集)の意味は(そんな分析余計なお世話だという意見も当然あるだろうが)その55の分析諸表(基準)にこそ答えがあるので、結果的表象(順位)がどうこうの問題でないのは明らかだ。
 面白いのは「わが」沖縄県が最下位であったことで、その点がこの分析に一定の評価が与えられるところだ。つまり最低所得最低賃金最低学力おまけに最低持久力まで含め、沖縄県が全国に示すその総合的競争力の欠如は、さながら昭和30、40年代の本土の心象風景を彷彿させる(あの頃は本土も心豊かだった!!?)。
 周知のように、沖縄県は「アメリカー世(米軍政府支配の限定的自治)」において戦後暫くはむしろ物質的潤沢状態におかれたので、本土の所謂「所得倍増」「高度経済成長」路線の経験がない唯一の例外である。ここから自ずと先の調査結果は導かれるので、本土との一般的な数量的指標比較において「幸福度」を計算するのはいささかアンフェアなわけで、逆に言えば別に負け惜しみでないが、数量的比較に載らない部分での質的検証をすれば、本来の意味での実質的な「幸福度」が推し量られよう。
 但し「幸福とは何か」という哲学的アプローチなしにそれを論じる興味本位な累計というのは、どんな場合も浅はかな機械的仕分けになるので、その研究の目指すものが何かを明らかにしなければ、ついに反面教師以外の積極的意味合いは薄れてしまう。
 あらゆる人間的事業には二面性多面性があり、角度を変えれば全く逆の回答を引き出すこともある。例えば日米両外相会談で「辺野古推進」が確認された、というようなニュースに触れると、途端に沖縄県民は「ああまたか」という嘆息、諦め、嘲笑が口を突き、第三者が見れば明らかに「不幸な」瞬間を垣間見せる。
 本土の政府がアメリカが、このように県民の意思主張抗議を平然と無視し、神経を逆なでする発言を繰り返すことは、地方自治にとって明らかに「不幸な」できごとである。だがこれは一般論にすぎない。
 沖縄は地方自治としての「不幸」を甘受しているのではなく、一度として県民の中で過半数の容認意見に集約したことがないのにかかわらず、本土政府の懐柔により強制された行政府の首長ただひとりの容認だけを根拠にして「辺野古推進」に固執し、しかも今やその首長たちさえ一致して「県内移設」に反対しているというのに、何事もなかったかのように馬鹿の一つ覚えを繰り返す、この異常さを横行させる日本という国が問題なのだ。
 その根本は日米安保体制にほかならない。海兵隊の掃き溜めと化した、この軍事同盟の実質的被害者である沖縄は、日本国内74%の米軍専用軍事施設を押し付けられ、「県外移設」は受け入れ県がないというのを理由にただそれだけのために、自ら受け入れたわけでない基地を更に大規模に新設しようと辺野古に進軍するアメリカと、その傀儡日本政府の封建的横暴の嵐に曝され、日々それらと闘っている。
 現在、彼等日米国家国民が滅亡しない限り、沖縄は彼らの繰り出す馬鹿の一つ覚えの「沖縄いじめ」に対し折れそうな心との格闘と言う、原則的な、人間的な人権獲得の行為に生きているのであり、待っていても実現しない、憲法が唱導する「基本的人権」「幸福追求権」への不断な追求の径を踏んでいるってえわけさ。(中断)/div>

