沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

この国の終わり 何がこの国をだめにしたか?その2

2021年07月25日 19時13分22秒 | 政治論

 この国の国民的なムーブメントは、結局この、「普通ではない」コロナ禍の国際運動会実施の離岸流(民意からの乖離、科学的知見、医学的見地からの離反)をやはり止めることができず、あらゆる負の要素(嘘と差別主義と無神経さ、残虐さ)を満載兼備しながら、ある意味猛然と強行開催しようという菅政権、自公系保守政治集団、当然にIOC(元凶はバッハ会長というアングロサクソン的強圧媒体だった)、JOC、組織委員会、東京都小池百合子(この女史は女流政治家としては鋭敏な方だが都民にとってはどうやらいなくてもいい存在だ)らの「なんだかよくわからない」意思(我々はそこに金権主義やエゴイズム、いじましいほどの自己保存本能などを見る)に従って、7月23日、「水晶の夜」並みのきな臭いような不気味などす黒い光の中で開催されたようだ。

 NHKの実況を見る限り、誰かのお通夜のような重苦しさと不気味な静けさだけが今でも底の方に漂っている。多くの点で正当性に欠ける何らかの巨大なイベントを強行しようとするとき、権力者は彼らのすることに否応なく付きまとう錆や垢、腐臭などを見るはずだが、当然彼ら自身の中から後悔や不本意な本音が洩れることはない。向後この国や世界で起こることは賛否半ばして無責任な連中の言い訳と嘘、強弁に埋め尽くされるだろう。posttruthは続く。

 この東京オリパラはとりわけメデア・マスコミ・ジャーナリズムの商業主義と権力者のこれを利した目くらまし作戦により、コロナ禍のすさまじい現状から目を背けさせ国民をくだらない日の丸礼賛の狂熱に引きずり込み、かつてない非現実的ホロコースト(医療崩壊と死人の山)の惨状を現出させるだろう。のちにこれを顧みて、したり顔に「知らなかった」「騙されていた」というのがこの国の国民の予定された言い訳になる。当然、人身御供を数人でっち上げ、かかる惨状のA級戦犯としてその首を絞める。権力者は敵前逃亡を決め込んで、行方知らずの過去となる。元来た道だ。まさしくオリンピックなどやってる場合じゃない。

 この世を金権で動かしている世界の所謂大富豪等の集う空間と、我々の思考空域とはまるで別世界のような隔たりがある。安倍・菅路線はそういう人類空間における1割程度の経済的上層部のための政治に邁進している(勿論そのニュートン力学的平板さにはどう見ても確かな有意な根拠などはあるはずもないーーオリパラを推進したのはこういう連中だ)ので、コロナ禍に残置されている高齢者、重症患者、中等症者、あるいは入院待機患者、自宅療養者、宿泊施設療養者など、明らかに日々生死をリアルに念頭に置かねばならない人々の事など、数字上の匙加減でしかみることができない(菅が言う「事実」なるものは明らかに総体的には意味がない事実だーー彼は森なしの木を見つけてそれが森と等価だと主張する)。当然、この不遇な人たちに直接間接に重大な影響を与えるだろう多くの新規の感染者に対しても、数値的マジックの中で密かに打算的に対国民的印象だけを操作する話(諸外国に比べ小規模に抑え込んでいるといって)で終わらせている。

 「我が闘争」を渋面とともに読まずにいなかった人なら即座に了解されようが、第一次大戦敗戦後膨大な賠償問題に打ちのめされたドイツ国民の前に姿を現したのは、大ドイツを誇示しゲルマン民族の優秀性を鼓吹する、不遜にして傲慢なアジテーター、国家社会主義、労働者の味方を気取る全体主義の権化、社会の底辺部を底なめずりしてきた劣悪な精神的モブたちだった。その頭目アドルフヒトラーは、民族的出自の卓越性を担保するかのように当時欧州を多くの分野で席巻していた祖国なき彷徨えるユダヤ人を猛然と敵視し、これの廃滅をこそ求めて極端な他者(他国)排外排除思想に固まっていった。これがやがて優生思想となってホロコースト(ユダヤ600万、ロマ、精神障碍者、捕虜、社会的弱者の絶滅)へ凝結し、それが姿かたちを変えて現代に蘇り、世界の富裕層大富豪たちの主流の考え方となり、恐らくはプロテスタンティズムの倫理性が根本的に覆される時代(悪魔の時代)に入って行った。彼ら資本主義の旗手たちは見るからに開き直って、半ば当然のように排他的排外的利潤追求と内部留保のうちに、密かに政治的にある合理主義(適者生存、自然淘汰、優勝劣敗、弱者廃滅)に自らの内面的矛盾を保留する生き方を是とするに至った。

