沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

この国の終わり 沖縄を侮辱し軽視し言いたい放題言い抜ける日本人

2021年05月26日 17時24分43秒 | 政治論

 沖縄県コロナ感染者状況(5月25日現在)

入院441441人(重症者6464人、中等症212212人)、入院療養等調整中630630人、宿泊施設療養中202202人、自宅療養中637637人、療養中患者計19101910人、死亡148141人、累積感染者数1544115299

名護市564562人(解除507505人)、北部保健所管内196196人(解除182182人)

那覇市47254662人(解除40593999人)

上記数値赤字の部分は2020年7月以降の数値。つまりほぼこの10か月余りの期間にここまで感染拡大したという明白な証拠だが、この間にこの国が行ったGoToキャンペーン、国のメッセージ不足や矛盾する国策がしからしめているとしか言えない、ゆるゆるになってきている国民の(特に低年齢層の...10代から50代くらいまでの)感染警戒心、オリパラマフィアどもの無責任な東京オリパラ前のめり姿勢、水際対策が機能しないボケ切った国の危機管理体制、一向に接種が進まない不徹底なワクチン供与体制、ひっ迫する医療体制への脆弱すぎる国の後方支援、中小零細企業への手薄な補償による義務押し付け、総じて無能無策悪策だらけの安部・菅政権が齎した国民的被害状況であり、同時にこういう政治権力にいつまでも引導を渡さない国民性が自ら墓穴を掘っているのだ。それは沖縄も同断であろうが、しかしそれとは別の重大な問題がここ沖縄には厳然としてある。つまりは民主主義が機能しない根本的な国家的欠陥だ。

 あの細田なにがしのああいう沖縄に対する侮辱的(としか言えない)発言などは、この国では沖縄に対しては何も今に始まった話ではなく、この国自体が永続的に持っている憎むべき沖縄軽蔑(軽視)の本音が、自らの言葉や態度ににじみ出る薄汚い偽善性に恥じ入ることなく、公人がぬけぬけと知ったような駄言をほざく下劣な国家環境をあらわにしている。こいつらの脂下がった下卑て歪んだはらわたが、余りに醜くてやりきれないと、本土からの移住者は地団駄踏む思いで独語するばかり。

 ところで日本国では今、IOCに絶対的決定権があり、主催国はその決定に否応なく従う、という構図が見えている。しかしこれは無条件の事であるはずがなく、絶対的決定権であるはずもない。勿論単なる賠償金やらにのみ集中するような話でもない。今ある理念的な国際間基調は、例えばコロナ禍と五輪を天秤にかけて、コロナ禍の現状は本来人流制限(水際阻止)、敏速かつ十二分なワクチン投与(集団免疫の構築)が要であり、当然に感染拡大減衰が目途とされ、一方五輪はその両方において何らの貢献もし得ないばかりか、むしろ真逆の不可測なマイナス要素だけが突出し、いよいよ感染拡大拡散傾向に拍車をかける最悪のイベントだというのが国際世論の主たる傾向であり医学的、科学的結論のはずだ。

 この明らかな結論を度外視してIOCと日本国はその逆の言い抜けを繰り返している。彼らの示す五輪開催の理念的基調はやはりそれでも「コロナ禍に対する人類の圧倒的勝利」というものらしいが、そこに逆に透けて見えるのは彼ら自身の対コロナ敗北感、絶望感にほかならない。彼らはその自らの敗北を虚勢的に糊塗しようとトンデモ発言でごまかしている。

 沖縄は今日、5月26日過去最多更新の302人の陽性者を出した。東京があんなに少ない数値とは到底信じがたい。いずれにしても国家の劣悪さは、沖縄にとっては重大な死活問題に直結するのだということがはっきりしてきた。(つづく)

 


この国の終わり 暇人の東京オリパラ問題分析

2021年05月17日 17時46分46秒 | 政治論

 先ず去る2013年秋、2020年度五輪招致の最終プレゼンにおいて、この国はその首相安倍晋三が東京電力福島第1原発の汚染水漏れ問題について触れ、「(汚染水の)状況は制御できている。東京には今までもこれからも何のダメージもない」と明らかな大ウソをついていた。(以下の記事)https://deslys.blog.fc2.com/blog-entry-501.html

