熱海の朝を散策していると、案内板の有る家を見つけた。
佐佐木 信綱(ささき のぶつな) 旧居(凌寒荘)だった。
佐佐木 信綱について
伊勢国鈴鹿郡石薬師村(現三重県鈴鹿市石薬師町)にて歌人弘綱の長男として生まれる。父の教えを受け五歳にして作歌。明治15年(1882年)に東京へ。明治17年(1884年)、東京大学文学部古典講習科入学。明治23年(1890年)、父と共編で『日本歌学全書』全12册の刊行を開始。明治29年(1896年)、森鴎外の「めざまし草」に歌を発表し、歌誌「いささ川」を創刊。また、落合直文、与謝野鉄幹らと新詩会をおこし、新体詩集『この花』を刊行。その後竹柏会を主宰し、多くの歌人を育成する他、『思草』をはじめ数々の歌集を刊行した。昭和12年(1937年)には文化勲章を受章。その他、学士院会員、芸術院会員を長くつとめた。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
案内板によると
昭和19年、72歳のとき肺炎を患い病後の静養地として、冬の寒さの余り厳しくない熱海に転居して来た。「凌寒荘」の名は友人の徳富蘇峰が中国の名文章家、王安石の詩の一節をとって名づけた。
中略
昭和23年、妻雪子に先立たれた悲しみは、歌集「山と水と」に次のように歌われている。
呼べど呼べど遠山彦のかそかなる声はこたへて人かへりこず
昭和38年12月2日この地で永眠された。(享年92歳)
ここで、徳富蘇峰の名を聞き、親しみが湧いてきて佐佐木 信綱について調べるきっかけになっていた。「佐佐木」の文字は、信綱が中国に行ったときに「々」が無かったので「佐々木」を「佐佐木」したそうだ。
妻を亡くした悲しみが、朝の冷たい空気の中で静かに伝わり、悲しみが湧いてきた。
週末のみの公開なので、中を見ることは出来なかったが、熱海に来る機会があったら、昭和の建物を見て見たいと思うのだった。
佐佐木 信綱(ささき のぶつな) 旧居(凌寒荘)だった。
佐佐木 信綱について
伊勢国鈴鹿郡石薬師村(現三重県鈴鹿市石薬師町)にて歌人弘綱の長男として生まれる。父の教えを受け五歳にして作歌。明治15年(1882年)に東京へ。明治17年(1884年)、東京大学文学部古典講習科入学。明治23年(1890年)、父と共編で『日本歌学全書』全12册の刊行を開始。明治29年(1896年)、森鴎外の「めざまし草」に歌を発表し、歌誌「いささ川」を創刊。また、落合直文、与謝野鉄幹らと新詩会をおこし、新体詩集『この花』を刊行。その後竹柏会を主宰し、多くの歌人を育成する他、『思草』をはじめ数々の歌集を刊行した。昭和12年(1937年)には文化勲章を受章。その他、学士院会員、芸術院会員を長くつとめた。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
案内板によると
昭和19年、72歳のとき肺炎を患い病後の静養地として、冬の寒さの余り厳しくない熱海に転居して来た。「凌寒荘」の名は友人の徳富蘇峰が中国の名文章家、王安石の詩の一節をとって名づけた。
中略
昭和23年、妻雪子に先立たれた悲しみは、歌集「山と水と」に次のように歌われている。
呼べど呼べど遠山彦のかそかなる声はこたへて人かへりこず
昭和38年12月2日この地で永眠された。(享年92歳)
ここで、徳富蘇峰の名を聞き、親しみが湧いてきて佐佐木 信綱について調べるきっかけになっていた。「佐佐木」の文字は、信綱が中国に行ったときに「々」が無かったので「佐々木」を「佐佐木」したそうだ。
妻を亡くした悲しみが、朝の冷たい空気の中で静かに伝わり、悲しみが湧いてきた。
週末のみの公開なので、中を見ることは出来なかったが、熱海に来る機会があったら、昭和の建物を見て見たいと思うのだった。