 我々はこうした金権的勢力の蠢きをリテラシーの観点からも明確に喝破しその正体を暴かないわけにはいかない。彼らは恐らくは我々の耳目の及ばぬところで底知れず大胆にこの世の通底音を奏で、密かに確実に「優生思想」という新型のウイルスを仕込み、諸方にじわじわと小規模のパンデミックを発生させている。もしかするとこのコロナ禍もまた彼ら特有の仕掛けが功を奏した一例に過ぎないかもしれない。

 コロナ禍は、緊急事態宣言や蔓延防止等重点措置などで一般人の中から都市やその底辺に生存するいわゆる生活弱者をあぶりだし、彼らを経済的精神的ひっ迫状態に追いやり(コロナ自殺に導き)安倍菅路線により、彼らの生存権さえ奪取するに少しの躊躇いもみせなかった。彼ら自公政権下のこの国の行政機関などは国民のために機能するより、手続きの煩瑣や無意味な建前によって極めて非効率的にしか仕事をしようとしてないために、中小零細企業は明日の命も保障されない奴隷的自粛を強いられている。

 やはりオリンピックなどやってる場合じゃない。日本人はこの国の国家政府の愚策悪策無策によって、望むべくもない、生き馬の目を抜くような生存競争を強いられている。言わば内部留保を残して悠々と生き延びる者らの傍らで、明日をも知れぬ「羅生門」の世界を目にする自身の姿がありありと見えているではないか。

 

 

 

 


この国の終わり 何がこの国をだめにしたか?その1

2021年07月17日 08時42分30秒 | 政治論

 ひと頃は東京オリパラ中止・延期、国民世論8割強というはっきりとした形勢だったのが、菅はじめIOC、JOC、組織委員会、東京都(小池百合子は40万反対署名を黙殺したらしい)がほぼ全く世論を顧みずに開催へ突き進んだ(この事実は否が応でも人類の負の歴史として残るだろう)結果、開催まであと数日という段階で、メデア・マスコミ・ジャーナリズム形勢が、東京オリパラ開催決定の方向で何となく染められ始め、何やら突き上げムードも一部を除いて意気消沈の体で、結局は「どうしてもやるんでしょう」程度の諦めで全ては既定事実と言わんばかりの液状現象だ。

 東京都の感染爆発(数千人規模)は開催をまえにして既に始まっていて、いかにこのオリパラ関連国家政府方針が、コロナ撲滅に対する反対キャンペーンに加担しているかをまざまざと証拠立てている(この事実もまた消し難い史実として残るだろう)。それは言を俟たず、この自公政権、国家政府が、似非国家主義(私家政治化した低劣な国家主義まがい)に毒され、適者生存、優勝劣敗、自然淘汰を不作為に取り込んで、弱者排除、優生思想、中小企業自然消滅こそ望んでいるという証左だ(実際菅の師表はかのデービッド・アトキンソン小西美術工藝社社長)。

 とはいえ、世論としては未だ、黙っていない人は黙っていないわけで、「この国はおかしい」「どう見ても普通じゃない」という感じに大方の在り様がどことなく雰囲気的にはなっている。ヤフコメも事あるごとに反対世論通りの怒りコメントがメジロ押しなのだが、一方で決して崩せない現行体制、という構図はほぼ鉄壁のようにさえ見えている(菅ゲッペルス体制)。ヒトラーが演説気違いだったのは知られているが、菅の一見底深い謙虚を装っている姿勢での「言い抜け」手法はいじましいほどに自己保存本能に添っているようだ。この宰相がいかにくそみそにこき下ろされてもなお健在なのは、この人心に絡みつくいじましさが齎したサバイバル根性のなせる業だ。

 ところがよくよく考えてみれば、(安全安心を連呼する)菅やIOC、JOC、組織委員会、東京都ほか開催容認賛成派の在り様は、尾身会長その他の科学的知見、医学的疫学的見地から見れば明らかにまがいものだと誰でもわかっているはずだ。つまり無理を通せばの譬え通り、菅たちは無理を通して開催にこぎつけた(未だ過去ではないが)のであって、彼らは決して正当に正しい道を通ったわけではなく、また、現実的に即物的に実行された(強行開催された)からと言って向後断じて正当な評価の対象にさえならないものだと誰でも知っている。東京オリパラの実態はIOCという世界的営利団体の営利目的以外何らの理念性も常識も持ち合わせない、堕落した資本主義のなれの果てめいている。日本がこれに少しも逆らえないのはこの国もまた末世現象にある国柄に落ちて立ち上がれないためだ。