「福島はアンダーコントロール」という大嘘  2013年9月、安倍首相は東京オリンピックの招致に成功させた時のことが忘れられない。福島の状況を「The situation is under control」などと笑顔で大ウソを言いきってしまったのである。当時、フランスでも、タンクから大量の汚染水が海に流れ出していると大きく報道されていたにも関わらず、これだけ大の嘘をつける才能は人並みではない!
 東京電力は20日、福島第1原子力発電所の地上タンク周辺で水たまりが見つかった問題で、漏洩したタンクを特定し、漏洩した汚染水の量が300トンに達すると発表した。漏洩量は過去最大という。汚染水からはベータ線を出す放射性物質が1リットル当たり8000万ベクレルと高濃度で検出された。漏洩は現時点で止まっておらず、東電は詳しい漏洩箇所や原因などの特定を急いでいる。
 福島原発事故が発生した当初、日本は大した事故ではないとカモフラージュしていたが、外国では報じられていた事故の重大さが少しづつ明るみに出てきた。オリンピック開催地選定投票が行われたのは事故から2年半たっていたので、事故は収拾が不可能かもしれないと疑わてきた時期であろうから、この楽観的な発言には日本人でさえ驚いた人が多かったはずだ。
 こうした首相の発言を、ル・モンド紙では次のように訳していた:
  • La situation est sous contrôle, a-t-il déclaré. Il n'y a aucun problème, cela n'a jamais causé ni ne causera jamais de dégâts à Tokyo ! Aucun problème de santé n'a été enregistré jusqu'à présent et il n'y en aura pas à l'avenir.
  • Aujourd'hui, sous le ciel bleu de Fukushima, des enfants jouent au ballon et regardent vers l'avenir. Pas vers le passé.

次に、のちに発覚する元オリンピック招致委員会委員長の竹田 恆和による下記の事実が報じられた。

2018年12月、フランス捜査当局は東京五輪招致をめぐる贈収賄容疑で竹田を容疑者とする捜査の開始を決定した[8][9]。2019年3月、これを受けて「会長辞任は避けられない見通し」と報じられる

 2021年1月30日、東京五輪招致を巡る贈収賄疑惑に関し、フランス当局の予審判事が『日本の捜査協力は限定的で欠陥が多い』と指摘していることが明らかになった。

 この二つの明白な不正、不祥事(国際的不祥事の厳密な裁定は基本的にあり得ないとも言われる)は、東京五輪招致において明らかなアンフェア行為があったことを示している(尤も随時開催国等の贈収賄行為は近来常習化しているといわれる)。但し概ねこの不祥事、不正は特徴的な何らかの傾向に押されて次第にスルーされてしまった。その傾向というのは例の忌まわしい時代風潮、post truthと無縁ではない。つまり、「真実」に対する「欺瞞」「情念」「修正主義」などといった本来的「無価値」、乃至非論理性にかかる公的な主張が、恰も論理的で理性的、理念的な価値を有しているかの如く装った挙句に、一つの正当な存在価値の有効性を持つかのように、最近現実の社会で何気に「大きな顔」をし始めたのだった。

 それは、ひと頃(取り巻きの忖度等もあって)安倍政権時には見たところ有効な、世界理念創造に加担する勢力とも思われたのだが、この宰相に特殊に発生したモリカケサクラ事件等疑惑の渦中で、そのうさん臭さに次第に人民が朧気にも気づき始めて、このコロナ禍でも、連日報道される、拡大の一途をたどるばかりの「待ったなし」の感染状況、感染力が倍加する変異株脅威(治験、エビデンスにおいては現行ワクチンの有効性にも疑問符が打たれ)、引き続き現場において頻発する医療ひっ迫危機などに押されながら、それでも東京オリパラ実施に向けまさに揺るぎなくその姿勢を持続させるIOC、日本政府、無言?の東京都、組織委員会、等の「日本のコロナは世界に比べ大したことはない」(高橋なにがしのツイート内容)という空気感の浸潤にもどうやら反発と違和感、忌避の念を、概ね国民の過半が持ち始めている、という様相だ。「東京五輪の延期・中止」8割以上に ANN世論調査 https://news.yahoo.co.jp/articles/07588127c20dd015ef6c4c0c462fa8af6677851f?tokyo2020

 今国民は、国家政府やIOC等の、東京オリパラに関する非決定的な状況での、開催に関する様々な説明のない肯定論にどうしても納得できない心情を抑えられないでいる(とりわけ菅首相の紋切り型で繰り返される作文的言い訳はまさに思考停止の体を成しているとしか言えない)。つまり東京オリパラがたとえ強行的に実施されるにしても、コロナ禍に関しては如何にしても決して払しょくされない不安感がどこまでもつきまとう、ということ。これに対する国民向けの十二分な説明というものがないために、結局は常識的にオリパラ中止意見が過半を占めることになる。この常識というのは、勿論現在のこの国の多数決アイテムではない、つまり実質的決定権は存在しない。だから今回、最終実施決定者は、この常識というものを敢えて超えたところで決定すると考えられる。その場合は、その決定は世界的ともいえる常識的見解に反して特殊に下された、と見做される。

