富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

イースター礼拝 「エマオ途上での主の顕現」ルカによる福音書24章13~35節

2020-04-12 00:08:41 | キリスト教
                 ↑     Emmaus Disciples by Bloemaert 1622

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

   日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
 復活節第一主日(復活日・イースター) 2020年4月12日(日)午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体       
 を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住ま
 わせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」
                         (エフェソ3・16-17)
          礼 拝 順 序
                司会 斎藤 美保姉
前 奏             奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 327(すべての民よ、よろこべ)
交読詩編   30(神よ、守ってください)
主の祈り   93-5、A
使徒信条   93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)ルカによる福音書24章13~35節(新p.160) 
説  教  「エマオ途上での主の顕現」  辺見宗邦牧師
祈 祷                
聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)
讃美歌(21) 328(ハレルヤ、ハレルヤ〔たたかいは終わり〕)
献 金
感謝祈祷              
頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)
祝 祷             
後 奏
           次週礼拝 4月19日(日) 午後5時~5時50分  
           聖 書  ルカによる福音書24章36-49節
           説教題   「エルサレムでの主イエスの顕現」
           讃美歌(21) 204 325 交読詩篇 16篇
  愛餐会 礼拝後、牧師館洋室で、イースタを祝う食事を共にいたしましょう。

     本日の聖書 ルカによる福音書24章13~35節
 13ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14この一切の出来事について話し合っていた。15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
        本日の説教
  十字架の死の三日後、週の初めの日にキリストは復活されました。ルカ福音書では、空の墓(1-12節)、エマオへの途上での顕現(13-35節)、エルサレムでの顕現(36-49節)、この三つの出来事が一日で起こったこことして語られています。
 この日の明け方早く、香料を持って墓に行った婦人たちは、墓の入口の石が転がしてあるのを見て不思議に思い、中に入るとイエスの遺体がないので、途方にくれてしまいました。すると、輝く衣を着た二人に人が現われて、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」と告げました。そこで婦人たちはイエスの言葉を思い出しました。
 婦人たちは、墓から帰って、一部始終を使徒たちに話しましたが、使徒たちは、それをたわ言のように思い、信じませんでした。しかし、ペトロは、立ち上がって、墓へ走り、中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚き家へ帰りました。
この日、二人の弟子が、エルサレムから約11キロ㌔離れたエマオという村へ向かって歩いていました(1スタディオンは185m。60スタディオンは11100m=約11km)。歩いて3時間ほどの距離です。今日もエマオがどの位置にあるのか明確ではありません。二人は歩きながら、婦人たちによって知らされた出来事、主イエスの十字架の死と復活について話し合っていました。大切な人生の指導者を失った二人は、悲しみながら、弟子たちの集団を離れ、故郷に帰ろうとしていたと思われます。すると復活された主が近づいて来て、一緒に歩き始められました。二人の目は遮られていて、イエスだとは分かりませんでした。
 イエスは、話し合ったいるのは何のことですか、と尋ねました。二人は暗い顔をして立ち止まりました。その一人のクレオパという人が、「あなたは、エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、ご存知なかったのですか」と問いました。
イエスが、「どんなことですか」と聞くと、二人は「ナザレのイエスのことです」と言って、エルサレムで起こった出来事の一部始終を話し、特にイェスが十字架につけられてから、今日で三日目になるのに、墓に行った婦人たちからイエスが復活したことを聞いて驚いているのだと話しました。
すると、イエスは、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」と言って、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明されました。
一行はエマオの村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子でした。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られました。
  
    レンブラント 「エマオのキリスト」
一緒に食事の席に着いたとき、イエスは主人のようになってパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになりました。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その時には、イェスの姿は見えなくなりました。二人の「目を開いた」のは聖霊の働きによるものです。二人の弟子は、この方こそ不信仰な自分達のために、神の計画によって十字架で死んでくださり、復活されて栄光に入ったキリストだとわかったのです。弟子たちがキリストであると認めるに至ったのは、キリストの側からの働きかけによるものであり、決して弟子たちの自然的な認識能力によるものではありませんでした。
 二人は、「あの方が道で話しておられたとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合いました。みことばが説き明かされることによって、聞く人々には、心が燃える経験をするのです。そこには聖霊が働き、聞く者の心を命の言葉で満たすのです。
二人は、復活された主との食卓を共にしたことによって、悲しみと絶望から立ち直っており、イエスに出会ったことをしらせるため、エルサレムにいる兄弟姉妹の許へと向かわせます。二人はすぐに出発して、その日の夜のうちにエルサレムの町へ戻りました。
   エルサレムに、二人が戻ってからのできごとは次回の説教でお話しいたします。、
 エマオでの二人の弟子たちへのイエスの顕現は、主イエスは復活され、昇天された後も、父なる神とともに世を支配し、常に私ちと共に歩んでくださる方であり、御言葉を語ってくださる方であり、主の食卓に招いて、私たちにパンと杯をお与えくださる方であり、私たちと出会って、祝福を与えてくださる方であることを伝えます。
  死んだ者が生き返るなどということは、ばかげていると常識的には考えられるでしょう。多くの現代人は、そんなばかばかしいことを信じているやつの気が知れない、と言います。復活を信じない人は、死に打ち勝つものを信じません。永遠に生命的なものがあるということを信じません。したがって、人生は、「どうせ死んでしまってすべて終わり」と考えます。
  イエスの弟子たちも、とくにトマスという弟子は、復活したイエスの脇腹の傷跡に手でふれてみなければ、復活を信じられないと言った人です。そのトマスにも主は現われ、「あなたの手をのばして、わたしの脇腹に手をのばしなさい。」と言われました。トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を告白しました
   使徒パウロも、天から声をかけてくださる生けるキリストと出会うまでは、キリストの復活を否定して、キリスト教徒を撲滅しようとしていた人です。パウロは、よみがえったキリストが「わたしにも現れたのである」と言ってます。
 信仰は神に与えられるものです。私たちが信仰を求めようという気持ちを与えられるのも、聖書のお話を聞いてみようという思いを与えられるのも、とにかく教会の礼拝というものに行ってみようという思いになるのも、皆聖霊の働きによることなのです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(コリント一、12:3)
  信仰者となるために私たちのできることは、この聖霊の働きを祈り求めることです。神様、私はあなたを信じる者になりたいのです。だから、聖霊の働きを与えて下さい、と神様に祈るのです。そのような祈り求めに、神様は必ず応えて下さいます。
 主イエスが復活して永遠に生ける方となられました。主イエスは、永遠に生ける者として、私たちと共にいたもう方です。イエスが死から復活し、人間の罪と死とに打ち勝たれたからこそ、神の子イエスの信仰が生まれたのです。主イエスは、目には見えませんが、今なお、聖霊の主として私たちと共にいてくださり、私たちを護り導いてくださっています。聖霊の力をいただき、罪の支配と死の恐怖から解放され、主を賛美しつつ、主に従ってまいりましょう。

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