沖縄戦を想像的に疑似体験する試みといったことを、何度も繰り返すうちに県土に未だに埋もれている掘り返されてない兵士県民の遺骨へ鎮魂の思いを伝えたいと思う。移住して4年、沖縄は未だ遠く戦時の闇に閉ざされている。高度経済成長の中一億総中流、なんとか景気に沸き立っている本土とは裏腹に、沖縄は戦争を引き摺って65年明けやらぬ心の闇を抱えながら差別されたまま日本国の片隅で押し付けられた米軍基地の垂れ流し公害をずっと引き受けされ、今後もそうされようとしている。彼ら、県民の拒否の意思を無視し続けて表情ひとつ変えず辺野古の海に何本もの線を描きああでもないこうでもないと机上の空論を重ねる実務者たちに、一片でも慰霊の気持ちがあれば少しは人間らしい一瞬もないことはないのだろうが、望むべくもない。
普天間飛行場閉鎖に関しての民主党政権による欺瞞に満ちた懐柔工作は悉く暗礁に乗り上げているが、普天間固定化の現実はグアム情勢からも数年は確実のようだ。又アメリカ自身の国家財政の危機感は在外基地の維持費軍事費に向けられ始め、海兵隊不要論も浮上して高々沖縄知事選名護市議選の結果程度では何も変わらないという、政権にとってはお手上げの状況がいや増している。少なくとも県民大会時点では沖縄全県政治党派を超えて帯同し県内移設反対の意思はすでに明瞭に示したというのに何故この政権は先送りで逃げ回るのか。というよりもこの政権の理念的破綻を認識し、アメリカのいうがままにしか動かない政府に見切りをつけかつ官僚の旧自民時代の安保堅持体質からさっさと脱却し、.......沖縄の自主独立を特別区域として承認させるべき時が迫りつつあるのかと思われる。アメリカの属国であることを認識しないこの国の無知蒙昧につきあってる必要はない。基地を全面撤去し琉球時代に戻るべきだ。
アメリカの内戦南北戦争を、例えば正義の戦争という場合、リンカーンのゲチスバーグの演説に見る理念について、客観的に見て「正義」と名づけうると判断してもさほど異論はあるまい。彼は、現在民主主義といわれる理念の最初の定義を行い、その政治的位置づけをした。この理念が日本国憲法前文「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであってその権威は国民に由来しその権力は国民の代表者がこれを行使しその福利は国民がこれを享受する」という一節になったが、南北戦争の基本的な意味は、奴隷解放や合衆国統一などあっても具体的にはやや複雑で、所詮その戦争としての罪過は、南北併せて60数万にのぼる最悪の死者数を出していることからも言えるが、いかに正義の戦争といえども苦しむのは一般民衆であり、一般兵士であり、犠牲になるのは真っ先にかかる立場の弱い部分に集中するということだ。正義の戦争を肯定する大概の論陣はトータルな戦争現実を直視せず、いたずらに危機感を煽り、しかも軍事専門家でもないのに軍事的戦略的視点から物申す愚を犯して倦むことがない。見て来たような嘘をいい、という国防に関する素人の数多の意見を聞いていると暇人がよういうわ、とでもいうしかない。(つづく)
他国の領土において戦闘行為をすればいずれにしろ侵略と言えます。日本の基地から他国での戦闘に赴けば、その基地を使用するアメリカは永続的に日本を侵略しているのと同じです。
日米地位協定とは、侵略国が被侵略国の施政権を奪う事をご丁寧に取り決めた屈辱的協定です。まず第一にアメリカは実際の戦争が起こった場合決して日本の守備につくことはない。彼らは自国のためにしか攻撃も防衛もしない。例えば沖縄近辺で小競り合いがあったとしても米軍が日本のために活動するなどあり得ない。
