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私のなべ四器(規矩準縄)

今、自分の周りで起きていること。ご近所のトマソンもそんなに、気にしてない。深めにかぶった帽子で、年内不定休営業中。

橋の入り口

2015-01-09 06:11:22 | 巴川と市内の川
橋には入口と出口が有ると聞いた事が有りますか。
一説によると橋の入り口は橋名が漢字表記されている方でひらがな表記されている方が出口と聞いたのだけど本当だろうか。
道路の起点側が入口で漢字表示するらしい。



近所の橋を見に行くと北側から見て左側の欄干に漢字表記の橋名板があり北の方向は清水区中心街方向になるので道路の起点は彼方なのでしょう。こっちが入口。
右側には橋の名前、川の名前、橋の構造などが書いて有るけれど常念川を浄念川と表記されていてガッカリする。



橋の南側を見てみるとひらがな表記の橋名板が有り始めに書いた一説は正しい事に成る。
また、ひらがな表記をする時水が濁らない様にとの願いから濁点を使わないことが慣習的に行われたものなどとウィキペディアにあり、そうなのかと感心するのでした。(みやしたばしと読みたいところです)



常念川の一つ下流の橋を見に行くと清水市街地に近い方の欄干に見事な「浄念橋」の文字がありやっぱりそうなのかと反対側に行って見ると…



此方側にも「浄念橋」の文字が有りあらあらと思うのでした。
地方自治体が適当に仕事を発注するから表記がバラバラに成ってんじゃないの。

それならば国道ならばしっかりしているはずと思い一番近い国道149号線の終点と国道150線の起点となる処に架かる橋「羽衣橋」を見に行く事にした。



入口側(道路の起点側)は見事に「羽衣橋」と漢字表記がしてあり国交省はキッチリしているなあと思うのでした。(当然と言えば当然)



右側はこんな感じ「平成四年三月完成」とあり、もう23年の前の事に成るんですね。



出口側は「はごろもばし」と橋名板に書き込まれ濁点を除くと言う慣習は無視されている。お蔭で巴川の水も濁ってしまいましたなんてね。



昔此処で泳いだなどと言われても簡単には信じられないですね。
高度成長期のツケが此処にも残っています。



入口側と同じプレートが出口側にも設置してある。
20年も前から国はしっかり決めてやっていたのに地方自治体のいい加減さには驚くけれど、橋名板がしっかり付けられる様に成ったのは最近の事じゃないでしょうか。

そこで最近(平成26年2月)完成した巴橋(北街道が巴川を渡る橋)を見に行って見る事にした。



入口側(駿府城跡地の方向)から見た巴橋。此れでもわかる様に北街道の起点は府中側(駿府城跡地)て事に成るのかな。
でも、旧東海道から別れて又東海道に戻る道なんだから反対の様な気がするのだけど、偉い人が決めた事なんでしょう。



入口側はご丁寧に両サイド「巴橋」と漢字で表記されている。



出口側の左側に「ともえはし」と有り濁点が無く右側には施工年月日が表記されている。
このスタイルが標準的な橋の表示の仕方なんじゃないかと考えられるのだけど、地方自治体ごとに違うらしいので遠くに出掛けた時には調べてみたいと思います。



そうは言っても現在の巴川は濁っている。遠くに見える丘は日本平。
巴川の原点に行った事が有りますがきれいな水でした。静岡県立こども病院付近では殆ど川の流れが無く水も淀んで仕舞うのは地形的仕方の無い事なんでしょうね。
巴川の治水対策で唐瀬遊水地を作っているけれど勾配の無い地形だもの水が流れ無いのは当たり前ですね。大水が出る前に早く第二工区の工事を完了して欲しいと思います。

清水駅から国一下る

2014-09-21 10:01:17 | 巴川と市内の川
JR清水駅の交差点に有る地下道の改修が終わり通れるように成った様なんだけど、横断歩道はそのまま残っており、小回りの利かない行政にガッカリする。

そんな訳で地下道を通らず、横断歩道を渡る。



お気に入りの店の写真は残しておきたい。




巴川に架かる国道一号線の橋を渡ると護岸が新しい所が有る。
あそこは昔、製材所が有った頃、巴川を遡上して来た丸太筏を流し入れた場所ですね。だから護岸が無かったのだけど、新しく出来たって事は…