詩397 沖縄からの沖縄移住者のメッセージ 19

2013年01月19日 10時25分14秒 | 政治論
 マハトマ=ガンディの「非暴力主義」は力なき「無抵抗主義」ではない。沖縄におけるアメリカ合衆国の植民地主義(矢内原忠雄によれば植民地の定義に軍事植民地という分類があるという、施政権返還に伴って沖縄が置かれた不如意な米国軍事基地温存実態はそれに該当する)及び日本政府の差別政策(当然人種的民族的差別というよりは日本人独特の異種境遇人群への差別的待遇癖乃至優越感...差別、アイヌ、アジア一般、中国朝鮮へのそれも同質と思われる)との人民闘争の基本は「非暴力不服従」理念にあるのだろうが、琉球処分以降の沖縄県における「同化策」、あるいは「非武の邦」たる県民性に反する旧日本帝国軍隊への強制的同流化、「皇民化教育」への無批判無抵抗な服従は、集団強制死をはじめとする多くの悲惨な戦争犠牲者を生んだ一因と言える(沖縄戦全戦死者18万8136人のうち県民の援護法適用戦争協力者5万5246人、一般住民3万8754人、軍人軍属2万8228人)。
 この厖大な数の無残な死は、その一つ一つが様々な声を生きているものに聞かせようとする、聞く者の想像力の深浅多寡に従って。それは現代の日本人の一人ひとりの心に静かにあるいは激しく問いかける。
 東京裁判で裁かれたA級戦犯たちはナチス並みの「犯罪的」共同謀議もしなかったし(市ヶ谷で初見同士の容疑者もいたらしい)、キーナンが侮蔑と嘲笑をもって報いるほど東条はあくどい人物でなかったし、原爆で数十万の無辜の民を殺戮したアメリカほどには旧日本軍は南京で中国人を殺さなかったらしいし、むき出しの憎悪を示したフィリッピンの検事に一種の感情的違和感を覚えるし、アジア各地の即決裁判で殺された1000人のBC級戦犯全員に、死を持って贖うべき重大な個人的責任(命令下達遂行や戦時感性)があったとも思えないし、「復讐性」の強いこの司法的偏向裁判の結果をもってして一切を収束させたことには、人間性において果たしてその十分な理念的検証がされたのかどうか甚だ怪しまれる側面を見逃すわけにはいかない。
 だが、戦争を惹起した指導者たちの責任は重い。又戦争を口実に、無用な殺戮を許したひとりひとりの兵隊たちにも、自身で省みるべき時間を持つ必要がある。
 現今日本の所謂「右傾化」軍団にあるのは、著しく心理的な性格(近現代日本史を自虐史観と見る見方)に彩られた一点突破(憲法改悪)的な偏向思潮にほかならないが、いずれにしても為政者に求められるのは、バランスの取れた外交姿勢(協調外交)であり政治感覚(党派によらない)であり、文民統制力の効いた国家方針の模索(当然それは軍国化の否定だ)である。
 かの歴史的痕跡をざっと見ただけでも、このバランス感覚が失われたとき軍部の独走があり、一億玉砕精神があり、言わずもがなの戦陣訓があった。と同時に、戦前戦中通してあった戰爭回避の意見が、何故あれ程に日本人には脆弱だったのかを見ていかねばならない。
 日清日露戦役での偶然の勝利に酔った国民的昂揚が、日進月歩で進歩する近代科学的戰爭実質から乖離する方向へ誘ったことも否定できないし、国際政治状況に居所を見出す努力を放棄した(国連脱退)「アジアの盟主」に、欧米帝国主義列強からのアジアの解放という大事業は、自身が自国の民を犠牲にする以外には所詮務まる実力も兵糧もなかった。
 かといって国際連合や連盟に国際紛争を実質的に解決するだけの客観的効力など恐らく今後共期待はできない(戦勝国主体の独占企業にどんな保障性を見るのか)。
 一方、国連さえ無視しうるアメリカ合衆国にコバンザメさながらくっついている日本の保守政治には、損得勘定はあっても有効投資を真摯に企図する未来はない。
 今やアメリカ合衆国は自国の安全保障防共主義一辺倒であり、その功罪が全て日米同盟とそれを担保する沖縄米軍基地に集約し、沖縄県は故のないツケを払わされ続けている。
 「コザ騒動」は米兵の車両に放火するという「実力行使」だが、これはもともと国家安全保障などに責任があろうはずもない住民にあって、「怒り」という力点を使って「権力」に抵抗した唯一の例だ。たった一度である。米兵に対し「不売運動」を実行したことがあるのだろうか、米兵に酒類提供拒否する酒場はあるのか。基地労働者の考え方には沖縄の経済を悪くしているのが米軍基地の存在だという自覚はあるのか。
 (中断)

