母の友人の快気祝いだからと、娘さんが赤飯をお持ちになり頂戴した。家族四人でこの赤飯の量は一回の食事では食べきれない。快気祝いとはそれくらい嬉しいものなのだ。
以前、父が快気祝いをしたいと言出だし、田舎に連れて帰ったことを思い出した。父の病気は快気どころか原因さえ分からない病気で、治療方法さえもなかった。一体、どういう理由で快気祝いなのか全く理解できないでいる。(未だに不明)
私は、赤飯が嫌いだ。「嫌いだった」と言ってもいい位にはなったけれど、食べないで済むなら食べたくない。しかし、子供の手前、それは許されない事だったし、食べないで済むなどとは言っていられないのだった。
でも、それとは裏腹に、快気祝いを喜ぶ人達の気持を、受け止めたいと思った。これを食べることで「よかったね」と言いたいのだった。
久しぶりに食べた赤飯はほのかに温かく、もっちりしていた。相変わらず小豆の皮が喉に引っかかるけれど、以前ほどいやじゃない。何かが鈍くなったのだろうか。
そういえば、あんななに嫌いだった豆ごはんも、今年食べた。塩味が豆の香りと絡まって以外と美味しかった。あくまでも以外とで、好きになった訳ではない。
熱血!清水みなと(村松友視著)が欲しくて、古本屋を検索しているけれど、まだ見つからない。どうしても手にとって読みたくて、図書館から借りてきたりした。
その、村松友視の清水絡みの本が刊行されて、新聞広告も出ていた。こうなるとすぐに読みたくなり、いつもの手順をやめて本屋へ出かける。
本屋へ行くと、一番目立つ所に山積みされていて、流石地元本の扱いは違うなあと感心した。本屋に行ってやることは、地元でしか買えない本を探すのだけれど、レストランガイドばかりが目立つ。それなら、蕎麦屋の本は?と思うとこれがない。置いてないだけなのか出版されてないのか、それさえ分からない。欲しいものには、なかなか手が届かない。出版界の孫の手が欲しくなる。
「sizoka」に静岡県はない色?の記事があった。静岡の色を考える。
少なくとも川(富士川、大井川)で分断されている地域を一色で決めるのは難しい。ただ、富士川から大井川までは「茶色」って感じです。
自分の中では、茶摘みを終えて、下枝刈りをした茶畑の色です。華やかな黄緑じゃなくて、もっと泥臭い。田植えをした田んぼの泥の色。流れのない巴川の色。まとめて「茶色」ですね。少し緑掛かった「茶色」って感じでしょうか。
風呂を燃す。
子供の頃住んでいた借家は、薪の風呂だった。だから「風呂燃す」は普通に風呂を沸かすことだった。近所に製材所があったので、時々、リヤカーを借りて木片を買いに行ったことを思い出す。それは一家総出の年中行事のような仕事だった。
リヤカーは父が引き、空の荷台に子供二人が乗り、製材所に行く。
そこで、捨ててある木片をリヤカーに積む。隙間なく山盛り一杯積む。今なら警察に呼び止められそうだ。
当時、リヤカー一杯で100円だった事を覚えている。高かったのか、安かったのか分からないけれど、今思うと廃材なんだからタダでいいような気がする。
現在、住んでいる近所にも製材所(現在は移転した)があり、廃材は自由にもらってきていたし、町内の建具屋でも木片をタダでくれるのだから、やっぱり高かったように思う。
帰りのリヤカーは重い。みんなで押しながら家に帰り、ここから薪割りが始まる。、子供たちは、手伝いのつもりで割った薪の片付けをする。一ヶ月くらいは、薪が持ったような気がするけれど、はっきり覚えていない。薪割りの後、風呂燃す。
父の勤めていた会社に風呂があり、仕事終わりに風呂に入ってから帰宅していたので、父と風呂に入った記憶があまりない。いつも弟と二人で入っていた様な気がする。木製の風呂桶は、底に木の栓があり、触らないように気をつけていた。うっかり触るとお湯が抜け出し、子供にはどうしようもない事になるのだった。しかも、浴槽内に焚きつけの窯がむき出しになっていて、お湯の中とは言っても沸かしたては熱かった。
