沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩の終わり 安部一派の不埒な自己正当化と国民の「先に立たぬ後悔」

2020年06月22日 06時25分38秒 | 政治論

 ここ2、3年、筆者の私事にわたる事情により主に社会性を有する物事に関わる個人としての言動を、できるだけ差し控えるようにしていたので、このブログにおいても取り分け沖縄問題について以前のようにあげつらうことをやめていた。全くの個人的事情の出来(しゅったい)なわけで、当然ながら、外界としてこの間起きていることには、これまで通り相変わらずの蠢き以外、人間界を本質で変えるような斬新なムーブメントは期待しようにも期待できないことは、既にして予測がついていたというしかない。

 ところで我々の有する「時間」という次元dimensionにつき、「現代」という時代は一体数百万年の人類の歴史の那辺にあるのか、それ(現代という時間)は「宇宙的時間」の中では明らかに何ほどのものでもないとしても、ほかならぬ霊長類たる我々が、これ(時間)を有するという己惚れた関係性にある以上、むしろ無限大への飛翔を可能にすると考えても強ち思い過ごしというものでもないのだろう(神があるかないかは賭けの問題に過ぎない)。

 この辺の考察は「創造的進化」の著者ベルクソンに譲るとして、地球温暖化乃至過剰で異常な気候変動や、地殻の周期的異変、といった外界の動きがじわじわと人間界を締め付け始めていると思ったら、今般の(変異性)コロナ禍で注目された感染症や、死亡原因のトップに君臨し続けている悪性新生物といった病原体の、体内において人間を攻撃する「宇宙的警告」というのは、恐ろしくも我々の日常的生活の根本を、完全に近く揺るがすのだと思い知らされる。癌腫は何故現れたのか、我々人類の前に、ただならぬ警告として?。

 9年前の大震災は、惨たらしく、生身の「ひと」というものを根こそぎ滅ぼして、眼前にリアルに、具に、その滅びの過程をひけらかし、やがて「上を下への大騒ぎ」をした割には、いつの間にかありきたりの感傷劇に堕した一面もあったのだが、原発事故にあっては、75年前の(広島と長崎の)惨劇を踏まえてさえ覚醒できない我々(脱原発に踏み切れない)の、我々日本人の、度し難い性向さえ憾みに思うところであり、現今安部一派の、あるいはアベイズムに毒された(自ら知らずに取り込まれていく)連中の、あの目に見えて低劣な、殆ど愚連隊並みの茶番劇を見て見ぬふり、あるいは見知っても知らぬふり、又は見知ってさえ何らのアクションも起こさず却って同調さえ厭わぬというようなこの国の在り様を、呆けたように指くわえて見過ごしている。

 今やこの国の政界における雑多で無力な野党連中の、どうしようもない不甲斐なさを責め立てて、目に見えて犯罪性の高い、低レベルな与党、政権、内閣すら即座に倒しえないといった、さながら「民主主義」とは名ばかりの実態に辟易し、アジア圏ならそこかしこで容易にみられる大衆運動の突き上げさえ、この国では一向に現象しない不思議をどう説明しようか(せいぜいがSNS拡散程度の話、しかも逃げ得の黒川は金品だけはしっかり受け取っている)。

 かかる安部一派のようなモブ(社会のごみ)を生んだ我々自身の奴隷的「無言歌」は、結局するに極めていじましい我々自身のエゴが奏でたものと思われる。このエゴは多分、高度経済成長政策と「エコノミックアニマル」化がおのずと作り出した時代の子であり、一億総中流というなし崩しの平準化が、あらゆる「悪」の跋扈と「不正義」の横行を感覚において馴化してしまうという、恐ろしい国家的環境が醸成されつつあるということだ。銃社会の米国における銃乱射、無差別大量殺戮多発事案は、米国の病的な傾向を示唆するが、日本でも無差別大量殺戮は無際限の自己正当化を包含する、この国の異常なアンチモラルな傾向を明示している(恐らくは安部一派のそれと無縁ではない)。

 国会議員の公職選挙が「金権政治」で賄われているというような前時代的在り様を、国家の退行現象と見ずになんと見るか。どうやら間違いなく安部一派の(えこひいき)画策になるこういう不祥事を、この国は何となく見過ごしてしまうのだろう。何しろ司法権が政治権力によって牛耳られているのだから、余ほどのことがない限り有耶無耶にされる。逆に言えば、それだけこの国はその土性骨のところで巨大な「黒幕」組織に根扱ぎで支配されているということでもある。安部一派のこれ見よがしの自己正当化は、この国の風潮化した社会的不倫(アンチモラル)環境がその土台になっている。

 先の大戦の敗北による敗戦国待遇の持続性、国連における敵国条項の永続性、戦後処理に過ぎない占領政策の非解消性、敗戦国監視体制としての戦勝国(米国)軍事支配の永続性、これらは敗戦国に対する世界的制裁措置として戦後75年経過してさえなお引き続いているのだが、見方を変えれば「国家間の協力体制」などというような実体はどこにもないので、極論米国一強という実態だけがその効力を発揮している。ここに出来上がっているグローバリゼーションは到底「世界性」の本質に見合わない不埒な自己正当化の代表になりおうした。安部一派の、日本国政府の対米従属、従米路線はどのように戦後日本をだめにしたか、今一層ダメにし尽くしたか、日本人はこのことをはっきりと考えねばならない。我々自身の「世界」はアメリカ合衆国ではない、この世界基準という度量衡を明確に措定しなければ日本は永久に救われないだろう。(つづく)