詩397 沖縄からの沖縄移住者のメッセージ 18

2013年01月15日 13時32分04秒 | 政治論
 こう思う。アメリカ合衆国はいつまで沖縄と沖縄県民を捕囚の徒にするつもりなのか。彼らが「軍事植民地」としてここを使用している核心的な理由などどこにもないはずだ。「抑止力」「地政学」「軍略的必然」これらすべてにわたって、民主政権時の政治のトップが、必ずしも米軍基地は「沖縄でなくともいい」と明言した。恐らく彼らの言辞に嘘はあるまい。とすればアメリカ合衆国がここに居座る理由は、核心的でない、極めて良好な副次的な恩典にあるということになる。恩典の最たるものが「思いやり予算」であり、ここから構築され続ける、広大な基地内に展開する軍人生活の快適な継続要素(充実した住環境)のオンパレードであろう。一兵卒から幹部、将校、指揮官に至るまで洩れなくその恩恵に浴して倦むところがないのである。当然温暖なリゾート地沖縄は遠国での殺戮と殺伐たる間化訓練に明け暮れる兵士たちの格好の癒しの地になっているはずだ。ここを離れたがらない者も多くいるという。勿論個々の米軍兵士に対してむき出しの敵意を示す県民はまずいないし、兵士たちの兵役以外の日常生活は至って平和そのものに違いない。我々はアメリカ人サイドから沖縄を眺望する必要がある。彼らの中に沖縄忌避感がないことが問題なのだ。ある意味色とりどりの抗議旗や時折聞こえるシュプレヒコールは、彼らの目には単なる特殊な沖縄の一風景としか映ってないのかもしれない。そこに介在する「人間」は彼らには見えてない。その「人間」が抱える憤懣や嘆きを想像する悟性の働きが欠けている。「人間」が「真空化」する軍隊生活にそれを望むのも無理がある。ひと塊の機能集団である海兵隊に対し「人間」に関する個人的な感懐を増幅させるべき手立てはない。残るは自然発生する厭戦感であり、彼らにとって快適でない反軍意思の突き上げ状況を日常的に作り出すこと、「招かれざる客」であることを印象させること、軍民共存は決して「良き隣人」関係にならない現実を認知させること、軍隊と一般人は決して友好交流の基盤を作れない本質的反発感情に満ちていること。一方軍関係上層部においては何が彼らを沖縄に固執させているのか。彼らはどうして沖縄県民に同情的にはならないのか。遡れば1945年3月26日に将軍ニミッツが沖縄戦(アイスバーグ作戦)に先立って発した「ニミッツ布告」なるものは返還以後も沖縄に対するアメリカ合衆国軍人にあって未だに主調音のように鳴り響いているかのようである。国際司法上禁止されている特定占領地への集中的な軍事的介入を戦後一貫して継続している異常さはさながら世界には厳粛な国際関係思想が欠如しているのではないかと疑わせるものがある。そしてこうしたアメリカ合衆国の軍事方針に世界常識的な反応を示すどころか絶大なる歓迎ムードで接する日本国政府、政治家は殆ど狂気じみて見える。この国の官僚政治家には未だに敗戦国現実主義の吉田ドクトリンが息づいているのだろう。しかし彼らの頭の中に作り上げた「軽負担経済優先主義」の幻想的風景は阪神淡路や東日本震災の、あの瓦礫の山と仮設住宅、到底帰還ならぬ汚染地帯が象徴的に示すように、所詮砂上の楼閣、だったとしか言い様もない。そうした彼らのメインとなる消化不良な国策である日米同盟が、「仮想敵」をでっちあげて産軍複合経済立国を危うげに運営するしか方途のない極めて病的な傾向にあることを彼らの何人が知っているのか。尖閣を巡る日米中3すくみ軍事危機は徐々に現実味を帯びてきた。こいつらの狂気が沖縄を火の海にする。(中断)