 当然にオリパラ後(あるいは最中)のこの国の感染爆発と東京株世界拡散という重大な瑕疵の責任について、彼らオリパラ実行機関とこれを指示した菅政権、国家政府乃至東京都が全面的に問われなければならないし、向後この国はIOC絡みのスポーツイベントには絶対的に参加しないと国民が約定させねばならない。また若し天皇が開催宣言でもしたならば、それは天皇の憲法上の不作為な違反行為というべきものになる。彼の見えざる「意思」と開催促進メッセージは、憲法上重大な未必の故意、避けうべきコロナ感染拡大を未然に食い止める心情の発露を回避した戦犯見做しという事実を派生させる(大方はうやむやにされるのだが)。

 安部菅路線、自公政権、日本会議系保守反動政治、大日本帝国復活、国家主義まがいの民主制否定、歴史修正主義、対中対北脅威扇情、沖縄差別、戦争のできる国、欧米追随、アジア蔑視。

 こうしたこの政権の持つ明らかに時代錯誤な歴史逆流現象は、結局はこの国の戦後体制の間違いをこそ半面教師的に示唆しているのだった。勿論世論の基調はこういうまがい物を諸手で受け入れたわけではないはずだ。その証拠に世論の意を示す公職選挙結果は「他に適当な者がいないから」という(理由にならない)理由で半数近く棄権(政治的絶望を表現)し、組織票頼みの自公政権に簡単に大量の議席を献上してしまったにもかかわらず、各論反対(残念ながら総論は可としている)が常にこの政権の政治の舞台では主となっている。

 結果、自公政権、安部菅路線は必ず強行採決、ごり押し、数の論理だけで、政策決定の立法行為を無理強いに繰り返した。しかも彼らのやったことは元来た道へ急カーブのUターンを図ったに過ぎない。そこでは、彼らの脳漿にのみ宿った帝国復権の不埒な夢を国民世論とは何の関係もないところで強引に具体化しようという、彼らの浅はかな思惑が透けて見える。こうした言わば20世紀的モブ(ナチスヒトラーなどもこれに該当する)の跳梁跋扈に至った原因は戦後日本の追及すべき対象である、敗戦に至った近代日本そのものの真剣な洗い直しを回避したことだった。

 

 

 


この国の終わり 沖縄県民だけが平和を希求しているのか?

2021年07月01日 07時52分38秒 | 政治論

 6月23日、沖縄県は「慰霊の日」として、特別に条例で定めるところ、沖縄戦等の戦没者を慰霊する記念日とし、その日は専ら市町村機関の休日とされる。

 沖縄戦の、苛烈な地上戦による無差別の、軍民共生共死を強いられた地獄のような体験に依拠しているとはいえ、同じような思いは東京大空襲やその他の悲惨な戦争体験にもみられるわけで、その意味では時を分かたず国民等し並みに、何らかの慰霊の思いはその都度各自に湧き上がっているものであろう。しかしながら平和を希求する思い(戦争など二度とごめんだという思い)は本土とこことで何故かくも相違するのか不思議としか言えない。

 1945年6月23日から数えて76年、慰霊の日は、沖縄戦で4人に一人が犠牲となった沖縄の県民ばかりでなく、この戦争での国籍軍民問わず全ての戦没者を慰霊する日であり、沖縄県が県民挙げて、過去現在未来におけるすべての戦争に対する「非戦」「避戦」「厭戦」「反戦」の意思を新たにし、自ら戦争に関わらず携わることがないように、また誰もがそれに赴くことのないように祈念する日とされる。移住者が10数年ここに住して感じたのは、そうした平和希求の念がここでは既に生活の中に普通に存在していて、沖縄戦の戦禍のいちいちが事あるごとに思い出されているという事実だ(但しそれも徐々に若い世代からは消えつつあるのも事実らしい)。

 さて「慰霊の日」は、日本国憲法前文にある下記の記述に則り

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和の内に生存する権利を有することを確認する。

われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけて、全力をあげて崇高な理想と目的を達成することを誓う。

