私のなべ四器(規矩準縄)

今、自分の周りで起きていること。ご近所のトマソンもそんなに、気にしてない。深めにかぶった帽子で、年内不定休営業中。

大正寺

2009-01-29 06:35:25 | ぶらり仕事旅
静岡市駿河区西大谷。大正寺。
以前、一度訪れた事がある。
寺の門は、奥にもう一つあって、これは大谷街道に面している所にある。




参道や境内の、紅梅、白梅はすでに満開だった。
陽だまりは、暖かい。



大正寺の門の右側の道を行くと、「光洋台」と言う住宅地がある。小高い丘なので静岡市内がよく見える。
駿河湾の方を見ると、遠くに大崩海岸が見え、足元では区画整理の工事が進む。
まったく違う街並みが、作られようとしている。
この辺りの建物は、古い建物が多いので殆どが解体されていて、古い建物がそのまま残る事は、無いようだ。

大谷放水路を作る時に、移転を余儀なくされ、こちらに移って来た人達が、区画整理でまた移転するのは、気の毒に思える。

街並みがきれいになる事は、生活する意味で大事だけれど、思い出の地が無くなるのは、やっぱり寂しい事だと思う。
建物は勿論、小道まで無くなってしまうのだ。



静岡市の中心街が見える。此処から見ると高層ビル群が小さく見える。
あの辺りに駿府城が見えたのだろうかと、古の風景を想像する。
それは、駿府城の天守閣再建のニュースを聞くからだ。でも、天守閣の高さを考えると、あのビル群の陰で、見えないだろうなあと思う。


1582年(天正10年)の武田氏滅亡後に駿河を支配した家康によって近世城郭として築城し直され、この時に初めて天守が建ったとされる。その後1590年(天正18年)には、北条氏滅亡に伴う家康の関東移封により、豊臣系大名の中村一氏が入城した。

江戸時代初期、家康は徳川秀忠に将軍職を譲り、大御所となって江戸から駿府に隠居した。このとき駿府城は天下普請によって大修築され、ほぼ現在の形である三重の堀を持つ輪郭式平城が成立した。
しかし1607年(慶長12年)に、完成直後の天守や本丸御殿などが城内からの失火により焼失した。

その後直ちに再建されたが、1610年(慶長15年)再建時の天守郭は、五重七階の天守が中央に建つ大型天守台の外周を隅櫓・多聞櫓などが囲む特異な構造となった。
1616年(元和2年)に駿府城で家康が没するまでの大御所政治時代、駿府は江戸と並ぶ政治・経済の中心地として大いに繁栄した

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より


振り返って、市街地と反対側を見ると、山の上の方に富士山の山頂が見えた。
ここからも富士山は見えるんだと、ちょっとビックリすると共に、富士山の偉大さを感じる。
何処に行っても富士山を探すのは、毎日見ている物を欲しがる、人間の性でしょうか。(笑)

コメント
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