詩397 沖縄からの沖縄移住者のメッセージ 17

2013年01月12日 23時32分46秒 | 政治論
 仲井真県知事は余程のことがない限り(政治生命を投げ打って県民を裏切り政府の走狗となるかも知れない)公有水面埋め立て許可を裁可することはない、とすれば、政府防衛省の最後手段は「代執行」以外にはない。ここに来て感じるのはここは三里塚ではないということで、沖繩の受難と抑圧、被暴虐行為の歴史的集積からすれば、辺野古や高江、普天間ゲート前における沖繩の活動その他は明らかに本土の国策反対運動とは別次元にある、と言える。
 但しこの次元の違いについて高々6年余居住した程度の移住者風情がしたり顔に語れるなどと夢にも思わない。
 「代執行」は国家のあらゆる悪魔的相貌を法律用語や軍事用語、あるいは逆転した実質を持つ偽善的言辞で隠した行政的暴力行為である(それは沖繩の場合日米双方から加えられる日常的な暴力の中で特に決定的なものだ)。
 ほかでもなく沖繩に対して執行されるそれは、この国がとりわけ近い過去に異国との相関関係において実力行使してきた、様々な史実に見られる「暴力的政治」をまたしても繰り返すことを意味する。
 こうした国家的な暴力行為に対して沖繩は決して「非暴力不服従」における「無抵抗な非暴力」を無条件によしとするものではない。暴力的抑圧弾圧に対しては内面への逃避や観念論への回避でなく、暴力に抵抗し払い除け抗議し、決して服従の姿勢を取らないのである。こうすることで実力行使はその力を失い、やがてかれら自身、自らの拳に走るしたたかな痛みに顔をしかめる。
 この国が沖繩に対して執行している政治的行為の消極積極両面にわたる本質は、「本土の他府県との明らかな区別」として現象する、保守停滞乃至米国単独被安全保障国策の無税通関体制堅持であり、敗戦国負い目が主流の外交心理に囚われた、戦勝国による不公平不平等待遇甘受姿勢であり、しかもその全ての悪弊において、沖繩にこれらのツケを回した。
 吟味し認識し教訓とするべき自国の敗戦体験につき真摯に学習する前に、言わば民心民力あるいは人民の固有の運命と乖離する実質で、官僚主導の「非人間的な」施策を国是のごとく振り回し、60有余年不変の沖縄いじめに終始した日本という国が、何の罪責にも問われずにこれからどこへ向かうのだろうか。(中断)

詩397 沖縄からの沖縄移住者のメッセージ 16

2013年01月11日 09時38分57秒 | 政治論
 首相訪米前、2月にも知事に通告し「辺野古公有水面埋め立て許可」申請の手続き書類を沖縄県に提出する方向で検討しているらしい。昨年末県に押し込んだ「環境アセス」評価補正書類の審査検証の結果も見ずに最終段階へ突き進むのは、結局「首相訪米」のための手土産にするのが目的で、これがすんなり免許裁可を得るとは思ってもいないのだろうが、「人間の国」でない国のこうした民心逆撫で行為には実に腹立たしいものがある。
 まるで沖縄県には人が住んでないかのような「頭越し」国政であり、他県では見られない「差別行為」だ。と同時に「日米合意」といったところで、地元住民の圧倒的反対意見を無視して、アメリカ側意向によって力関係で押し切られる実情にあっては、合意など名ばかりでアメリカ国家安全保障の意のままにしてやられる国、という実情が浮かび上がる。
 堕落した民主政権の「保守停滞主義」から、「保守アメリカ属国主義」へ積極移行する安倍政権の、最初の失政要件となるだろう(鳩山墜落並みか??)と思われる。
 米軍特殊戦略航空機オスプレイの配備増強(県内約30機くらい)は、植民地沖縄県乃至日本国において問答無用の強行路線をひた走る。普天間も嘉手納も発進基地となればいよいよ住民にとっての殺人的飛行訓練が県内随所で合意違反の「わがまま」傍若無人飛行爆音を響かすことになる。
 そこでこれが案の定墜落人身事故を起こしたとしても、アメリカ合衆国は「国の安全保障上しかたがないことだ」と言って済ますのである。それを言わば黙認する政府などおよそ人民の代議たる資格は全くないというしかない。
 従って国政選挙など、沖縄県にとって何の意味もないことを証明することになるだろう。現在沖縄県東村高江ではオスプレイのためのヘリパッド建設工事進捗阻止のための座り込み監視活動が継続して早朝から行われている(ブログ海鳴りの島から「高江の様子」目取真俊氏)。
 辺野古では移設合意からこっち休みなく座り込みテントが設置されている(辺野古浜通信)。その他県内各地普天間ゲート前などでも抗議活動デモンストレーション等繰り広げられている。人海戦術ではないがこれらの活動にも物理的数量的限界があり特に高江ではアリの隙間もない監視活動をするため人員不足が緊急課題になっているらしい。ありとあらゆる賛同者、協力者、又は物見遊山のかたはなんでもいいから兎に角高江に集結すべし。!!!(中断)