 しかも、我々が漏れ聞くIOCはじめJOC、組織委員会、あるいは自公政権、いわゆる「オリパラマフィア」等が、是が非でもそれを開催したい心的傾向の根本に、必ず経済面(利権、既得権、損益計算)が浮かび上がるという現実があり、その傾向に二次的に(実際は第一義のはずだが)取ってつけたアスリートファスト理念?が相乗して、明らかに無理からぬ開催中止世論を、情緒的に強引に開催に向け誘導しようという肚が透けて見えるようになった、つまり、最終決定者の開催決定理由は聞かずとも見え透いている、単純に言えば感染拡大や人命損失よりも組織的算盤勘定が優先されたということになる。当然世界の批判、非難は永続的に繰り返されよう。ところで、先の大戦の参謀たちのように「やってみなきゃわからない」状態の意思決定が仮に行われたとしたら、この国の「敗戦国」体質は、全く戦争以前も以後も変わらないというていたらくを世界中にさらすこととなろう。まさにこの国の「過去に学ばない」国柄が否応なく露呈されるわけだ。(IOCは責任を日本に押し付けて逃げを決める)。

 沖縄県のコロナ感染者状況(5月16日現在)

入院中423人(重症者50人、中等症160人)入院療養等調整中289人、宿泊施設療養中197人、自宅療養中569人、療養中患者計1478人、死亡141人、累積感染者数13859人

名護市535人(解除441人)、北部保健所管内194人(解除146人)那覇市4196人(解除3735人) 

沖縄県「緊急事態」指定を国に要請へ 酒類提供は終日自粛も https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1322795.html

 

 

  


この国の終わり 戦後日本を完全否定する常識とは

2021年05月07日 07時20分53秒 | 政治論

 当時「事件」と呼称された1970年昭和45年11月25日にあった自衛隊市谷駐屯地での出来事は、大正と昭和の交(大正天皇は1926年大正15年12月25日に崩御し、その時点で昭和元年ともなっている)の一年前に出生した作家三島由紀夫(平岡公威 1925年大正14年1月14日生)にあっては丁度満45歳の時、つまり昭和時代をまさに時系列で生きた人物として象徴的な「時代の子」という存在の、現場存在証明なる意味合いさえ醸し出して、死後満50年(半世紀)を経た今にしてむしろはっきりと、この人物の言動につき正確に抽象化(歴史的評価を付すということ)すべきであり、明確な「理念の検証」という遡上に載せるべき在り様を示し始めたと勝手に思っている。

 この人物に対する巷間のあらゆる粉飾じみた伝説奇譚の類を一切取っ払えば(その中には「天皇」さえ入らないことはない)、思うにこの極めて常識的な考えの持ち主(というべきと思う)は戦後日本という国の在り様を真っ先に、完全に否定し尽くした、戦後最初で最後の行動的(極めて限定的にだが)思想的存在という位置づけなのではないかと思料する(歴史的評価は「大塩の乱」並みとまでは言えないのだろう)。

 当時米帝国主義的戦争経済主義が正義の警察のような企てを世界中に展開していたのだが、高坂 正堯の所謂「現実主義者の平和論」ばりの吉田ドクトリンにより、正確には臨時的な「軽負担国防策」から復興経済主義が主流となり、池田勇人の「所得倍増計画」以降の高度経済成長政策が戦後日本を世界2位の経済大国に押し上げていたころ、「カソリズム対コミュニズム」なる鉄のカーテンによる冷戦が世界の東西を分断し、米国はじめに西側陣営から日本は極東における防共の要と位置付けられ、警察予備隊(のち保安隊、自衛隊へ)に始まる「逆コース」が際立つようになっていった。

 戦後処理としては明らかに一方に偏したサンフランシスコ講和条約締結(交戦国であった中国<中華民国・中華人民共和国>とソ連、およびインド・ビルマが加わっていない)にはほぼ同時に「日米安全保障条約」なる軍事同盟的規約が付加され、日本は名実ともに多面的に西側陣営に組み込まれた(独立回復とひきかえに日本が選んだ日米安保体制によって、戦後日本のあり方が規定されることになり、懸念されたさまざまな問題がここから始まったともいえる、と言われる、)。この講和条約は日本の独立を謳う意味合いが込められたが、沖縄・奄美諸島・小笠原諸島はこの時点で独立国日本には属さない、信託統治処遇を受けることとなった.......特に沖縄は1972年まで米国民政府の統治下におかれ、その後返還成っても基地自体は完全に据え置かれたし核密約も存在した。