沖縄から米軍基地が撤退した場合、例えば北朝鮮が沖縄を攻撃する理由はなにか。なにもない(資源も広大な土地もない)。中国が日本を攻撃する理由など最初からない。そもそもアメリカに軍事依存を決め込んで以来、やたらに脅威を煽ってしようとしている真の目的は何か。彼らは憲法を改悪し軍隊を持とうとしている。しかしこの軍隊は対米協力のための哀れな予備軍にすぎない。彼らが独自の戦略的展開を可能にする保証や可能性はどこにもない。いやむしろいうならば傀儡軍隊ともいうべき屈辱的な傭兵並みの扱いしか受けないであろう。それが彼らの目指す対等な日米関係だとすれば、開闢以来最も落魄した国家の惨状を目の当たりにするようだ。
彼らは安保によって生じている日本の被侵略現状及び非独立状態から目をそらし逃げているのだ。この事実から現実を歪曲してはならないはずだ。日本が国際的に何者かを目指すならこの日米間の安保同盟関係を解消することに全力を傾注することだ。我々日本国憲法下の国民はまさしく戦争のプロでは今後ともありえないのだから、まずこの日米同盟がもたらす住民被害の解決を断然優先しなければならない。(つづく)
民意には、元々戦争放棄を国是とする日本国では、戦略的仮想敵の軍事的観点を考慮する範囲が含まれることはなく、又そういう観点を要求される筋合いにないし、軍事的視点の代替として経済的要求を突きつける権限も持たないと考えるのが論理的である。従ってこの国の沖縄に対するあらゆる安保押し付け論は、こうした民意に関する専門的の視点を完全に喪失し無視しているし、いわゆる容認派の根拠もどちらかというとこじつけに近く全く論理的でない。国家は最も民主的な根本課題対象である民意を無視して、他国となんらかの取り決めを交わす非民主性に十分な警戒心を持つ必要と義務、責務がある。つまり軍事的視点のみを強調したとき必ず民意が無視される現状から、沖縄の負担軽減という、事実上明白な形容矛盾が生じたことを国家は顧みる必要がある。
沖縄の負担軽減は基本的に米軍基地の完全撤退乃至普天間無条件撤去である。それ以外にはあり得ない。今流布する、名称だけ先行する「負担軽減」は沖縄以外の第三者(本土内地ヤマトゥ)に向けられた姑息なアリバイ作りという位置づけしかできない。何故なら沖縄は、この政府の所謂「負担軽減」交渉の場に当事者として参加する機会も余裕もないのだ。島尻愛子に投票する心理は一面民主党政府への絶望と表裏一体である。この結果は知事選にも起こりうるらしいが、沖縄の民意の現れ方は本土のような単純なものではない。
65年間少しも出て行こうとしないアメリカにその免罪符を与えたのはどう見ても昭和天皇(天皇メッセージ)である。国民を戦争の惨禍に叩き込んだのもこの天皇乃至天皇制である。あるいはそれを利用した近代日本の帝国主義的軍国主義だ。いずれにしろ沖縄は本土の政府、天皇、国民に裏切られる歴史の中で、本土には到底理解されない県民土壌を作らざるを得なかった。
周辺軍事情勢を想像的にでっち上げ恐怖感を煽り、軍事の専門的観点を素人に臆面もなくまくし立てるやつらの顔に唾したい。「おまえさん、そんなに戦争したいなら自分で志願して先頭きって戦う覚悟はあるんだろうな」といってみたところで、どうせ敵前逃亡がおちだろう。旧日本軍並みに「俺たちはお前たちのために戦っているのだ。その住んでいるところから今すぐ出て行け、作戦の邪魔だ」とでもいうのだろう。(つづく)
父ブッシュの湾岸戦争で所謂ピンポイント爆撃を話題にし、これをもって無差別攻撃の謗りから逃れようとしたのは、太平洋戦争でのアメリカの原爆や都市部空襲の免罪符に近い。いかにかような戦略的技術の誇示を目の当たりにしても、断罪されもしなかった過去を消し去るわけにはいかないし、今後このアメリカという国の精神的傾向に人間的発ガン物質を感じるのは無理からぬところがある。