詩397 沖縄からの沖縄移住者のメッセージ 15

2013年01月09日 13時36分04秒 | 政治論
 「自由」というのは「自らに由る」ということだが、「自」というのは、「おのずから」や「みずから」など、どちらかと言えば「本能的」、「自然に」「自分本位に」といった傾向の「自己」を含んでいるようであり、「はき違える」という意味に使われる「社会」のなかの「自由」は常にどちらかに転ぶリスクを抱えていると言える。
 「由」は物事の原因、起源、由来、由縁など、事象に深く関係する根本の主体を示唆している。
 「自由」の対義語は「専制」「束縛」「統制」というのだが、ありのままに見るなら「自由」もまた「専制」「束縛」「統制」の軛から逃れられない質にある。「本能」も「自然」も「自己」もその原理的機能要件は峻厳そのものだ。もしこれらに忠実にあろうとするなら、もしかすると「自由」より「奴隷の身分」を選ぶ方が楽かもしれない。
 沖縄は米軍基地の存在によって、あるいは米軍を配する日米安保によって県土に住する「自由」に関しなんらかの「束縛」「専制」「統制」傾向を甘受させられている。基本的には(安保条約による米軍への国土の開放規定により)県土の5分の1を米軍に提供しなければならず(その地代は当然得られているがこの提供の大部分は日米政府の強制による)、しかも政府関係者の証言によれば「海兵隊展開は軍事的に地政学的に沖縄でなくともいい」のであり、他県に移設する政治的努力が望まれるのに関わらず(沖縄の声には耳を傾けずあるいはそのふりだけして)これを他県において説得するありふれた交渉機会を合目的的に捉えた形跡はなく、その故にまるで既成事実であるかのように「招かれざる客」として傲然と居座っているのが現今在沖米軍であり、彼等が理不尽にもかかる図々しい「居直り強盗」まがいの態度で厚顔無恥な植民地政策を臆面もなく継続しているのは、彼らの国民性に善悪問わず鎮座ましましている「愛国心」「忠誠心」なる前近代的情念によって強靭にも支えられている、「国家安全保障」絶対主義のせいである。
 これの故に沖縄県民の自由な居住意思は敗戦前後から根本的に阻害され、国内法的自由の守護さえ日本政府のアメリカ一辺倒姿勢によって打ち砕かれている。
 移住者である筆者は移住する前にはこうした実態について切実な関心などありもしなかったし、又沖縄から見た本土人の、情けないほどの「同胞」に対する無関心ぶりを今にして自己反省せざるを得ない。筆者がこうした事がらを書き連ねるのは筆者の趣味でもなんでもない。今あなたが持っている本土人としての沖繩認知は、無関心か間違っているかあるいは正確さを欠いているということを、筆者の「言論の自由」において伝えるためだ。この自由は沖繩において深く自覚させられた。自由は、束縛専制統制が現実にあって初めてその本来の価値を示す。(中断)

詩397 沖縄からの沖縄移住者のメッセージ 14

2013年01月09日 07時12分14秒 | 政治論
 仲井真のバカ野郎が沖縄振興策に乗っかって「金を出してくれるならみんな大喜びです」と安倍晋三に言ったとか、甚だしい与党自民党政権おもねりそのものである。つまり政権交代で一番嬉しいのは当然このバカ知事にほかならず言わば孤立していた日米安保堅持主義者の「この世の春」が到来したというわけだ。自公のうすらトンカチ共が水を得た河童さながら「辺野古推進」を声高に叫ぶのを聞くと虫唾が走るのは筆者ばかりではあるまい。沖縄県民はこの国の堕落した倫理的荒廃ぶりに辟易している。(中断)