今はすっかり埋め立てられていました。
ちょっと前までは細長い溜池が有りましたが今では貯木場を知る人も少なくなりました。



貯木場埋立地の横に有った「清水自動車学校」は今年6月21日に閉校し今では解体が進む。

路上教習に出る車は国道一号線に合流するだけでまず最初の試練を受け、国道一号線から学校に戻る時に二度目の試練を受けるのでした。

教習車両が入っただけで渋滞が起こり、仮免許で走るには国道一号線の交通量は多すぎると思っていました。幸い違う自動車学校で免許を取得したのでそんな試練を浴びる事は無かったですけど、当時は大変だったと思います。

昔ほど運転免許を取る事が必要が無くなったので閉校するのでしょうか。田舎では自家用車が無ければどうにも不便なんですが…。

灯篭流し

2013-07-17 05:42:17 | 巴川と市内の川
巴川に架かる稚児橋で上げる手筒花火を見た事が無いと言う家人を連れて自転車で家を出る。勿論二台で。最近中古の自転車を貰ったので一人一台使用と何とも贅沢な?環境に成った。

巴川近くの○鉄※トアーに自転車を止めると便利なので行ってみると、いつもはガラガラの駐輪場も駐車場も満車でなるほど考える事は皆同じなんだなあと納得。

巴川では上流からの風が有り灯篭も下流に向かって流れている。港橋辺りでは海風が吹き灯篭が遡上したり吹かなければ全く流れなかったりでガッカリするけど、ここは下流に向かって流れていて良し。

この風は手筒花火にもいい風だ。



これから稚児橋の上で行われる手筒花火にはこんな葉っぱが有ると便利かも。河童を見る。



稚児橋付近では人も大勢集まっている。花火の迫力は近くで見ないと味わえないので来て見たけれど背の低い家人は全く見えなかったらしい。(後日談)



手筒花火を見ていると隣で見ている人たちは手筒花火の情報通だった。例によって聞き耳を立てる。

「(ちょっと前は)本職の手筒花火の人が来て上げていたんだけど、町内の人に教えて段々地元の人が上げるように移行していくらしいよ。」
「だって前はもっと大きいの上げてたじゃん」
「一つの町内じゃやりきれないので、○※▽町に移していくらしい」


「これ(手筒花火)やるからこんなに人が居るけど、やらなきゃみんな帰っちゃうもんな」
「最近は消防法がうるさくて、これが一杯らしい。(大きな花火が上げられない)」
「◇○※(町名)じゃボヤを出して出来なくなったしね」

口開けの手筒花火は片手で持つ程度の可愛らしい物で入門編って事だったのか。




そう言えば手筒花火を揚げる前に苗字が叫ばれていて、てっきり奉納した人の名前だと思っていたけど、上げていた人の名前だったのかな。
蛇足的に動画を追加しました。(笑)



稚児橋の上は火の粉と煙で満たされていて、灯篭を流すボートは火の粉被りの特等席だった。
9時に終わった灯篭流しは9時15分から回収作業を始めると言う。
此処はそれでも数百メートルは流れるけれど港橋の場合は流した傍から回収されて世の無常を感じた事が有る。



駐輪場のお礼にストアーの中を一周。ここの果物売り場には毎回驚かされて楽しい。(笑)

朝揺

2009-08-11 14:37:29 | 巴川と市内の川
朝、震度5弱の揺れに飛び起き、棚から本が落ちるのをゆっくり眺めていた。こんな時は何も出来ないもんだなあと改めて思う。木造の柱がギシギシ言い、本当に壊れるんじゃないかと思ったけれど、建物形状は変わって居ないようでホッとした。

急いで屋内の惨状を調査し、家人がうっかり食器棚を開けない内に、中で倒れているコップを起こした。(二次災害の防止)
大事にしていたサボテンの鉢が落下し、フローリングの床は砂漠の様に成っている。なぜ、一番大事にしていたサボテンなのかと思うと、がっかりする。
一つずつ片付けながら、パソコンを立ち上げ、無事である事を書き込む。(既に友人たちは、書き込んでいた。)

