富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「あなたがたに平安があるように」-コロナウイルスに勝利しましょうー

2020-04-21 11:18:50 | キリスト教
                                                                   ↑  
                                               「共に祈りましょう。」
    2020年4月21日(火)14時~14時40分
               場所 シェアホーム みどり
               〒981-1102 仙台市太白区袋原字小原56-1         
               電話 022-797-8331 Fax 022-797-8332
       「ミニ礼拝と聖餐」
讃美歌(21) 327(すべての民よ、よろこべ) 
主の祈り   93-5、
新共同訳聖書 
説  教    「あなたがたに平安があるように」 辺見宗邦牧師
       -コロナウイルスに勝利しましょうー
祈 祷
讃美歌(21) 197(ああ主のひとみ)
聖餐式・讃美歌(21) 72(まごこころもて)
感謝祈祷
祝祷

      本日の聖書 ヨハネによる福音書20章19~29節(新p.210)
20:19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 
26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸
ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
                 
                        本日の説教 
 週の初めの日(主が復活した日曜日)の夕方、弟子たちはイエスが死んだので失望し、大祭司や最高法院の迫害を恐れ、逮捕されればイエスと同じように十字架につけられることを恐れ、自分たちのいる家の戸口に鍵をかけていました。
一緒に集まっていた弟子たちのところへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和(平安)があるように」と言われました。イエスの与える平和は、「世神が共にいてくださることによって与えられる特別な平和です。それはイエスを裏切り、見捨て、見殺しにした弟子たちの罪をも赦す平和でもありました。
イエスは最後の晩餐の席、「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」(14・28)と言われた約束が、ここで実現したことになります。
イエスは弟子たちに、手とわき腹とをお見せになりました。手には釘の跡があり、わき腹には槍で刺された傷跡がありました。十字架の上で人々の罪のために身代わりとなって死んでくださったイエスが復活されて現れたのです。弟子たちは、イエスが新しい復活の命をもって彼らの前に現れたことを喜びました。この喜びは、ユダヤ人を恐れていたことからも解放し、彼らが自らを閉じ込めていた死の恐れとイエスを見捨てた罪を赦され、新しい命に生きることが出来る喜びでもありました。
イエスは重ねて言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
イエスの十字架と復活に出会って、始めて弟子たちは、イエスの本当の姿、神であり救い主であることが分かり、福音を正しく宣べ伝えることができるようにされたのです。
 最後の晩餐の席で、イエスが、「あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない」(16・23)と約束された言葉がここに実現しました。
そう言ってから、イエスは彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
復活の主イエスにより、聖霊が与えられることを通して、弟子たちは罪と死の支配から解放され、神の子である身分と永遠の命に生きる新しい人間に造り変えられるのです。聖霊の導きと、聖霊の力により弟子たちは、確信をもって、罪の赦しを告げ知らせ福音を宣べ伝えることができる者とされたのです。
十二人の弟子の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいませんでした。<ディディモ>とは双子のことです。彼は双子の兄弟の一人なので、そのように呼ばれたのです。イエスが病気で死んだと思われるラザロのところへ行こうと言ったとき、トマスは、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(11・16)と言った人物です。また、最後の晩餐のとき、イエスの語られたことに対して、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません」(14・5)と言っています。トマスは主イエスと共に死ぬ覚悟であり、死がすべての終わりであるという人生観を持っていたようです。
ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました。トマスは弟子たちの証言を聞いても、イエスが現れたことを信ずることができませんでした。トマスは自分の目でイエスの手に釘の跡を見、わき腹に槍の跡を見て、自分の指をその跡に入れてみなければ決して信じない、と言ったのです。このトマスの態度と言葉から、疑い深いトマスとか、不信のトマスと非難する呼び名が生まれました。しかし、直接自分の目で見て、確かめなければ信じられない、というトマスの態度を、一概に懐疑的とすることはできないのではないでしょうか。この疑い深いトマスと私たちも同じではないでしょうか。
この八日の後、ちょうど一週間後の日曜日、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいました。戸にはみな鍵がかけてありました。まだ、弟子たちには不安があったのでしょう。その家にイエスが来て、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。トマスは復活されたイエスを信じられない心のまま、弟子たちの群れの中にとどまっていました。そのトマスに、イエスは「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と呼びかけられました。
トマスは主イエスの言葉を聞いて、「わが主、わが神よ」と言いました。自分のために現れてくださった復活のイエスを見て、この方は神だとトマスは直感したのです。
  トマスは、最初自分は師であるイエスのために死ぬ覚悟をしていました。ところが、イエスが十字架に付けられた時、イエスを捨てて逃げた人間でした。そのような罪深い自分のために、主が十字架で受けた傷痕は、自分の罪の赦しであることに気付かされました。トマスは生きておられる神であり、復活された方であり、自分の罪を赦してくださっている主であることを告白したのです。このとき「死ですべてが終わる」という固定観念からトマスは解放されました。
イエスはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました。<見ないで信じる者>、それはキリストの言葉を聞いて信じる者のことです。トマスは、復活されたイエスが現れてくださったことによって、イエスに対する信仰を告白することができました。しかし、彼以後の人々は、イエスの弟子たちの証言を通し、宣教の言葉を通し、キリストの言葉を聞いて信じなければなりません。イエスは、そういう人々こそ、トマス以上に幸いなのだと、祝福を約束されたのです。
主イエスは、トマスのようなイエスの復活を信じることが出来ない者のために御自分を示してくださる方です。復活した体で現れるのではなく、聖霊により、御声を持って語りかけてくださるのです。イエスの復活を信じることが出来ず、キリスト教徒を迫害しようとしていたサウロ(後のパウロ)にも、天からの御声によって語りかけてくださいました。それは肉の眼や耳を以て見聞きしたものでなく、聖霊によって与えられた霊的な体験です。パウロはこの経験を、キリストが復活したことは・・<最後にわたしにも現われました>(コリント一、15:8)と言っています。パウロに現われたように、主イエスは私たちにも神として語りかけて下さる方です。
今も生きておられるイエスに向かって「わが主、わが神」と信じる者は、「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくとも信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれ」(ペトロ一、1・8)、キリストとの霊的交わりを与えられ、信仰の実りと魂の救いを受けているのです。イエスの復活を信じる信仰は、福音の御言葉を聞くことから始まります(ローマ人への手紙 10・17)。そこに神からの聖霊の働きがあり、今も生きておられる主イエスを「わが主よ、わが神よ」と呼びかける信仰が与えられるのです。
コロナ・ウイルスの感染が日本でも、世界でも続いています。多数の死者も出ています。いつになったら終息するのか、先が見えない不安の中にあります。外出自粛により、多くの商店や会社が営業が出来ず、収入が減り、経済的な危機の状態にあります。
しかし、「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。(ヨハネ16:33)と主イエスは宣言され、私たちを励ましておられます。イエスは「わが主、わが神」です。神がわたしたちの味方であるならば、これ以上の安心はありません。主イエスが、いつも私たちと共にいてくださり、真の平安をくださり、わたしたちを不安と悩みにおとし入れる世に勝利させてくださることを信じましょう。全国民、こころを一つにし、「ワン・チームone team」となって、コロナ・ウイルスにも勝利しましょう。



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