 第9条日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。 国の交戦権は、これを認めない。 

上記条文通り、戦争手段を永久に放棄し、交戦権も認めず戦力を保持しないという、明確な覚悟と意思に従うことを誓う日でもある。

 今、カントの「永遠平和のために」を論うまでもなく、歴史上ほぼ恒常的にさえある、戦争状態の世界的環境を不作為に放置することの非人間性(黙認、逃避、盲従、無知無関心)に思いをはせ、破壊し殺しあい無辜の人々を悲嘆と苦悶のどん底に突き落とすあらゆる戦争戦闘行為が、我々の手で必ず食い止め消滅させうる対象だと思い定め、永遠の平和を現出させる不断の努力を惜しまないと決意したのが、日本国憲法9条他の意味だ。

 当然、日本人がこのような他に類を見ないまさに「理想追及!」の憲法を押し頂いたのは、先の大戦とそこに至った近代日本の在り様に、「敗戦」の痛みを通して深甚な後悔、反省を加えたからだと、今、日本人は確信するし、それ以外何らの意図も含まないと理解する(それなのになぜ日本は戦争のできる国を目指すのか?)。

 しかし戦後のこの国の歩みには当初から「(非人間的)現実主義!」の、「後悔と反省」心性とは真逆の蠢き(逆コース)が織り込まれていた。「警察予備隊、保安隊、自衛隊」という実質的「軍隊」保持コースが歴然たる憲法違反の公然とした行使としてこの国の戦後のその意味の「非人間性」を滲ませ始めたのだ。しかもこれは大戦戦勝国米国および西側防共諸国による、極東における防共の要である戦後日本の囲い込み方針(米国による日本傀儡化)にほかならず、偏頗な講和条約(ソビエト連邦は会議に出席したが、アメリカ軍の駐留に反対する姿勢から条約に署名しなかった。インドネシアは条約に署名したが議会の批准はされなかった。中華民国インドは出席しなかった。)のついでに日米間で安全保障条約が締結されたのも、9条に違背する交戦権、集団的自衛権容認(安部政権時に閣議決定)という逆コースそのものだった。

 戦後76年は時間的淘汰、平準化、希釈化を加速し、こうした戦後日本が抱える国策矛盾をさながら「何事もなかったかのように」現状追認というよりむしろ積極的肯定の方向へ雪崩を打って突き進んだ。蓋し、政権を得た旧社会党の村山首相が1994年、就任直後の国会演説で、安保条約肯定、原発肯定、自衛隊合憲など、旧来の党路線の180度の変更を一方的に宣言した(wikipedea)驚くべき変節は、こうした日本国の在り様を奇しくも左翼側から証明して見せた形となった。但し、その後の社会党の凋落は加速度的に進み、今や野党的求心力を完全に失って、党(社民党)存亡の危機という事態を招いたのは当然の話であろう。如何に糊塗しようと「転向」という裏切りは倫理性への背信であり、その点では現行政権のそれと大差ない在り様と、誰でも思う。この二大政党時代の野党第一党の完全な失墜は、自公系(立憲民主等その他も含めた)保守政治の、泥沼のような戦後政治環境を蔓延らせた唯一の因源というほかない。但し、「カソリズム対コミュニズム」という現代世界イデオロギーの対立軸は米中対決という一大イベントを浮かび上がらせながら、その強固な価値観の相克を展開して、何らの自律的見解も有しない大和民族の先行きの見えない在り様とは別して何の関係もなく、恐らくは向後その実質的主導権争いに血道をあげるのであろう。

 先行きの見えない大和民族の先行きを占うことは極めて困難なのだが、国柄や民族的な意味の絶望感は、折からの東京オリパラ狂騒劇も相まって、更にはコロナ禍の世界的パンデミックに襲撃されて、いよ増しに増し、ステイホームの齎す鬱々した閉塞感は、目に見えて現実の精神症状を示し始めている。恐らくはかつてなく自殺者が絶えないだろう。この国の絶望は最早手の施しようもない段階に来ている。

 夢よもう一度、とばかり菅なんぞは50数年前の東京オリンピック高揚感の再現など目論んでいるらしいが、ひどい話で、(コロナ対策の)政治的行き詰まりを個人的な時代遅れのノスタルジャで幻想的に乗り切ろうという国民無視の私家政治に走る、安倍同様の三流政治をやられては、国民もたまったものではない。さて、ダダ洩れ水際策と蟻の一穴から崩壊する変異株コロナ感染爆発が今秋今冬あたりにどんな悲劇へ導くことか、想像すると現政権への憎悪、抜きがたい恨みは果てもなく湧き上がり、地団駄踏む思いが今から後悔とともにひしひしとつのっていく。この国は一体どこまで苦しめば自分たち国民主体の国になるものか。