警戒色と近眼

2016年8月30日
僕の寄り道――警戒色と近眼

台風接近中の晴れ間をぬって六義園内を散歩した。人影まばらな草深い細道を歩いていたら前方から来た女性がぎくっとしたようなので、私は無害な男性ですよと示すようにカメラを構えて脇を見たら、黄色と黒の警戒色をしたクモが雨で傷んだ巣を繕っていた。

網を張って虫を捕らえる狩りの生き物なのに、どうして目立つ黄色と黒の警戒色を身にまとっているのか不思議だ。警戒させてしまっては網にかかる虫も驚いて逃げてしまうのではないだろうか。

そんなことを考えながら何枚かシャッターを切っていたら背後を女性が通り過ぎる気配がしたので、構えていたカメラを下ろそうとしたら、半袖から覗いた左腕に何かが飛びついたのでびっくりした。ギャッと叫びそうになって腕を振ったらギーーッと鳴き声をあげてアブラゼミが逃げて行った。

アブラゼミは近くのものにしか目の焦点が合わないので、電柱のようにじっとしているものが人間であっても、飛んできたらとまってしまうらしい。クモの巣に捕えられる虫もそういう眼しか持っていないのかもしれなくて、遠くから見えてしまう人間のような生物に対して、クモは危険だから近づかないでねという警戒信号を送っているのだろう。

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世界を変える小さな方法

2016年8月30日
僕の寄り道――世界を変える小さな方法

コンクリート護岸化された都市河川、それでも辛うじて自然の残る猫の額ほどの河川敷を、散歩ついでにこつこつと整備している友人がいて「いいなあ」と思う。大雨で完全に水没して流されても、懲りずにまたやり直している姿を見ると、頭が下がりはしないけれど好きなんだろうなぁ、趣味らしいなぁと思う。

Oldboy浮雲の旅日記

東京で保育園に通っていたころ、オート三輪にはねられて瀕死の重傷を負い、「夫婦共稼ぎで子どもの世話もできないのか」と激怒した祖父に引き取られ、郷里静岡県清水で小学校入学間際まで過ごした。祖父母の家は田んぼの中の一軒家だったので遊び相手はおらず、人っ子ひとり通らない田園地帯にしゃがみ込んで一日を過ごした。

しゃがんで足元をじっと見ていると、雲の上から見下ろしたように地べたが世界の縮小されたものに見えてくる。棒で掘って水たまりの水を引き込んで川を作り、土を盛って高台や中洲を作り、石を置いて自然景観を作り、神様のように世界を変える遊びに熱中した。いまでもそういう場所と自由を与えられたら、やはり一日中飽きることなくやっていられると思う。

国を変えるわけでもなく、地域を変えるわけでもなく、ただ目の前にある小さな世界を変えることの喜びは趣味にふさわしい。趣味は大きな世界を変えないが、自分という小さな世界を救う。そういうことの方が人生において実は価値があるような気がしている。


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とこなつ

2016年8月29日
僕の寄り道――とこなつ

富山県高岡市の大野屋という店の「とこなつ」という和菓子が好きで、義父母が富山に住んでいたころは土産にもらうのが楽しみだった。なかに小さな栞が入っており、

立山(たちやま)に降り置ける雪を常夏(とこなつ)に見れども飽かず神(かむ)からならし

という大伴家持の歌が紹介され、それにちなんだ菓子であると書かれていた。菓子でその歌を覚えた。

8月最後の月曜日のせいか、近所の診療所も調剤薬局も大混雑だった。お盆にかかる期間分をもらっていた人たちの薬が切れたのだろう。調剤薬局では足りなくなった薬もあったようで、不足した分は後日届けてくれるという。ぼくも血圧の薬が5錠足りなかった。

30分以上待たされてようやく薬を受け取ったら、出口近くに近所のご主人がいるのに気づいた。「どこの薬をもらいに来たの」と聞くので「血圧」と答えながら無意識に左腕を指差し、「そちらはどこ?」と聞いたら無言で笑いながら頭を指差していた。頭が悪いのだろう。

沖縄近くまで南西方向に行き、発達して戻って来た珍しい台風の影響が出てきた午後(2016年8月29日)

