私のなべ四器(規矩準縄)

今、自分の周りで起きていること。ご近所のトマソンもそんなに、気にしてない。深めにかぶった帽子で、年内不定休営業中。

江尻海水浴場

2017-07-24 18:43:06 | 手当たり史跡
芥川龍之介が行った江尻海水浴場は何処に有ったのだろうか。

浜田今昔志に興味深い地図を見つけた。この地図は上が東に成って居るので少し分かり難いけど石垣と豊年グランドの間が江尻海水浴場と記されている。更に見て行くとレンガ工場は(現市役所)とも書かれており、そうだったのかと思っていると羽衣牧場が向かいに書き込まれている。でも牧場は教会の向かいだし、レンガ工場と教会はもっと離れている。(写真で確認)

その辺りは置いといて海水浴場が石垣から右である事が分かれば十分です。



そこで大正4年の地図を引っ張り出すと(今度は北が上)海岸線に石垣が確認できる。古い地図では石垣の先端まで線路の記号が書き込まれていたりするが、其処が海水浴場で有る事がハッキリした。





昔の痕跡が古い道でしか分からなかったので、道の長さを按分して現在の地図に再現してみた。赤い破線が海岸線である。
随分西寄りで現在の歩道から直ぐ海だった事に成る。




その現場写真がこれだ。
海岸線は写真奥に向かって伸び、右が海で左が砂浜で遠浅の海だったらしい。




石垣が有った辺りから海水浴場を振り返る。
以前思った印象よりも広い。江尻駅に400人降り立った(明治20年ころ)と言うからその繁盛ぶりが伺える。
明治40年ころに成ると新橋発の臨時列車が走り例年になく賑わったらしい。




その江尻駅が有ったと思われる場所が此処だ。(真砂踏切)
この踏切が駅の存在を証明している。然も人が通るだけの幅が改札を通った後ホームまでの通路と思われる。



以前清水ふるさと塾で歩いた時に、此処が海水浴場と言われた岸壁が何と無くピンと来なかったのはその根拠が何も示されなかったからじゃないだろうか。
今回自分で検証してみると、その現実味が湧いて来るから可笑しい。
コメント (2)
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龍之介と清水

2017-07-24 05:30:05 | 手当たり史跡
偶然ですが7月24日は、芥川龍之介の命日でした。、昭和2年(1927)田端の自宅で服毒自殺をしていて、当日の天候は雨と言う。冥福を祈ります。
新定院に残されていた芥川龍之介の書簡は、当時の住職が冥福を祈り護摩焚きをしたので全て焼かれ(本当に全く)残って居ないと聞きました。(何人も確認に来たらしい)


さて「芥川龍之介書簡集」によると

第100話目 大正二年八月十六日朝 静岡縣安倍郡富士見村新定院内 芥川龍之介とあり、東京帝国大学文科大学英吉利文学科にこの年の9月に入学するのだけどそれまでの数日を清水で過ごしている。それは高山樗牛(龍華寺:清水区村松)の墓参りに訪れていると思われる。


そこで今回ゴム長隊長を誘ってこの書簡を探りながら清水の古い道を歩きたいと思ったのでした。
新定院から江尻海水浴場までの道のりを古地図を見ながら街歩きをします。

さて、芥川龍之介は何処に宿泊していたのか。寺の何処?
宿泊と言っても旅館でもないので本堂に宿泊していたらしい。

これは新定院の住職にも聞いて確認したのだけど、本尊に向かって右側の床の間が有る辺りで、此処しか考えられないと言っておられる。


隊長の情報によると龍之介は宿泊を清見寺(清水区興津)にしようとしたのだけど満室?で断られ新定院を紹介されたらしいと言う。新定院は清見寺からの別れだから親戚筋ですね。




それから机を西向きの窓の下にうつし本をよむ 窓の外は桑畑 幅の廣い緑色の葉に露が眞珠のやうに光つて其間にうなだれた夾竹桃(きょうちくとう)の赤い花を蜂が唸りながらふるはせていく

その西向きの窓が現在ではサッシに成って居るが当時は木製であろうことは言うまでもない。
窓の外は全て墓地に成って居るけれど20年くらい前は所々に無花果畑が有り当時の桑畑を想像させる。





不二見橋と云ふのを渡る 欄干の下を碧い水がみがいた硝子板の如く光り乍(なが)ら流れる 半町ほど隔てた港橋の向ふには漁船の檣(ほばしら)が林立して其上に晝(ひる)の月が消えさうに白く浮かんでゐる


富士見橋から見た港橋。
手紙には檣(ほばしら)が橋の向こうに林立しているのだから港橋より上流に船が来ていないと思われる。



町はずれの松原を二三町行くとレンガ工場の低い板葺 美普教会の尖った塔が江尻に近づいた事を知らせる


清水と江尻の境(向こう側が江尻だった)
(清水は巴川と江川の間の地区名だった。のちに向島を吸収し此処まで浸食して来た。その後江尻を吸収し興津、草薙を侵食したところで静岡に食われる。清水区となった清水は由比、蒲原も食い尽くし生き延びている。)