すると、朝から携帯電話が鳴り始めた。心配した親戚から掛かって来た。無事を知らせると、とりあえずは安堵の様子なので、こちらもホッとする。その後、何件か電話が鳴った。みんな、無事の声を聞いてホッとしている。声の調子で、様子を感じ、言葉以上に気持が伝わっている。文字では分からないアナログなところが伝わり易い。

余震を感じながら、川が気になり、「ちょっと見てくる」と言ったら、「巴川に行くのはやめて」と強く言われた。まあ、余り時間も無いので、巴川はやめて常念川を見に行くと、川を遡ってくる波がいくつもあった。
巴川を船が通ると、こんな事はよくあるのだけれど、これは少し違う。数が多いのだ。間違いなく地震による波が来ている。

ここまで見て、現場に出掛ける。今日は用宗港付近なので、津波が来たらアウト。
津波情報に気をつけて現場に向かう。



現場仕事を早めに切り上げ、家に帰ってみると、墓石が倒れてたニュースを見た。
美濃輪稲荷神社の石灯篭が気になり、見に行ってみる事にした。

外周の欄干は、とりあえず無事の様だ。多少傾いているのは以前と同じだから、無傷と言っても良い。意外と丈夫なんだと不思議に思う。




狛犬も無事。よかったよかった。



毎年、セミの抜け殻がくっ付くのだけれど、今年は一つしか付いていない。
梅雨が長くて、蝉も出そびれている様です。

「熱い夏は、これからだ。覚悟しておけ」と言っている様な気がする。(笑)


追記:この日、時常念川河口の水門が自動で閉じていたそうだ。逃げ場を失ったボラが暴れていたらしい。自動で動いて良かったと思ったけれど、いつ開けたんだろう。

巴川

2009-01-24 09:48:31 | 巴川と市内の川
清水の次郎長の生家(写真)と、晩年過ごした船宿「末廣」跡地には碑がある。(ユニクロ横)船宿「末廣」は、当時の部材が発見され、当時の部材で再築されている。(港橋)

ふと、途中(街道一の大親分時代)は何処に住んでいたのか気になり、「次郎長翁を知る会」の関係の方に、お話を伺う。

1847年 引化4年 (28歳)親友の江尻の大熊の妹『おちょう』をめとり、清水し仲町妙慶寺門前に所帯を持つ。子分ら10人あまりが逗留、家計は苦しい。(次郎長翁を知る会HPより)

1869年 明治2年 (50歳)次郎長の留守宅(静岡市清水区上町1丁目 馬喰小路附近)で二代目おてふが…殺される事件(人間清水次郎長より)

この辺りまでは、書籍で調べられた。
上町の後、美濃輪に戻ってきた話を聞き、その場所を教えて貰う。対岸に壮士の墓が見える場所である事は知っていたのだけれど、確証が無かった。




そこから、壮士の墓を見る。

「篤姫」では、出て来なかったけれど、

明治元年、幕府の海軍奉行、榎本武揚は、軍艦八隻を引き連れ品川沖を脱走した。蝦夷地(北海道)に赴いて後図を図ろうとした。しかし、房総沖で台風にあい、軍艦は散り散りになってしまった。

咸臨丸は帆柱を吹き折られ、錨をたたれるなど大損害をこうむり、修理の為に辛うじて清水港へ入港してきた。

官軍の富士山・飛龍・武蔵の軍艦三隻が咸臨丸めがけて大砲をうちかけたのである。咸臨丸は修理の為に、大砲などは陸上げしてあったので、抗戦する事ができず、白旗を振って戦闘の意思がない事を伝えた。

それにもかかわらず、各艦乗組の官兵は、小銃をうちながら咸臨丸に近ずき、(中略)幕兵は全滅してしまった。(人間清水次郎長 抜粋)


この川に、幕兵の亡骸が流れていた。
それを次郎長が、対岸の土左衛門松の根本に埋葬した。それが壮士の墓なのだ。
「壮士の墓」は、山岡鉄舟の揮毫(きごう)。

日本の文化革命が、地方の町でも在ったのだ。そこでは、流血している。決して無血ではない。