調剤薬局で薬を待つ老婦人同士がする天候についての不思議な会話が聞こえてきた。
「遠くへ行ってまた戻ってくる台風なんてわたくし初めて」
「驚きましたわよねえ」
「ええ、寂しくなりました、四季がなくなって」
「常夏(とこなつ)ですものねえ」
と言うので、えっ?と驚いた。四季の風情が薄らいだ世相を嘆くなら共感するところはあるけれど、冬は冬なりにひどく寒いので、常夏の国になったわけじゃないよなぁと思いながら、富山のお菓子を思い出した。


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人の名前の思い出しかた

2016年8月28日
僕の寄り道――人の名前の思い出しかた

 人の名前が思い出せないことが多くなり、「ええと、あの人の名前、確かうしろに塚がついたんだけど、なに塚さんだっけ?」などと尋ね、それだけわかっていれば思い出しそうなのにどうしても思い出せないことがある。

どうしても思い出せないときの非常手段は自分がコンピュータになって「うしろに塚のつく人名」というプログラムを実行してみる。それを順構造で逐次処理を行い、「あかさたなはまやらわ」のあ行から、あ赤塚、い岩塚、お大塚、き清塚…とやっていくと、たいがいめざす人名に一致してプログラム終了となる。

このやり方でなかなか出てこなくて「だめだ〜出てこない〜」とねをあげる時は、たいがい正解が最後の「やゆよわ」のあたりにあって、めざす人名は「横塚さん!」だったりする。もし「『あかさたな』までで正解が出ない場合は逆方向からの処理に切り替える」という分岐をプログラムに入れておくのも有効かもしれない。


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人はなぜ町並みを迂回するのか

2016年8月28日
僕の寄り道――人はなぜ町並みを迂回するのか

神楽坂のはずれをほろ酔い加減で歩いていたら偶然友人の息子に出会ったので、「この辺でもうすこし静かに飲める小さな飲み屋がない?」と聞いたら、表通りをぐんぐん歩いて路地へ右折し、もう一度右折して表通りと並行した裏道をぐんぐん戻り、最初に会ったあたりの裏手にある古びた店に案内してくれた。

「この辺は並行した道を縦につなぐ道がないのでこうやって遠回りしなくちゃならないんです」と言う。なるほど、先ほど商店街ですれ違った犬の散歩のご婦人が、向こうからやってくるのに出会った。写真家の友人が「やあまた会いましたね」と声をかけたら、「こうやって回っているんです」と笑っていた。

帰宅して朝になり、どうしてあの辺はそういう町割りになってしまったのだろうと不思議に思い、古地図を見たら表通りは昔から軒を接して商家が立ち並んでいたのがわかる。いっぽう裏通りは表通りほどではないけれどやはり家が立ち並び、裏手は農地になっているので兼業農家だったのだろう。表通りの専業商家と裏通りの兼業農家が畑を挟んで背中合わせとなり、農地を私道にしてまで互いに行き来する必要もなかったので、そのまま道もできず細長い市街地ができたのだろう。

牛込矢来町と赤城下町辺りで飲み、江戸川橋まで歩いて友人夫婦と別れ、バスに乗ろうとしたら、もうすでに早稲田発のバスは終わっていたので、通りかかったタクシーに乗り、大きく迂回して帰ってきた。

友人の息子が案内してくれた行きつけの店「野みち」。
「お酒がもういい人はどうぞ」とお茶を出してくれた。

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化け物と死

2016年8月27日
僕の寄り道――化け物と死

朝のニュースで手作りお化け屋敷夏休みイベントの話題を見てふと思い出した。

驚かされることが大嫌いな妻は、お化けなんてちっとも怖いと思ったことがないけれど、自分を怖がらせようと懸命になっているおとなの形相が気持ち悪くて、幼い頃よく泣いたという。

自分にも同じ記憶がある。死んだふりのうまい叔父がいて目の前で倒れて見せ、ふりをしているだけだとわかっているのでやめさせようとしても、白目をむきヨダレを垂らして演技を徹底し、泣き出したのを見て満足したように大笑いするという、そういうおとなの熱情が怖いほど不気味だった。

