私のなべ四器(規矩準縄)

今、自分の周りで起きていること。ご近所のトマソンもそんなに、気にしてない。深めにかぶった帽子で、年内不定休営業中。

佐佐木 信綱

2008-04-28 17:06:57 | 気儘に散策
熱海の朝を散策していると、案内板の有る家を見つけた。
佐佐木 信綱(ささき のぶつな) 旧居(凌寒荘)だった。

佐佐木 信綱について
伊勢国鈴鹿郡石薬師村(現三重県鈴鹿市石薬師町)にて歌人弘綱の長男として生まれる。父の教えを受け五歳にして作歌。明治15年(1882年)に東京へ。明治17年(1884年)、東京大学文学部古典講習科入学。明治23年(1890年)、父と共編で『日本歌学全書』全12册の刊行を開始。明治29年(1896年)、森鴎外の「めざまし草」に歌を発表し、歌誌「いささ川」を創刊。また、落合直文、与謝野鉄幹らと新詩会をおこし、新体詩集『この花』を刊行。その後竹柏会を主宰し、多くの歌人を育成する他、『思草』をはじめ数々の歌集を刊行した。昭和12年(1937年)には文化勲章を受章。その他、学士院会員、芸術院会員を長くつとめた。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


案内板によると
昭和19年、72歳のとき肺炎を患い病後の静養地として、冬の寒さの余り厳しくない熱海に転居して来た。「凌寒荘」の名は友人の徳富蘇峰が中国の名文章家、王安石の詩の一節をとって名づけた。
中略
昭和23年、妻雪子に先立たれた悲しみは、歌集「山と水と」に次のように歌われている。
 呼べど呼べど遠山彦のかそかなる声はこたへて人かへりこず
昭和38年12月2日この地で永眠された。(享年92歳)


ここで、徳富蘇峰の名を聞き、親しみが湧いてきて佐佐木 信綱について調べるきっかけになっていた。「佐佐木」の文字は、信綱が中国に行ったときに「々」が無かったので「佐々木」を「佐佐木」したそうだ。

妻を亡くした悲しみが、朝の冷たい空気の中で静かに伝わり、悲しみが湧いてきた。
週末のみの公開なので、中を見ることは出来なかったが、熱海に来る機会があったら、昭和の建物を見て見たいと思うのだった。
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鯉幟

2008-04-28 05:49:51 | ひとり独り言
川を上った鯉が竜になったと言う昔話から、男の子の成長を願って親が揚げるのだが、子供が何歳になるまで揚げるのだろうか。子供が成人するまでだろうか。

武士がやっていた事だから、元服までと考えるのだが、元服が何歳か決まっていないようで、鯉幟を何歳まで揚げるのか分り難い風習だと思う。
まあ今年は揚げて見る事にしたのだが、来年以降は未定。それでも息子が小学生の間は、揚げようかと思うのだった。

鯉幟を揚がられる家はお金持ちの家で、子供の頃見た鯉幟はかなり立派なものだった。
そんな立派な鯉幟とは縁が無いものと思っていたのだが、自分の鯉幟があると嬉しいだろうなあと思って揚げて見る事にしたのだった。お金持ちの鯉幟に比べると、自分の揚げられる鯉幟は随分小さくて、甲斐性無しを実感するのだった。
庭が小さいから、しょんない(仕方が無い)。


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2008-04-27 17:37:51 | 園芸部の四器
プランター苺が赤くなり始め、鳥の襲撃に合わないようにネットを張った。昨年も紅くなった苺が、大分食べられてしまったが、今年は今の所3個の被害に留まっている。

毎朝、摘み立ての苺を食べようと、家族四人分最低でも4個を収穫するためには3周期として12個の苗を植えて見たのだった。ハウス物の苺が終わり、路地物(我家の苺)の出番のようである。
そろそろ、田植えも近いので、発泡スチロールの田お越しをしないとね(笑)隠密農家の作業はベランダで続く。
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黒砂糖

