富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「『不正な管理人』のたとえ(納得できる解釈は?)」ルカによる福音書16章1-13節

2020-04-04 00:28:57 | キリスト教
      ↑ ティントレット(イタリア)「最後の晩餐」1592年作 所蔵 ヴィネッイア
                 サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂
      説明:手前から奥に向かって長くのびるテーブルには十二使徒と、立って彼らにパンを与える光輪の輝くキリストがいます。テーブルの右奥に、キリストと向い合うように座っている赤い被り物と赤い衣の弟子がユダです。
 981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 
                       日本福音教団 富 谷 教 会     週 報
   棕櫚の主日(受難週)  2020年4月5日(日)   午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住ま
わせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」
(エフェソ3・16-17)

         礼 拝 順 序
                司会 齋藤 美保姉
前 奏             奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21)  309(あがないの主に)
交読詩編   98(新しい歌を主に向かって歌え)
主の祈り   93-5、A
使徒信条   93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)ルカによる福音書16章1-13節(新p.140)
説  教    「『不正な管理人』のたとえ」   辺見宗邦牧師
祈 祷                
讃美歌(21) 302(暗いゲッセマネ)
献 金
感謝祈祷              
頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)
祝 祷             
後 奏
       次週礼拝 4月12日(日)イ―スター礼拝 午後5時~5時50分  
       聖 書  ヨハネによる福音書20章1-18節
       説教題   「キリストの復活」
       讃美歌(21) 316 331 交読詩篇 30篇

     本日の説教 ルカによる福音書16章1-13節
 16:1イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。 2そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』 3管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。 4そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』 5そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。 6『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』 7また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』 8主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。 9そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。 10ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。 11だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。 12また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。 13どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
     