自分も子ども時代はそうだったから気持ちがわかるというと、
「わたしはお化けなんてちっとも怖くないし、死ぬことだってちっとも怖くない。でもあなたは死ぬことが怖かったんでしょう」
と言う。

うまいところに言及してくれたので
「そう、子どもの頃は死ぬことを考えると怖くてたまらなくて、夜中にひとりで泣いていたこともある。だけど、最近ようやくわかってきたのは、自分を怖がらせようとそのことばかり考えさせる自分がいて、そういう自分に自由を許さなければ、人が必ず死ぬということなんて決して怖いものじゃない。怖がらせようとするもう一人の自分がいて怖いんだとわかった」
ということを話した。

そういえば、同じように子どもの頃、自分が死ぬことが怖くて仕方なかったという哲学者の中島義道が、怖くて怖くて離人症になってしまったと書いているのを面白く読んだ。離人症というのは現実感喪失症侯群ともいわれ、自分が自分の体との一体性を失ったように経験される症状なのだけれと、「おとなはなぜこれでもかというくらいの努力をしてまで子どもを怖がらせたいか」という点ついて考える面白いヒントかもしれない。

他者または自分を怖がらせることに何の得があるか、という問題は夏に考えてみるといいかもしれない。


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ペグ

2016年8月27日
僕の寄り道――ペグ

中学高校時代はよくウクレレをもらった。「よく」というのは、静岡県清水は港町であり、遠洋漁業を終えたマグロ漁船員が入港して手土産にくれることがあり、同じく船員にもらって持て余したキャバレーの女たちが、「ぼーや、これあげる」とくれることも多かったからだ。

ハワイに寄港したか否かはわからないけれど、ウクレレはいかにも南洋帰りらしい洒落た手土産だったのだろう。その頃の清水市旭町は日暮れから夜明けまで殷賑を極めており、小さなビルの屋上は軒並みピアガーデンになって、スビーカーの割れた音がやかましくハワイアンを垂れ流していた。

もらうウクレレはどれも観光土産用の安物だったのか、弦を巻く糸巻きが木製で、力を入れて押し込みながら締め上げてもビヨーンと戻ってしまうので、調弦自体がきちんとできたことがない。きちんと弾けるウクレレを持ったことがないけれど、ポローンと鳴らして遊んだことはある。

ふと思い出して安いウクレレを買ってみた。安物とはいえ弦を巻き上げるペグもちゃんとギア式で調弦もしっかりできるし、チューナーも便利なものがあってびっくりした。G の弦を 1 オクターブ低くして使うために弦を張り替えてみた。

初めてなのでうまく巻けなくてがっかりしたが次回はもうちょっとうまく張ろう。ウクレレらしくポロローンと少しずつ練習を始めた。中学高校生時代の音がする。

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陽炎と逃げ水

2016年8月26日
僕の寄り道――陽炎と逃げ水

道の先に陽炎や逃げ水が見えるような炎天下を歩くと、現実や意識上の距離感が狂うかもしれない。久しぶりの道を正午過ぎに歩いたら、商店街の片側が次々に新築住宅化しており、とうとうあの古本屋も無くなってしまったかと感傷的になっていたら、その先にちゃんと古本屋はあった。

年季の入った佇まいで一度入ってみたかったけれど、既に店をたたまれてしまったものと思っていた蕎麦屋に藍色の暖簾がかけられているのが見え、目の錯覚ではないかと思って近づいていったら作業服姿の客が入っていくのが見えた。よかった、今度こそ一度寄ってカレー南蛮を食べてみようと思う。


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患者と医者と家族の朝

2016年8月26日
僕の寄り道――患者と医者と家族の朝

ようやく映画『レナードの朝』を観た。この映画が公開されたのが1990年で、なんとなく観たくなってDVDを買ったのがたぶん2008年だけれど、ちょうどDVDプレーヤーが壊れてしまっていて、見られないまま時が経ってしまった。今さら観よういう気になったのは、オリヴァー・サックスの本を偶然買って読み、映画の原作者と知って驚いたからだ。そうか「エルドパ」の話だったのかと。

