私のなべ四器(規矩準縄)

今、自分の周りで起きていること。ご近所のトマソンもそんなに、気にしてない。深めにかぶった帽子で、年内不定休営業中。

次郎長の家

2009-01-26 08:56:36 | 手当たり史跡
美濃輪町商店街。
「次郎長翁を知る会」の会員の方に、次郎長の住んでいた場所を案内してもらう事になった。忙しい方なので、早朝の街探検を実施する事になったのだ。

写真に小さく自動車が写っている。その辺りに「清水次郎長の生家」がある。次郎長が養子に出された「甲田屋」は、写真中央の背の高い建物の手前(黒っぽい建物)で、現在は化粧品屋になっている。

この辺りまでは「人間清水次郎長」で確認。



次郎長生家の玄関。反対側が商店街に面しているので、玄関と思いがちだが、こちらなのだ。
町は巴川に向かって開けていた。荷物は巴川(清水湊)から荷揚げされていたので、川と町は密接に繋がっていた。(案内人の説明)
川幅が今より広かったので、玄関から十数メートルで川だったと思われる。



次郎長が「おてふ」(初代おちょう)と結婚(1847年)して住んだ、妙慶寺付近。写真突き当りが「妙慶寺」。門前通りが川まで繋がっている。
この辺りに住んでいた事は分かっているのだが、ハッキリした場所は不明。

先日、巴川沿いを歩いていた時、ここを通りかかった。前から歩いて来られた老紳士が、妙慶寺に向かって一礼をして通り過ぎるのだった。
信心とは、こう言う事なんだろうと思う。



二代目おちょうと暮らしていた辺り。(清水区上一丁目)
二代目おちょうは、次郎長の留守に暗殺されてしまう。(明治二年、1869年)

次郎長が一家を構えていた時、人の出入りが多く(草鞋を脱ぐ)
飯を炊く釜の煙は絶えなかった。
当時の建物を知る人の話によると、部屋の壁にどんでん返し
(壁が180度回転する)があったそうだ。(案内人の説明)

いつでも、逃げられる様な仕掛けが必要だったのだ。
その位の危険は、当人も知っていたし、町民も知っていた。




船宿「末廣」(明治19年開業)に移る前に暮らしていた辺り。(清水区美濃輪町)

次郎長の家の二階から見た「壮士の墓」の写真と
「壮士の墓」から見た次郎長の家の写真を総合すると、
この辺りに成る。写真裏に、そんな記述があったらしい。(案内人の説明)

次郎長は、明治26年74歳で病死している。



次郎長が町のあちらこちらに住んでいたのに、次郎長の名前が残っているのは、「次郎長通り商店街」と「末廣」位で、特に次郎長町などはない。

次郎長通り商店街が、いつから次郎長通り商店街といったのかは、よく分からない。
昭和26年、第22回、都市対抗野球大会が後楽園球場で開かれた。参加チーム20組。
その中に、清水市・日本軽金属(初出場)がある。

次郎長一家二十八人衆が応援に駆けつけました。次郎長が口上を読むと、球場が割れるばかりの大喝采だったそうです。(昭和 平成 次郎長さんの歌より)

試合結果は、2回戦(対日本石油)4対5で逆転負けをしている。

この時の応援に行ったのが、次郎長通り商店街の人達だった。
当時の次郎長通りのお祭りは、ただ旅姿で歩くだけだったのですが、踊りを作ったりして、盛りあがっていたそうです。(案内人の説明)

次郎長は、若い頃と晩年では、まるで別人のような生き方をしている。それは、日本が明治維新で変革した事と、シンクロしている。


富士市には、次郎長が開拓した土地に「次郎長町」があると聞く。その辺りも歩いてみたいと思う。
コメント
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