此処は清水では珈琲が美味しいと評判の「トップハット」の角で、古地図でもはっきりと線が引かれており、龍之介が歩いた松原通りがこの道である事が分かる。

松は何処に行ったの?誰かが隊長に質問した。
先の戦争で燃料にするために全て切り倒されたと言う。

旧清水市役所庁舎(写真右奥)の北側にレンガ工場が有りその南西(現在セブンイレブン)辺りに羽衣牧場が有り道を挟んで東側に江尻美普教会が有ったらしい。






ここが「桜ヶ丘病院」に成るなら名前もそのまま「桜ヶ丘病院」にして欲しいなどと軽口を叩いて通り過ぎる。
しみずっ子はみなと祭りが待遠しい。







輕便鐡道の線路を一つ横切ると江尻で魚屋の壁にはられたすヽびた江戸役者の似顔繪も宿驛らしいなつかしさを感ぜしめる

軽便鉄道の軌道跡地。新世界には、常に清水の最先端だったりする。




地図上赤丸が写真撮影場所を示す。



開港十周年を祝う祝賀式は、昭和42年(1967)8月4日軽便清水波止場前で開催。
清水町では芸者の手踊り、町民の仮装行列、ちょうちん行列、花火などのほか、各町が趣向をこらした屋台を繰り出しました。8月4日が”港まつり”となったのはこれから。(浜田今昔志より)

この提灯を見ると落ち着かなくなるのは、清水っ子に成って来た証拠でしょうか。

追記:今年は「第70回清水みなと祭り」と実行委員会が言っているので昭和22年(1947)がらやって居る事に成る。諸説あるようです。(笑)8/7
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雨宿り

2017-07-13 09:40:20 | Weblog
朝から嵐のような豪雨かと思うと、小雨に成ったりとエアコンをなるべく使わない生活をしているので窓の開け閉めが忙しい。
ふとベランダの朝顔に来客。
このアゲハ蝶の性で蜜柑の幼葉は壊滅状態。
幼虫と産み落としたばかりの卵と毎夕格闘しているのだけど今回は休戦を申し入れる。

ごゆっくり。
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次郎長生家

2017-07-11 14:52:27 | お出掛け日記
次郎長の生家に行って見る。
補修工事が終わってどうなったのか気に成る処です。


2013年3月に市民有志で発足した「次郎長生家を活(い)かすまちづくりの会」がNPO法人化され、2015年2月にフェイスブックで行われた「あなたの残したい建物コンテスト」で大賞に選ばれた事を機に、主催団体や生家の所有者らと補修に向け調整を重ねて来たそうだ。

補修費用は約3300万円で、コンテストの支援金とこれまでの募金を含めてもまだ数百万円の不足があるそうだ。

以前の薄暗く古めかしい室内は一新され、なんだか妙に明るいのは古い家具などが整理され、中庭からの採光が室内全体を照らしているのだった。半間しかなかった土間も広げられていた。(最初の間取りに戻したらしい)



二階が有ったなんて知らなかった。
上がっても良いらしいので早速上がって見る。

はて?梁や柱、母屋までが黒い。これは焦げた跡の様で昔は虫除けでこんな事をしていたのだろうか。
不思議に思って訪ねてみると、

この建物は昭和30年代に曳家をしていて、当時の高度成長期の雑な工事の為、土台が基礎の上に乗って居ない所が有ったり柱が斜めの儘に成って居たりそれは酷い状態だったそうだ。
そして、昭和40年代(年を忘れた)にボヤを出し部材が焦げたそうだ。ボヤと言うには随分燃えている。

今回の補修工事に当たり色々説明をしてくれて興味が湧いてきました。

二階の床を支えていた梁がシロアリで壊滅状態。支えていた事が不思議なくらいで先の大地震(3.11)で倒れていても可笑しくない状態だったらしい。だから二階を見学するなんて危険過ぎたのですね。

じゃあ何故あの地震でも大丈夫だったのか?と思いますよね。

それは隣の家がピッタリ建って居たためにそれに寄りかかっていたので倒れなかったんじゃないかなぁと補修した大工が言っていたそうだ。



棟木札に、大正四年の文字が見える。



瓦は「清水瓦」を使っていたそうで、従来の物よりも一回り小さいらしい。
巴川流域の上質な土で作られていたのだけど昭和49年(1974)の七夕豪雨で壊滅し清水瓦は生産されなくなってしまった。

古い瓦も一部残されており、二階の窓からそれを見る事が出来てちょっと嬉しい。



内壁の殆どがボードの上に塗り直されて居るのだけど、当時の儘の壁も残されている所がある。

でも話に聞くと出来た時よりもひび割れが増えて居る様な気がすると聞き、保全の難しさを目の当たりにする

古い建物を残し、それを見る事で当時を考察する楽しみが有る。見る角度によってその大事さが違って見えるから又面白い。丸太を半分に切った様な垂木なんて滅多にお目にかかれません。
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清水の七夕2017

2017-07-10 09:00:36 | お出掛け日記
今年大賞を取った「ふとんの松永」の竹飾り。
どうしてもまる子ちゃんが入らないと人気が出ない様で何が評価されたのか不透明で面白くない。

昨年に比べて飾りが少なく成って居て人出も少ない。
天候が良すぎて暑いのだ。



この人達も暑いんじゃないかと思う。
浴衣を着た清水っ子は暗く成らないと現れないらしい。



踏切近くの「フルーツ タケダ」で生ジュースを飲む事を楽しみにしていたのだけど、七夕まつり期間中は店を閉めると張り紙がしてあって、大変残念に思う。毎年同じ事をするのは苦労するのです。



今年一番の飾りはこれだと思う。
まる子ちゃんの幽霊。顔色が悪い(笑)

そう思ってみると「いいね」感が有ると思います。(個人の感想です)

また書き始めたって事は
まだこのブログを続ける気に成ったって事でしょうか。自問自答
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