詩397 沖縄からの沖縄移住者のメッセージ 13

2013年01月08日 23時29分19秒 | 政治論
 敗戦後日本列島は、連合国米英ソ中(中華民国)による東西もしくは南北分断統治の憂き目を味わう恐れがあり(東京35区をベルリン並みに東西に分け、東を社会主義陣営、西を自由主義陣営の枠組みに入れるという)ドイツ並みの様相を呈するところだったとはかつてよく聞いた話だ。その実現を見ぬうちに立ち消えたらしいが理由はいろいろあったようだ。
 結果的にアメリカの一人勝ちであるため、日本については連合国中最大の軍兵を投入して激戦を制した彼らの思い通りになったというべきか、あるいは極東の軍事的優位性を確保しようという対ソ画策(米ソ冷戦の兆しは戦中既に萌芽していた)も当然あったに違いないが、いずれにしろサンフランシスコ講和条約に基づき南西諸島に襲いかかった敗戦国処遇は過酷を極めた。
 つまり北緯29度線を境に日本国は日本と非日本に分かれ、非日本においてその施政権を完全に近く失った(米国の最終決定権保持)。非日本は琉球であり奄美もこれに当初含まれたが、激烈な反対運動の末奄美は鹿児島県に帰属し一足早く本土復帰を果たした。
 琉球が非日本とされたのは、主として明治政府による「琉球処分」が、日本帝国による弱小被抑圧民族に対する強引な併合行為とアメリカに看做された為である。また人種的民族的相違について印象的に速断したとも考えられる(アメリカの対沖縄に対する矛盾した見解は、沖縄に関する日本政府の「潜在主権」なる異常な権利を認めたことに見られる)。
 しかしながら、人種的民族的異種性が学術的に否定されたなら(日琉同祖論以下遺伝学的論証)明治政府の琉球処分は「侵略的植民的行為」だけで片付けられない「(同一民族内の)差別行為」の顕現として考える方が論理的であり、アメリカ合衆国の防共軍略が専横する結果と見るなら、まさしくこの矛盾した沖縄待遇は現在も引き続いているアメリカ合衆国による、異国に対する軍事的な意味の植民地主義としか言い様もない。
 日米安保はこの返還合意と結託して継続されたのであり、沖縄は、安保の代償として軍事基地温存のまま「祖国復帰」するという、「国家による同一国人民への差別的待遇」をもって日本国施政権下に組み込まれた。
 尤も、憲法違背の軍事同盟が60年近く存続し、剰え自国の実質的軍隊さえ保持している論理的倫理的法的破綻を考えるなら、このような馬鹿げた前近代的な国家行為は推して知るべしといったところで、日本という国は、混濁し、収拾のつかない国家構造とでも表現するしかない、極めて異常な国なのだと思われる。というよりも、アメリカ国家安全保障機能が今や間違いなく世界性を喪失した、偏狭な国家エゴに陥っているという事実に関し、無批判に看過するこの国の精神性の堕落ぶりが目に付くということだ。
 繰り返せば「国家対人民」の対立という明確な関係措定によって自己自身を規定し、法規定のない「国家専権事項」指定案件の強行実施になる、民意に背く安保と軍事基地に対しては常に必勝臨戦体制で臨む必要が人民にはある。(中断)