裁きの場(東京裁判等)でもないところで、あの二個の原爆を戦争終結の正当な手段として公認しようというアメリカ世論の異常を当事者たる日本人は明瞭に実感しなければならないし、これを核実験含め正当に断罪する意思を持ち続けなければならない。ナチが実行して倦むところがなかったホロコーストとなんらの違いもない、かかる大量破壊兵器にはこれを使用するべき正当性など元々ないのだ。核廃絶を口にするならそれを実行した自分の行為が間違っていた事を認めなければならない。そうでなければそれは明らかな論理的破綻ではないか。同じような間違いを当の日本の首相までもがやっている。こういうのを偽善者、嘘つき、二枚舌というのだ。だから人民はこの大嘘つきどもが自分たちに苦痛しか与えない戦争の不当性をどこまでも訴え続けているのだ。(つづく)
朝鮮戦争特需による戦後復興の加速化の中成長期を過ごし、日米安保改訂後の高度経済成長と共に青年期に差し掛かり、ベトナム戦争に対する反戦行動に青春の光と影を見、全共闘を横目で見ながら三島事件よど号乗っ取り浅間山荘事件あたりで大方の戦後民主主義を総覧したといえようか。
この間沖縄はアメリカ世であり激しい本土復帰運動と屋良主席の誕生、欺瞞に満ちた返還と屋良知事の誕生という動きの中で独自のアイデンテテイを醸し出しながらも米軍問題に悩まされ続ける日々であったろう。ともかく戦後65年間ずっと沖縄は戦争状態を抜け出なかった。従って沖縄では戦争を語ることは過去を追想するのでなく今そこにある危機を語ることだ。
戦争特番に世間が誘導されるなか実質戦争状態にあり敵は自国でもありアメリカであるとき、一般的にありきたりに戦争を論じる事は沖縄ではいかにも暢気な話になるのだが、言ってみれば、戦争を語ることはこの国の歴史に年々新たにメスを入れる事であり、この場合のこの国の歴史は恐らく明治維新以降ということになり、集中して扱うのは勿論あの太平洋戦争である。そして第一に問題になるのは、この戦争が侵略か自衛かだが、忌憚なく言えば論を待たずに間違いなく侵略といえる。この認識は、たとえ聊かでも自衛の感じがあるとしても本質において決して揺るがない。
戦争状態で他国の領土内に戦略的行為をすれば即ち侵略である。この伝で行けば今の沖縄のアメリカは侵略的状態にある。たとえ政府間同意があっても住民に不同意があれば侵略といえる。これが民主主義の原理だしこれを超える非常事態は今のこの国にはない。
ここでいう民主主義とは国民主権、民意専行、住民主体、の謂いでありその保証は憲法以外に存在しない。またこの原理を超える国家間の取り決めは両国国民の利益にならなければ無効といえる。これについては争点がいくつかありそうだが基本的にはゆるぎない定義といえる。
侵略は国民乃至住民の生命財産基本的人権への脅威であり重大な侵害であり断じて許容できない犯罪行為といえる。こうして侵略者大日本帝国はあの戦争に関し、敗戦国として連合国により裁かれた。事後法だろうがなんだろうがこの裁判は間違いなく世界の歴史的判例となった。むしろ理念的先例ともいえる。法律的又は法理論的敷衍は邪道かも知れず一概に理念的評価はできないが哲学的倫理学的評価はできないことはなく、歴史的検証とその裏づけによりそれは可能だ。
この歴史認識からすると、人道的な戦争犯罪は侵略か否かで決まるのでなくその戦闘行為につき個別に問われるべきで、その対象はこの戦争に係わるあらゆる国となる。しかし戦勝国が敗戦国を裁くこの法的無謀を敢えて実行する以上問われるのは常に敗戦国の行為の犯罪性のみであった。従って東京裁判はこの観点から十分に理念的とは言えず必ず後世の忌憚ない批判に曝される。その第一の槍玉にアメリカが実行した無差別空襲や原爆の使用が挙げられる。(中断)