2008-04-27 13:12:38 | 気儘に散策
4月26日(土)ドリームプラザから無料の送迎バスでJR清水駅に行き、「シミフェス」が中止されている事を確認した。雨だから仕方ないとして、イベントの時によく雨が降る気がする。
駅前銀座に行き、此処は商店街に屋根があるので、雨降りでも傘が不要なのだが、人通りは、かなり閑散としていた。子供の頃、「しみず」(この商店街の通称)でしか買い物をしなかった事を思い出し、当時街中の人が買い物に来ていた気がする。人の波で混雑していた事を知っているので、この現状は淋しすぎる。
車社会になり、無料駐車場がある郊外大型店舗に行くようになり、駐車場の無い商店街は苦戦を強いられているようだ。週末と言うのにシャッターが目に付く。

新聞等で取り上げられていた「清水シャツ」を買いに、「リビングハウスこまつ」に行くと、そのシャツは店先に並んでいた。試着をしながら1枚注文をした。店の婦人にご夫婦でいかがですかと声を掛けられたのだが、姫は丁寧にお断りをしていた。
店内を散策していると「櫻珈琲でお会いしましたね」と「陽気ななおさん」に声を掛けられ嬉しくなってしまった。べろんべろんに酔ってましたねと返すと、「お互いに(笑)」とカウンターがヒットした。(新潟からSさんが来清時の、地元歓迎会の事だった)
7月1日に受け取りをお願いして、更に駅前銀座を行く。

みなとマーケットの借り店舗前で、おじさんが何やらやっている。何をしているのかと立ち止まると、すかさず「なめてみな~」と砕けた塊を寄越すのだった。黒砂糖だ。(写真)
口に含むと、ほろ苦く、深い甘みが爽やかに舌を通り過ぎていく。「沖縄のさとうきびから作られているから、葉っぱに付いた塩が含まれていて、ほのかにしょっぱいのが美味いんだ」とおじさんは言う。海に近い所で出来たものがうまいと話が続き、更に健康にいい話が続く。ここでも年寄りの話は、長いのだった。(笑)
一袋買い求めるのだが、母が作るお汁粉は、この店から黒砂糖を買っていると思った。
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カレー

2008-04-27 11:11:41 | ひとり独り言
二十歳ぐらいの頃、世の中にある食べ物に目覚め始め、珍しい物は進んで食べていた。出張で浜松に出向いた時、ふと、インドカレー料理店が目に留まり入った事がある。(浜松駅前)
メニューを見ると見た事も無い文字が書かれていて、日本語で小さく肉の種類と調理の仕方が書いてあった。
記憶では肉が3種類(鳥、羊、馬)と調理の仕方が10種類位あったと思う。その中で、羊を選択、調理方法を覚えていないのだが、本物を食べた気がしていた。
ホールは日本人だったけれど、彼女以外はインド人(?)だったので、厨房へのオーダーもあちらの言葉だった。店内の香辛料の香りが異国の雰囲気で、日本じゃない気がしたのだった。
それ以来、浜松に行く度に、その店に行き違うカレーを食べていた。
しかし、転職をしてしまったので、浜松に行く回数が減り、その店が今もあるかは定かではなく、店の名前さえ覚えていない。(場所は覚えていたけれど、駅前再開発でそれも当てにならない)

ドリームプラザのフードコートにあるカレー店のキーマカレー(写真右のルー)がお気に入りで、もう一つは海老入りシーブードと、タンドリーチキンを食べる事にした。「美味い」の基準は兎も角として、此処のカレーは時々食べたくなる位のお気に入りなのだ。
サフランライスもあるのだが本格的(インディカ米)なので、硬くて美味しく頂く事が出来なかったので、ナンにしている。
この日は、釜の係り(インド人?)が昼食中で、日本人が焼いていた。(ちょっと心配)

このフードコートは、幅広い年齢層が入り混じり、映画の開演時間で混み方が複雑に変化する。Mック、Sきや、カレー屋のお客が交じり合って、まるで異業種交流のようだ。
隣のテーブルで、あのスプーンにフォークの付いたSきや独自のスプーンでラーメンを食べている方があり、使い難そうに見えるのだった。機会があったら試してみたいと思いつつ、此処に来たら多分カレーを食べている気がするので、暫く機会は無さそうだ。


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