詩397 沖縄からの沖縄移住者のメッセージ 12

2013年01月07日 14時26分41秒 | 政治論
 北部訓練場は沖縄県北部、やんばる(山原)と呼ばれる樹林地帯に展開する米軍海兵隊の所謂ジャングルを想定した野戦訓練場として、一部返還代替施設設置のため住民160人が普通に暮らす東村高江地区に、今例のオスプレイヘリパッド工事が急ピッチで進められている。
 そしてこの住民と有志協力者が集って、工事進捗阻止の座り込み説得工作が早朝から夕刻まで休みなく続けられている。冬場の沖縄は本土に比べれば春か秋の気温だが、西風北風の吹き具合では朝夕の体感温度は老体を鞭打つ程度には寒い。ましてや「沖縄差別」そのものの政治環境からくる無作為な基地負担押しつけ構造に対するやりきれない憤りによって、日本とアメリカ二つの国から受ける理不尽な仕打ちはその精神を凍てつかせるものになるというものだ。
 その、ジャングル訓練のために兵隊を現地派遣させる費用もばかにならないらしくアメリカ本土にそういう訓練場をこしらえる計画が持ち上がっているそうだ(琉球新報政治欄)。ここぞとばかり日本政府が「それじゃあ沖縄の訓練場は不用になるんじゃないか」と外交筋を通して言えばいいのに、沖縄県民の真の負担軽減には頭が働かない本土の日本人にそういう外交手腕を振るう契機がおとづれることは不可能に近いということになる。
 辺野古公有水面埋め立て許可申請は、県幹部に言わせれば防衛省の「自爆行為」だそうだが、60年安保を強行突破した岸信介の末裔たる安倍晋三ならやってやれないことはない。
 何度も言うが、アメリカ合衆国における「愛国主義」が絶対的に支持する国家安全保障施策に善悪の区別はない。いくらでも議論されるべきだったブッシュのイラク戦争を小泉首相は無批判に支持し、日米安保と地位協定の「不平等性」「治外法権」及びまさしく押し付けられて作られた国軍たる憲法違反の自衛隊を温存させ、沖縄返還に際しては「密約外交」によって県民を欺き、国際戦争条規に違背する植民地政策の執行で一行政単位に特化して軍事基地を蔓延らせ続ける、日米合同の「人種差別」精神に「良き隣人」などという甘ったれた関係は金輪際ない。
 対中施策乃至戦略傾向には対日的なトーンダウンを見ざるを得ないが(安倍晋三訪米延期を強いられる)、いずれにしても本土の日本人が米軍基地に忌避感を示す歴史的事実がある限り、沖縄がその作られた「政治的環境」を逸脱した時点で日米安保は成り立たなくなる。
 日米の異常な蜜月は実質上完全に終わった。安倍晋三が軍国主義を喧伝するならそれは実際上米軍の支配下にあるものでなく独立編成部隊でなければならない。そして当然乍米軍とも対抗する核を兵器化する必要がある。
 しかし事実上いかに防衛費を増やしても国軍維持のための安定的財源は到底充当されないだろう。つまり安倍晋三軍国主義亜流にあっては所詮コップのなかの嵐に終始し、かれの政権時にこれが一歩でも前進することはない。我々人民は、近在する軍隊は住民を護らないし軍隊の存在は戦争を喚起する唯一の条件であることを知っている。従ってこの国の民が15年戦争時の狂熱に冒される繰り返しは、いかに強圧的に政治の嵐が吹き荒れても金輪際自発的に生起するいわれはない。(中断)

詩397 沖縄からの沖縄移住者のメッセージ 11

2013年01月06日 09時03分37秒 | 政治論
 人は遅かれ早かれ死出の旅に赴かねばならない。国はやがて滅亡する運命にある。マヤの予言が嘘だったわけではない、人類の消滅もいつか迎えねばならない。宇宙創造のビッグバン(137億年前)から太陽系形成と地球誕生(46億年前)へ90億年、この途轍もなく長大な時間の中で地球などは所謂物質的安定を得るわけだが、それはほんの始まり、現在でも宇宙は絶えず変容し生成と消滅を繰り返している。そして地球そのものもこの46億年のあいだに様々な流転を演じてみせた。
 当然のことながら当初極めて高温だったところから徐々に冷えていく過程で、地球の環境的要素が外郭的(地球内部とは別に)には生物生育に適正の環境形成へ至ったのだろうが、その間には適者生存則に基づいて種々の生物学的生滅を繰り返し、現在見る多様な形態の、環境順応生物群が居残ったわけだ。
 史上最大規模の大量生物種絶滅の事件は約2億5000万年前起こったとされる。その後所謂恐竜時代に入るがそれも6550万年前に終わる。ここからやがて霊長類が出現し人類が誕生するまで更に6000万年、今からおよそ700万から600万年前に至って(現在最古といわれる人類の化石がアフリカで発見され)人間が地球上の支配的生物種となったことになる。
 恐竜絶滅の原因は様々取り沙汰されているが、巨大隕石の衝突がその最大のものと言われ定説化しつつある。恐竜以前の大絶滅事件は地球上あるいは地球内部の大規模な活動を中心にその環境破壊が進み、生物環境が不適正なものに変化したことによるとされる。
 いずれにしろ所謂噴火活動が齎らす有毒な火山性ガスによって大気が気温上昇し、ガスで充満する(無酸素状態になる)というようなことがあれば生物は生きていけない。勿論海水が蒸発し海洋がなくなればあらゆる海中生物も絶滅することになる。人類は如何にして滅びるかという研究は余り真面目にされてないようだが、予言や想像ではなく「滅び」を前提にしてどのように絶滅するかシュミレートすることは恐らくそれほど無駄なことではない。
 それは生の帰結としての死でなく死から生を捉え返すということに同じい。何故なら人は確実に死ぬのであり同時に死ぬまでは確実に生きるのだから。最大の不確実性は死後の世界の有無なのだろうが、逆に言えば死後の世界こそがあり生の方は夢なのかもしれない。
 個々の人間にとって「悠久」とも言える時間にあっては、大震災も巨大な地球的変動の、ほんの一隅におけるひと呼吸くらいのものなのだろう。2億年近く生き延びたかつての覇者恐竜からすれば人類は未だ初期の揺籃期にあるとも言える。我々は「人類として」生活しているのではない。だが逆に「人類として」生かされている。高々7,80年の命を大げさに語ったところで宇宙にあっては芥子粒にも満たない。ライプニッツの「窓なきモナッド」は多分に「予定調和」を加味するがどこか楽観的だ。人知のとっかかりは「事実」や「史実」の羅列に過ぎないが「運命論」的に調和しどこへ行こうというのか。まさか戦場ではあるまい。デカルトは方法論を言っているのであって、およそ懐疑することを止めたらあらゆる紛らわしい政治的画策が津波のように押し寄せ呑み込むことになる。(中断)

