私のなべ四器(規矩準縄)

今、自分の周りで起きていること。ご近所のトマソンもそんなに、気にしてない。深めにかぶった帽子で、年内不定休営業中。

続・鳥居

2020-09-11 06:54:38 | 手当たり史跡
草薙に有る所有者不明のコンクリート製鳥居の撤去工事が始まったと聞いたので、
仕事を早仕舞して草薙まで出かけることにした。例によって静岡鉄道の電車に乗る。

橋の架け替え工事が進められている桜橋駅に来てみると(前回の入江岡駅の1つ新静岡駅寄り)
通りなれた階段も解体が進んでいた。


普段は外から見ていた工事現場を下りホーム(昔はこのホームだけだった)に渡り解体現場まで近づくと、古いコンクリート橋の橋脚が剥き出しになっていていよいよ当時の遺構が無くなるのかと覚悟した。




草薙神社の参道付近に有る鳥居の梁が切り取られていた。






きれいな断面だ。
きれい過ぎる。
あれ?鉄筋が入っていないの?
コンクリートの梁を作る場合鉄筋を入れないと自重で折れそうなんだけど大丈夫なのか。
残された梁も多分鉄筋が入っていないから、今の状態ってすごく危険じゃ無いのかな?
しばらく南幹線を車で通るのはやめておこう。

こうして思うと撤去は正解だった事になるのかな。
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鳥居

2020-08-13 05:41:11 | 手当たり史跡
草薙神社の鳥居が撤去されると聞いて、無くなる前に見に行ってみた。
殺人的な気温が和らいだ夕方、日没直前に行くとして静岡鉄道入江岡駅にいってみると、
橋の改修工事をしていた。

隣の駅の桜橋が架け替え工事をしているのに、この橋を野放しに居ておく事を誰かが許さなかったのでしょう。



草薙駅に降り立つと既にマジックアワーとなっており鳥居までの道を急いだ。と言っても数分ですが。
いつも邪魔な所にあるなと思っていて南幹線道路が渋滞している時の抜け道に右折していた。

そもそも所有者が不明ってどう言う事?
草薙で営業している知り合いにその辺りを聞いてみた。



元々鳥居は旧東海道(現在の位置よりも南方100mほど)に設置してあり、地元住民(多分氏子)がお金を出し合って設置したそうだ。
ところが道路整備か何かの事情で現在の場所に移設したのだが、その時行政が補助金を出したそうだ。
まあ、当然といえば当然。

じゃあ所有者は草薙神社か氏子のものじゃないのと思う。
実際に鳥居の横に有った石柱には寄贈した人の名前が刻まれている。

しかし、草薙神社は移設されてしまったので自分の物では無いと所有者を否定。
行政側も政教分離の観点から鳥居の所有はありえない。
そんな訳で誰の物か分からないって事に成ったそうだ。

公告を見ると令和2年6月15日までに撤去、と書いてあり
所有者が判明した場合は撤去費を請求すると脅かしている。

間違いなく所有者なんて現れない。
このまま税金で処理されのでしょう。

ふと、浅間神社の石鳥居は大丈夫なんだろうかと思ったりする。



知り合いに店のフレンチトーストを美味しく頂きました。
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街歩き

2018-02-18 15:18:15 | 手当たり史跡
清水郷土史研究会のフィールドワークで清水御殿の広さを実地検証すると聞き会員でもないのにこっそり参加する事にした。
正しくは、中田氏に誘われた。

清水御殿とは家康の休養所にするために子供の頼宜が1609年(慶長14年)に建築されたと言い、実際には駿河の海を警備するためだったと考えられている。

渡された資料の「なをりその記(中巻)」のコピーを見ると「御殿跡」と記載され四角で囲われ廻りは御堀跡と記載されている。
解説の中田氏がいい加減な地図の様で意外と正確だったりすると言う。

それは「牛道」と書かれた道と御殿を挟むように上から下に続く道が現存するからでその道を辿りつつ当時の風景(田んぼ又は沼地)を想像して楽しむのだ。




(写真:この道路は御殿跡地を突っ切っている)

清水聖母保育園と隣のカトリック清水教会(写真左手)に石積みが有るのでその辺りと思われがちだけど実際にはこの道路の半分ぐらいまで(又は道路全部)は御殿敷地が有ったと考えれれるそうだ。

そして、この場所は蓮池が有り写真背中には江川が流れていた事に成る。

元々御殿跡地には実相寺が建っており、御殿を建てる為に現在の場所に移転したそうだ。

この道路(水神さんがら記念塔まで:今を騒がせる桜が丘病院当たり)を作る為清水御殿の敷地を切り通し道路整備をしたそうで、どんな経緯で御殿跡に教会が建ったのか郷土史研究の方も分からないと言っており、寺だったら何と無く分かるんだけどと呟いていた。



