沖縄は今、北部やんばる(山原)地方を中心に緋寒桜も見頃を過ぎ、桜まつりは終盤を迎えている。日本一早い桜として県内はもとより県外からも、物珍しさから観光客が押し寄せるが、いかに温暖な亜熱帯気候の恩恵があるとは言え、それだけで人が心浮き立ち、「鼓腹撃壌」して「我が世の春」を謳歌するといった生易しい状況ではないということを、28日の本土での首相直訴沖縄県窮状訴え集会が、いささかなりとも伝えているものと思われる。
翁長那覇市長の言うとおり、沖縄には基地経済で食っている現実(基地関係シェアは5%にすぎない)などない。基地労働者は1万人(県人口140万で労働人口は60万)を切っているのであり、基地が返還されれば、この失業者の雇用を救援することなど訳もない。
観光資源の観点からすれば、企業努力と強固な県経済地力のバックアップで、米軍向け生業を質転換する方途はいくらでもある。経済的実情からの基地温存理由付けには、本土側の意図的で根本的な欺瞞がある。むしろ、様々な屁理屈をくだくだ言い募っても到底払拭できない県民のなかの基地への憤懣は、まさに根本的な解決法なしには収まりがつかないという現実だ。
根本的な解決法とは日米安保破棄に始まる沖縄県独立自治体化、であり、最終的には琉球立国に至る精神の自律的復活にほかならない。
沖縄県人は「優しい」、だがもしかすると「臆病」かもしれない。何故か。「不安」があるからだ。その不安の内容には言及すまい。ドラマトゥルギー的には「波乱万丈」な境涯ということになろうが、その意味では物語の主役には違いがないとしても、この現実的主役はしかしながら、日本国のなかで興行収益を爆発的に伸長する、根本的な、強烈なメッセージ性に事欠く一面がある。
先頃目取真俊氏の「虹の鳥」(2006年初版とあるから結構新しいが初出は「小説トリッパー」2004年冬季号らしい)を拝読したが、こういう線の押し出しなのかとも思う。ただシュペングラーの言うように、歴史にはもしかすると普遍妥当な「人間」を要求する決定的な理由がないのかもしれず(ギリシャもローマも果てはこのアメリカーナも、いかにその個別的偏頗性をこき下ろしてさえ、その生存を続ける何か別種な正当性というのがあるのか)、甚だ穏健な保守的見解にまで墜落する危険性がある。学者は「限界の発見」を仕事とするらしいが、生活者は基本的には保守的では到底ありえない。保守的では食っていけないのだ。つまり可能な限り(法的に?)ギリギリ過激な行動で生き続ける。そこに極めて生々しい弁証法があり、肉体と精神の相克乃至調和が生まれる。いかにして「間違えるか」、失敗するか、「誤って」米兵をその平穏な基地生活から引きずり下ろすか、いかに過激に衝撃を与えるか、だ。(中断)