 ここで少しく沖縄についていうならば、その問題の根本的標的は「天皇制」、乃至日本国に在ってただ一人特殊的地位にある人間の存在ということになり、沖縄に関しては、その最も中心的な、戦後体制への波及効果の原点が戦後すぐに昭和天皇の発した「天皇メッセージ」だと言わねばならないということ。

 筆者は移住者だが、約15年を閲した沖縄移住生活の過程で触れた「沖縄問題」、沖縄に関して本土に住する日本人が忘れてならないいくつかの根本的な問題につき、全く虚心に顧みると、どうしてもこの昭和天皇メッセージが、今の沖縄問題の大元を現実的にしかも現憲法には背反する実質(日本国憲法では天皇は国政に関する権能を有しない)で形成している、と結論付けざるを得ないのだった(結局あらゆる沖縄問題の根本はこの地だけが現行日本国憲法の適用を受けてないということにある)。

 言わば沖縄を基地公害で苦しめている現行米国の指導者たちは、かつてその言動により沖縄島嶼を異国の軍隊に売り飛ばした、何の権限もない昭和天皇の意向(天皇メッセージ)を、後付的におのれらの都合のいい解釈で、今もって現代日本のていのいい人質にして倦むことがないということ(ハーグ陸戦協定違反実態)。但しそれよりも許しがたいのは、例えば辺野古につき米国側意思よりはるかに強度に、日本の2+2外務防衛官僚たちが不可思議な思考停止をして、どこまでも辺野古唯一に凝り固まっていることだ。この概して筋の通らない官僚レベルのあり様は、戦後日本の矛盾に満ちた国柄の実態を象徴するものと見做さねばならない。

 一方沖縄問題から離れてあらためて日本国本土の在り様を具に眺めれば、戦後70年以上を経過した段階でほぼ戦争の影は伝承の域に入り始め、逆コースを辿った戦後日本の矛盾即合一(?矛盾そのまま)の反論理が臆面もなく大手を振ってまかり通り、先の大戦の敗戦に大きく依拠した(かもしれない)現憲法の法精神に対して、三代目ドラ息子たちのあからさまな居直り強盗(歴史修正主義)が頻発する世になった。これが、現今アベ・スガイズムの堕落しきった、度し難く醜悪な政治現象といえるのであり、その薄っぺらで執念深い権力的エゴイズムは「狂気に刃物」の譬え通り、総体的に無責任に国民を死地へ追い込んで平然としている、一種の非人間的な澱んだ下水路の塵芥の寄せ集めにほかならない。

 三島が完全否定した戦後日本の狂った行進が行き着くところ、こうした、取り返しのつかないひねくり回しに終始する、下劣な衆愚政治に堕したわけで、その「愚かしさ」はこのコロナ禍では「衆」にとって明確な死活問題になるのであろう。三島があそこで直に訴えた相手は、残念ながら既に総中流階層化した軽薄な、ある意味現状に満足しきって「総白痴化」した戦後日本という似非民主国の国民にほかならず、その行動は明らかにドン・キホーテの風車攻めと表現せざるを得ない。しかしドン・キホーテに見る「高邁な理想主義」が日本国や日本人にあってどういう扱いを受けるかは、当時の内閣総理大臣佐藤栄作の感想「気が狂ったとしか思えない。常軌を逸している」に表れているのかもしれない。

 それにしても、戦後日本がここまで露骨で節操のないまでに従米隷属を骨肉化するとは三島由紀夫も想像しなかったであろうか。少なくともこうした無様な姿の国の在り様に絶望しないほうがおかしいということ。この国の民は、最早事大主義的にしか反応しないことがわかってしまった。ただ我々はどこかで民衆に希望を見ている。コロナ禍は、こういう希望を何となく現実にあり得ると思わせる動きも見せている。当然国家政府の情けなさは全く別問題で、旧態然の官僚機構とともに何とかしなければならない。現在の国会議員の与野党含めた議員足らざる実質は、到底素直に容認できない。彼らが我々国民のためにまともに仕事をしていると思えない現実はここにきてどんづまりになった。

 沖縄もまた、1972年以来徐々に本土化し、翁長元知事が超政治的に糾合しようとした「オール沖縄」は再び空しく頓挫しようとしている。翁長氏のそれは決してドンキホーテ的な夢物語ではないと今にして思う。むしろ本土の日本が堕落の極みで、氏の正論に全く馬耳東風のていを隠せなかった。恐ろしい現実がそこにある。(つづく)