           本日の説教
このたとえは、二つの部分に分けられます。1~9節の譬と、10~13節の付加部分です。どちらも金銭の建設的な使い方を述べていますが、付加の部分は「富に対する」態度です。たとえのなかで、金持ちの主人は管理人のことを、「この不正な管理人」(8節)と言っています。「不正な管理人」の「不正さ」がどの点にあるのかによって解釈が異なってしまいます。
古くからの解釈によると、管理人は主人の財産を無駄使いしただけでなく、人に貸した主人の財をごまかして一部しか取戻さず、主人に損害を与えて、自分は借財人らに受け入れられようとしたことが不正である。そして、たとえは、この不正な管理人の「賢さ」を見習うようにと教えているとする伝統的な見解です。
しかし、主人の財産に実質的に損害を与えながら、「抜け目のないやり方」をほめ、「賢くふるまている」と、ほめるのもおかしいことだとして、ほめられたのは、管理人が、自分の個人的な危機に際して、その状況を機敏に理解し、自分の身の将来の安全を考えて勇敢に行動したことにあるとする解釈もあります。
最近の解釈では、借財人から主人の貸しを返させる場合、管理人は、その利子(油の半分や、小麦の二割)を減額したか、あるいは管理人としての手数料を取るのを断念して、借財人に取り入った、というものです。そしてこれが<不正>と言われる理由は、ユダヤ人が同胞から利子を取ったり手数料を取ったりするのは、神の律法によって禁じられていたからである、とするものです。
当時エジプトでは、食料品の利子は50%ほどだったようです。ユダヤでも利子を取ることは律法に禁じられていても広く行われていたようなので、管理人が利子を取っていたことを、主人が「不正な管理人」と見做したとは思われません。
より納得できる解釈は、管理者が主人の財産を無駄使いしていることと、そのため解雇されたときに、彼の面倒をみてくれるかもしれない人々のご機嫌をとるために、彼の主人に返さなければならない財産を偽ったということが、「不正の管理人」なのです。この管理人が主人の信頼を裏切り、与えられた権限を利用して、主人の財産を自分の保身のために利用した「不正、不義」がほめられているのではありません。   
共同訳聖書では、管理人の行動を、「抜け目のない」と「賢い」というような訳語で表現しています。これらの言葉は、利己的なずる賢い行為を思わせます。これらの言葉は褒められる人には適していません。「賢い」のギリシャ語の原語は副詞のフェロニモ―ス(φρονίμως)です。この語には「現実に即した、実務的な頭の良さ、良識のある賢さ」を表しており、特に「ずる賢い、抜け目のない」というような否定的な意味はありません(A MANUAL GREEK LEXICON OF THE NEW TESTAMENT  by G. ABBOTT SMITH  T.& T CLARK 出版 1954年版 p.474 参照)。口語訳聖書では、「利口なやり方」と訳しています。また「賢くふるまっている」を「利口にふるまっている」と訳しています。この訳語の方が、原語の意味に近いのです。主人がほめたのは、管理人の「ずる賢いやり方」ではなく、結果を見通した慎重な「賢明な、良識のある利口なやり方」でした。また主イエスは「賢く(ずる賢く)ふるまっている」とほめられたのではなく、「賢明に、利口にふるまっている」ことをほめたのです。
主イエスはファリサイ派の人達も聞いているところで、弟子たちに、この「不正な管理人のたとえ」を話されました。この話を話された後、「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」(ルカ16:14)と記されています。このことから、この教えが弟子たちのためばかりでなく、宗教指導者たちの心にあった神や人生に対する誤った態度を示すためにも、極めて必要とされて話されたことが明らかです。
イエスは次のような「たとえ話」をされました。ある金持ちの地主がおり、管理人を雇っていました。その管理人が主人の財産を無駄使いしていると告げ口する者がいました。「無駄使いしている」とは、主人の財産を自分のために勝手に流用していたことなのでしょう。そこで主人はその管理人を呼びつけて、「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。」と言われました。
そこで管理人は、「どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る体力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ、わかった。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。」と考えつきました。彼は職を失っても、友達と仲良くやっていける方法があることを思いついたのです。管理人は取引証書を管理しています。主人の名で取引を行い、証書を作る権限をもっています。
 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、「わたしの主人にいくら借りがあるのか」とたずねました。彼が「油(オリーブ油?)百バトス」と答えると、管理人はその職務を行使して、「これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。」と言って、半分に減らしてやりました。
<バトス>とは、液体の容量を表す単位で、1バトスは約23リットルに相当します。百バトスは2300㍑に相当します。200㍑入りのドラム缶(直径0.6m×高さ0.9m)、約12本に当たります。管理人は、その半分の量に、借料証書を書き直させたのです。
 また別の人には、「あなたは、いくら借りがあるのか」と問いました。その人が「小麦百コロス」ですと言うと、管理人は、「これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。」と言って、二割引きにしてやりました。
<コロス>は固体の容量です。1コロスは約230㍑に相当します。米俵1俵は60㎏=72㍑です。小麦百コロスは23000㍑になります。米俵にすると約320俵になります。
このように、管理人はたくみに主人の財産を減額することによって、二人の負債者を長く自分自身の恩義を感じる者とし、将来の友情を確保して自分の身の安全を図りました。
主人は、この不正な管理人の利口なやり方をほめました。主人は管理人の不正をほめたのではありません。彼をほめたのは、この窮地に立って、委ねられていた所有物を、自分の将来の安全のための人脈つくりに用いたことであり、将来を見通した賢明なやり方です。
たとえ話を語り終えたイエスは、「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」と言われました。
この言葉も受け入れ難い言葉です。<不正にまみれた>という訳語が用いられているからです。原語のアディキアス(ἀδικίας)は<地上の、世俗的な>という意味もあるので、<地上の、世俗的な富を用いて>と訳すと良いと思うのです。
イエスは、「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」と語られました。<この世の子ら>とは、この世の精神、神を考えない世俗の生活態度であり、<光の子ら>とは、光の神の国の精神でこの世を生きる人々でしょう。<この世の子ら>は、当面した危機に対して慎重に、賢明に行動しています。<この世の富>とは、天の富に対することばです。不正な手段で得た富(金)という意味ではありません。この世の富を利用して友を作れというのは、ルカ福音書では、特に貧しい者への施しなどを指すとも解することができます。「この世の富」であっても、「友をつくる」ために用いられる時、それは友を助け、喜ばせるという意味で、ほめられるべき善行です。富を自己保全の保証として貯えるのでなく、有効に、「友」のために用いなさいと勧められているのです。<金がなくなったとき>とは、金の価値が役に立たなくなったとき、または死の時か終末の時です。<永遠の住まい>は神が迎えてくださる天の御国です。
「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。」
これは、どこにでも通用する世間の格言です。ここでは、管理における忠実さにおいて、たとえの管理人は不忠実だったが、イエスの弟子たちは忠実であるべきだと教えています。
「だから、地上の富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。」 
<地上の富>に忠実でなければ、「本当に価値あるもの」、すなわち、御国の世継ぎとしての大いなる賜物を任せるだろうか、とイエスは弟子たちに与えられる特権、神の国の祝福、恵みの賜物についての忠実さと責任を訴えています。
「また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。」
<他人のもの>は、弟子たちに神から任されたこの世の財か、彼らに任された共同体の財産であり、<あなたがたのもの>はイエスの弟子にまことに属する天の宝です。これらの財産の利用にあたり、忠実でなければ、神はいったい天の宝を与えるだろうか、という教えです。
「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
召し使いは二人の主人に、「仕えてはならない」ではなく、「仕えることができない」と言われています。忠実さは神にのみささげられなければならない、と言われています。弟子は、金、すなわち富そのものを目的にしてそれに執着心を起こし、心は神から離れ去ります。神と富との両方を同じように重んじるのは不可能です。神にのみ従い、仕えるときに富の支配から自由にされ、富を支配できることを意味しています。<光の子ら>は、神に従に、富の利用に対する責任を忠実に担わなければなりません。
 このたとえの中の管理人を、主イエスと見ることができます。この不正な管理人のしていることは、イエスがこの地上に来られてしていることを思わせます。管理人は自分の保身のために秘策を思いつき、賢いやり方をしました。主イエスは自分の保身のためではなく、私たち人間を救うために、父なる神の御計画に従って、自分の命を捨てて下さいました。イエスは、罪に染まっているために律法の求める義を満たすことのできない、律法ののろいのもとにある人間を救うために来られました。管理人が主人の負債者たちの証文を書き直させたように、イエスは「規則によって、わたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘づけにして取り除いてくださいました。」(コロサイ1:13-14)
また、この不正な管理人は私たちをも示しています。私たちも、神の御前に立つ決算の日に会計報告を提出し、申し開きをしなければならなりません。「お前はどのように生きたか」、すなわち「わたしが委ねた命や能力をどのように用いたか」と問われるとき、それに答えなければならな立場にあります。わたしたちは、御子キリストのあがないの恵みにより頼み、罪の負債の赦しを乞わなければなりません。決算の時が迫っている今この時に、不正な管理人のように「賢明に」、世の富、私たちに与えられているすべてのものを活用して、神の栄光のために、また隣人を愛し仕えて、永遠の住まいに迎え入れて下さるように、主イエス仰ぎつつ、世の人達以上に真剣に賢明に、決算の日に備えなければなりません。

コメント (1)
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