詩397 沖縄からの沖縄移住者のメッセージ 10

2013年01月03日 10時51分11秒 | 政治論
 今回のこの政権交代は、倒壊した民主政権において後付けで主流となった保守停滞主義(官僚まる請け政治)から、時代を逆戻りした自公保守反動政治へ、臆面もなく右方向に振れた政権交代と見ていいのだろう。
 そして前政権時(民主政権)、それの野党時代に析出したマニフェスト、又は公約として奔出してみせた旧自公政権時あるいはそれ以前の55年体制が持つ矛盾、錯綜、過誤になる様々な断層について、この現安倍自民政権は3年間の雌伏の時期に反省と改善を加える代わりに、むしろより武装した推進路線(選挙対策としての争点ボカシ)、意匠を凝らした全体主義(扇情的スローガンの説明なき掲示)を旗印に選挙戦を勝利したと見せかけているが、報道等散見する限り「原発再稼働」「原発新設」あるいは脱原発の「見直し」の可能性を断定的に示唆している以上、福島第一原発の「ホトボリ」が冷めやらぬうちに、かつての自民政権が推進した原発行政への無批判な後戻りが可能なほどに、この国の言論、思潮、見識が無力であり、一定のコンセンサスを得た良識をも国家エゴが凌駕するという、まぎれもないファシズムの擡頭を危惧する事態になってきたと考えるしかないし、向後いよいよ顕在化する安倍政権軍国主義政策にあっては、国の民が心して監視する覚悟を強いられる状況に突き進むに違いない。
 一方、日米安保及び地位協定の不作為で不平等な効力が残されている限り、アメリカ合衆国にとって日本は傀儡でありアジア戦略上の駒にほかならないため、「生かさず殺さず」の統治理念のもとその植民地政策に殆ど変更はなく、しかも対中戦略の複相化からして日本がどんな奴隷的服従を余儀なくされるか全く見当がつかない。
 こうした情勢において国政の不如意を託って目をつけるべきは、単に選挙制度の問題ではないのであって、現に民主政権交代の「やらせてみろ」的実現さえ既成内閣支持率低下に反映する民意総意により徐々に可能となった事実から、誤った施策が全体として時の内閣を突き崩すことにつながる例示として捉えることができるかと思わせた。
 しかしながらこの期待はずれの民主政権のあけすけなほどの不見識ぶりは、旧帝国的官僚機構と戦後民主主義の相克が、想像以上に段違いの効力差を持つことをあらためて我々に見せつけたと言える(つまりは民主政権倒壊ではなく政治そのものの不可能性を顕在化したことになる)。
 それは特に政権の初っ端において沖縄問題という特殊に突出した、前近代的な「差別性」を内包した、「普天間問題」の失政として現象した。しかしながら、100年河清を待つ的な不変の政治不作為状態にある「沖縄問題」は、明らかに普天間に極言される単一な問題ではなく、この国が従来有していた「人種差別」優越意識を底流に持つ「人間性」が問われることであり、世界的には「世界人種差別撤廃委員会」規定の人種差別要件に合致する、普遍的な集団での「イジメ」問題に行き着く。(中断)