(写真は現在の牛道)
左側は岡八幡神社で右側が清水御殿跡に成ります。
牛道は急な崖のような道だったので牛が歩きやすい様に緩やかな坂道に削ったそうで、道幅が広い所が工事個所。
よく見ると写真奥の方は道幅が狭い。

言われてから道を見返してみるとちょっと面白い。

郷土史会の興味の一つに清水御殿の石積みの石は何処に行ったのだろうかって事が有るらしい。






聞き耳を立てていると清水御殿跡地に住宅を建てて住んでいる方の庭先の此の石。
ひょっとしたら、そうかも。と歴史浪漫の花が咲く。






八幡神社から南下。
月見里(月見里と書いてやまなしと読む)笠森 稲荷神社。
この境内を囲み石積みがもしかしたら、清水御殿の石積みじゃないかと思っている方が有るのだけど、こんなに小さいはずがないととバッサリ切られ終了。

でも、元は実相寺だから、その石だったとしてもおかしくは無いと思うのだけど、根拠は無し。

歴史は過去に作られたようで、案外現在作り直されているのかも知れないと思ったら右の頬が引き上がった。
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清水の史跡

2017-10-09 10:28:55 | 手当たり史跡
ツイッターの「次郎長翁を知る会」のフォロワーに成ったら記事がアップされる毎にベルが鳴り新しい案内板を設置したと言う。
早速近所から検証に行って見る。

はいはい。美濃輪稲荷神社ですね。確かに看板が朽ちていたものが立派な案内板に成って居た。

これと同じような物が壮士墓にも立っており、「次郎長翁…」てお金が有るんだなあと思った。



序なので次郎長堤まで来てみた。清水マリンパークの南側の朽ちかかった古い建物付近。
どれが次郎長堤か全く関心も無いようで、一般人の自動車で踏みつけているのが笑える。

続きは検索しろと言っても、検索した先が文字ばかりなので、メイキングの動画とかが有ったらもっと面白くなりそうですね。
今の時代、スイッターでも動画で溢れていますから、検索したらおもしろ動画が出てきたら受けますね。



清水市内を動き回ったら甘い物が食べたくなったのだけど、自分が今食べたい甘いものにフォーカス出来ない。
それまでも甘い物を食べていたのだけど少し焦点がずれて居た。

然も帰り道上に有るスイーツは先日買ったムラカミケーキぐらいしかない。次郎長通りの和菓子屋は始めから除外。
ふと、梅の家の団子を思い付いた。

そうそう、みつ団子。一本で良かったのだけど餡団子も一本買う事にした。
この店にも妻の知り合いが働いており、以前一緒に買い物に行った時に話していた事があったので、ちょっと敬遠していた。もう一年も過ぎているので多分話し掛けられる事も無いだろうと思って行って見た。
結局、どの人か全く分からなくてホッとする。自分の繋がりって妻を介していた事を痛感しつつ、団子を頬張る。

繋がって居たのか、切り離されたいのか分からなく成って来た。
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江尻海水浴場

2017-07-24 18:43:06 | 手当たり史跡
芥川龍之介が行った江尻海水浴場は何処に有ったのだろうか。

浜田今昔志に興味深い地図を見つけた。この地図は上が東に成って居るので少し分かり難いけど石垣と豊年グランドの間が江尻海水浴場と記されている。更に見て行くとレンガ工場は(現市役所)とも書かれており、そうだったのかと思っていると羽衣牧場が向かいに書き込まれている。でも牧場は教会の向かいだし、レンガ工場と教会はもっと離れている。(写真で確認)

その辺りは置いといて海水浴場が石垣から右である事が分かれば十分です。



そこで大正4年の地図を引っ張り出すと(今度は北が上)海岸線に石垣が確認できる。古い地図では石垣の先端まで線路の記号が書き込まれていたりするが、其処が海水浴場で有る事がハッキリした。





昔の痕跡が古い道でしか分からなかったので、道の長さを按分して現在の地図に再現してみた。赤い破線が海岸線である。
随分西寄りで現在の歩道から直ぐ海だった事に成る。




その現場写真がこれだ。
海岸線は写真奥に向かって伸び、右が海で左が砂浜で遠浅の海だったらしい。




石垣が有った辺りから海水浴場を振り返る。
以前思った印象よりも広い。江尻駅に400人降り立った(明治20年ころ)と言うからその繁盛ぶりが伺える。
明治40年ころに成ると新橋発の臨時列車が走り例年になく賑わったらしい。




その江尻駅が有ったと思われる場所が此処だ。(真砂踏切)
この踏切が駅の存在を証明している。然も人が通るだけの幅が改札を通った後ホームまでの通路と思われる。



以前清水ふるさと塾で歩いた時に、此処が海水浴場と言われた岸壁が何と無くピンと来なかったのはその根拠が何も示されなかったからじゃないだろうか。
今回自分で検証してみると、その現実味が湧いて来るから可笑しい。
コメント (2)
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