当時の風呂桶は深くて、肩まで浸かるのに中腰で、急いで50まで数えて飛び出していた。烏の行水はこの頃からだったのだ。
以前、父が快気祝いをしたいと言出だし、田舎に連れて帰ったことを思い出した。父の病気は快気どころか原因さえ分からない病気で、治療方法さえもなかった。一体、どういう理由で快気祝いなのか全く理解できないでいる。(未だに不明)
私は、赤飯が嫌いだ。「嫌いだった」と言ってもいい位にはなったけれど、食べないで済むなら食べたくない。しかし、子供の手前、それは許されない事だったし、食べないで済むなどとは言っていられないのだった。
でも、それとは裏腹に、快気祝いを喜ぶ人達の気持を、受け止めたいと思った。これを食べることで「よかったね」と言いたいのだった。
久しぶりに食べた赤飯はほのかに温かく、もっちりしていた。相変わらず小豆の皮が喉に引っかかるけれど、以前ほどいやじゃない。何かが鈍くなったのだろうか。
そういえば、あんななに嫌いだった豆ごはんも、今年食べた。塩味が豆の香りと絡まって以外と美味しかった。あくまでも以外とで、好きになった訳ではない。
熱血!清水みなと(村松友視著)が欲しくて、古本屋を検索しているけれど、まだ見つからない。どうしても手にとって読みたくて、図書館から借りてきたりした。
その、村松友視の清水絡みの本が刊行されて、新聞広告も出ていた。こうなるとすぐに読みたくなり、いつもの手順をやめて本屋へ出かける。
本屋へ行くと、一番目立つ所に山積みされていて、流石地元本の扱いは違うなあと感心した。本屋に行ってやることは、地元でしか買えない本を探すのだけれど、レストランガイドばかりが目立つ。それなら、蕎麦屋の本は?と思うとこれがない。置いてないだけなのか出版されてないのか、それさえ分からない。欲しいものには、なかなか手が届かない。出版界の孫の手が欲しくなる。
「sizoka」に静岡県はない色?の記事があった。静岡の色を考える。
少なくとも川(富士川、大井川)で分断されている地域を一色で決めるのは難しい。ただ、富士川から大井川までは「茶色」って感じです。
自分の中では、茶摘みを終えて、下枝刈りをした茶畑の色です。華やかな黄緑じゃなくて、もっと泥臭い。田植えをした田んぼの泥の色。流れのない巴川の色。まとめて「茶色」ですね。少し緑掛かった「茶色」って感じでしょうか。
風呂を燃す。
子供の頃住んでいた借家は、薪の風呂だった。だから「風呂燃す」は普通に風呂を沸かすことだった。近所に製材所があったので、時々、リヤカーを借りて木片を買いに行ったことを思い出す。それは一家総出の年中行事のような仕事だった。
リヤカーは父が引き、空の荷台に子供二人が乗り、製材所に行く。
そこで、捨ててある木片をリヤカーに積む。隙間なく山盛り一杯積む。今なら警察に呼び止められそうだ。
当時、リヤカー一杯で100円だった事を覚えている。高かったのか、安かったのか分からないけれど、今思うと廃材なんだからタダでいいような気がする。
現在、住んでいる近所にも製材所(現在は移転した)があり、廃材は自由にもらってきていたし、町内の建具屋でも木片をタダでくれるのだから、やっぱり高かったように思う。
帰りのリヤカーは重い。みんなで押しながら家に帰り、ここから薪割りが始まる。、子供たちは、手伝いのつもりで割った薪の片付けをする。一ヶ月くらいは、薪が持ったような気がするけれど、はっきり覚えていない。薪割りの後、風呂燃す。
父の勤めていた会社に風呂があり、仕事終わりに風呂に入ってから帰宅していたので、父と風呂に入った記憶があまりない。いつも弟と二人で入っていた様な気がする。木製の風呂桶は、底に木の栓があり、触らないように気をつけていた。うっかり触るとお湯が抜け出し、子供にはどうしようもない事になるのだった。しかも、浴槽内に焚きつけの窯がむき出しになっていて、お湯の中とは言っても沸かしたては熱かった。
当時の風呂桶は深くて、肩まで浸かるのに中腰で、急いで50まで数えて飛び出していた。烏の行水はこの頃からだったのだ。