原作である『レナードの朝』が出版されたのが1973年。義父の身体が急に動かなくなって入院し、パーキンソン病だとわかったのが1991年ごろ。義父は「エルドパ」と言いエルドーパとかレボドパと呼ばれる L - ドーパ(4 - ジヒドロキシフェニルアラニン)が開発されたのは1967年のことだ。

子どもの頃ぐずぐず寝ていると「眠り病になっちゃうぞ」などと親に言われたけれど、『レナードの朝』は、その睡眠病患者に当時実験用医薬品だったレボドパを使うことで、覚醒させることに成功したという実話を基にしている。

精神に働きかける薬は諸刃の剣であり、効き過ぎれば興奮して過剰に活性化するし、効かないと心身が萎むように不活性化する。目覚めさせた者が活性化しすぎて、やむなく眠らせるということも医者はしなくてはならないわけで、その辺の苦悩と葛藤が映画の肝になっていた。

義父もまた薬によって覚醒し、興奮し、幻覚や幻聴を見て大騒ぎして家族を困らせた。そのことを医者に言うと「はいはい、じゃあ体が動かなくなるぶん介護が大変になるけど眠ってもらいましょう」と言って薬を減量し、あまりに起きられなくなると「よろしければ少し増やしてみましょう」となって増量する、そういう生命の質にさじ加減を加えることを何年も繰り返していた。

新薬の使い方で苦悩する医師の葛藤は、義父の在宅介護が限界に近づく頃には、人を生き返らせたり半死の状態にしたりする権限と苦悩と葛藤とセットにして、家族の裁量へと委ねられるようになっていた。それによって迎えられる穏やかな「朝」と引き換えに家族にもたらされる罪悪感は、自己責任ではなく社会全体として担わなければならない課題としていまも変わらず残っている。

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記憶と写真と家族

2016年8月25日
僕の寄り道――記憶と写真と家族

カメラを首からぶらさげて――たぶんこの「首からぶらさげて」といういでたちのせいだと思うのだけれど――ちょっとそこまで外出しようとしたら、ご近所の奥さんに「写真が趣味なんですか?」と聴かれたので「そうです」と答えたら、目を丸くしてすごいことを発見したような顔をしていた。

気になったので後日、「写真を撮るのが趣味ですかって聞くから、そうですって答えたらびっくりした顔をされていましたが、ひょっとしてあなたもそうですか?」と聞いたら、「とんでもない!」と手のひらを見せて左右に振りながら、「そうじゃなくて夫がまったく写真を撮らない人なんです」と言う。「一枚も!ですよ!一枚も写真を撮ったことがないので、なんであなたは写真を撮らないの?って聞いたら、記録したいんだったらしっかり見て心に記憶すればいい!って言う、そういう人なんです。だからわが家には家族の記念になる写真がありません。人生のなにが楽しいの?って聞くんです」。

オリヴァー・サックス『妻を帽子とまちがえた男』で記憶を持たない男の話「第一章『喪失』第二節『ただよう船乗り』」を読んでいる最中だったので、そんな話がひときわ興味深く感じられた。人はなぜ写真を撮るのだろうか。

「記憶をすこしでも失ってみたらわかるはずだ、記憶こそがわれわれの人生をつくりあげるものだということが。記憶というものがなかったら、人生はまったく存在しない」(ルイス・ブニュエル)※前述書からの孫引き

家族の記録としての写真より記憶が大事という夫と、写真という記録こそが記憶の証でありそれが人生ではないかと責める妻がいる。どちらの言い分にも頷けるものがあって、たいがいの人は撮ったり撮らなかったり、気分によって臨機応変に生きているのだろう。

「徹底した」態度であるところが面白いのでいろいろご主人のことを立ち入って聞いてみたが、その奥さんも実はまた別のことで「徹底した」人である。息子さんもまた徹底しているようで、写真を撮ってくれない親に育てられた反動もあってか、自分に子どもが生まれたら途端に三万枚以上の写真を撮ったという。そして「それにひきかえ主人は…」に話が戻る。

徹底してしまうことの原因は「家族」関係の中にあるかもしれない。


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