富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「キリストに仕える喜びと苦難」 コロサイの信徒への手紙1章21~29

2018-09-23 11:48:48 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

    日本福音教団 富 谷 教 会   週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

    聖霊降臨節第19主日 2018年9月23日(日)    午後5時~5時50分 

                                礼 拝 順 序

                                                司会 佐藤 洋子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 219(夕日落ちて)

交読詩編   43(神よ、あなたの裁きを望みます)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)コロサイの信徒への手紙1章21~29(p.368)

説  教  「キリストに仕える喜びと苦難」辺見宗邦牧師 

祈 祷                 

讃美歌(21) 483(わが主イェスよ、ひたすら)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

                                       次週礼拝 9月30日(日) 午後5時~5時50分

                                       聖 書  ヘブライ人への手紙6章4~12

                                       説教題  「執り成し」

                                       讃美歌(21) 155 336 24 交読詩編103篇

 

              本日の聖書 コロサイの信徒への手紙1章21~29

   1:21あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。 22しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。 23ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。 24今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。 25神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。 26世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。 27この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。 28このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。 29このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。

                   本日の説教

   コロサイの町は、ローマ帝国のアジア州に属するフリギア地方にあり、エフェソ(現在名はエフェス)より東200キロほど内陸部にあり、東方に向かう主要道路に面していたことと、毛織物の産地であったことで栄えていましたが、パウロの時代は、小さな町になっていました。

    コロサイは、現在のトルコ共和国の壮大な石灰棚で世界遺産となっているパムッカレ(綿の城の意)の近くにあるメアンダ―ル川の支流のリュコス川の南岸にあった町で、そこより17㌔下流には、黙示録に出てくる七つの教会のうちに数えられているラオディキヤの町があり、15キロほどのところにはヒエラポリスの町もありました。

    イエスの福音がコロサイを含むアジア州に広まったのはパウロの第三伝道旅行(紀元53~56年)の途中、パウロがエフェソに約2年滞在中のことです。(使徒言行録19章1、10節参照)。コロサイ出身の異邦人エパフラスがパウロの伝える福音をエフェソで聴いて信仰に入り、パウロの協力者となったエパフラスが、コロサイに福音を伝えました(コロサイ4・12以下)。コロサイの信徒たちはユダヤ人ではなく異邦人が多数を占めていました。このように、コロサイやラオディキア、ヒエラポリスなどへは、エフェソからパウロの仲間たちが出掛けて宣教したようです(コロサイ4・13)。また、おそらくエフェソ出身のティキコやオネシモをパウロはコロサイに遣わし、教会の事情を報告させています(4・7、9、使徒言行録20・4)。パウロはコロサイには行ったことがないように思われるのは、次のような文面から予想されます。「わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人々のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。」(2・1)

  コロサイの伝道は、エパフラスによってなされたことは、次の文面から読み取れます。「あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼はあなたがたのが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています。わたしは証言しますが、彼はあなたがたのため、非常に労苦しています。」(コロサイ4・12~13)

 コロサイ書は、フィリピ、フィレモン、エフェソ書とともに、パウロの獄中書簡と呼ばれています(コロサイ4・3、10、18)。従来、投獄されていた場所として、ローマ、カイサリアが想定されてきましたが、エフェソで約二年いた間(53~54年の前後)に投獄されたとする説が有力です(コリント一、16・8)。しかし、手紙の文体や語彙や表現形式などと、思想がパウロの真正な手紙ではないとし、パウロの死後に弟子によって、おそらくエパフラスか、あるいはテモテ(1・1)によって、80年代に書かれたと推察されています。

  エパフラスは、コロサイのキリスト者たちのキリスト・イエスに対する信仰と、すべての信徒に対する愛を、エフェソで捕らわれの身となっているパウロを訪ねて知らせたのでしょう。パウロはそれを聞いて神に感謝しています(1・3~8)。しかし同時に、この教会は異邦人が多かったので(1・27、2・13)、欲望を欲しいままにする異教の習慣に逆戻りする危険性がありました(3・5~11)。そこで、パウロは道徳的にすぐれたキリスト者の生活を具体的に教える必要がありました(3・12~4・1)。

  更に、コロサイの教会に、キリストの信仰を危うくするような異端的教えが入ってきたので、パウロは黙しきれず筆をとったのがコロサイ書です。パウロは、「あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」(1・23)、また、「人間の言い伝えに過ぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい」(2・8)と警告しています。

 この異端はユダヤ教の律法遵守と関係があったらしく、割礼や食べ物についての禁止規定、祭り、安息日を強調する点ではユダヤ的です(2・11、16)。また「天使礼拝」や「幻を見る」といった神秘主義的傾向があり(2・18)、哲学的な議論をし(2・8)、「手をつけるな。味わうな。触れるな。」(2・21)といった霊力としての律法的規定を神聖視して、その束縛の下に立っていたのです。「汚れ」や「不完全さ」を克服しようとして、からだを敵視した不自然な生活や修行・禁欲を行い、それをもって天に至る準備とすることは、しばしば、底知れない傲慢と利己主義をはぐくむ霊性や宗教となる危険を手紙は警告しています(2・18、23)。

 パウロはこうした霊力を信じる信仰の間違いであることを示すために、キリストは御使いも含めたあらゆる被造物の上に立つ方であって、創造に関与し、被造物を支えておられ(1・15~17)、キリストこそ宇宙の安定と調和の基礎であることを説き、彼こそ天への唯一の、神から遣わされた仲介者であることを信じて、高らかに歌い励ましています(1・15以下の賛歌)。

 また御子・キリストは、その体である教会の頭であり(1・18)、初めの者、死者の中から最初に生まれた方であり、神は十字架の血によって、万物をただ御子によって和解させられたのであり、神はあなたがたと御子の死によってて和解し、聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました(1・22)、とパウロは説いたのです。そして、このキリストを信じて救われている信徒が、今更他の諸霊力を崇拝し、また律法の規定に従うべき理由がないことを教えています(1・13~3・4)。

  今日の聖書の箇所から、みことばをいただきましょう。

 「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。」(1・21-22)

 パウロはここまでキリストのみわざについて語りましたが、ここではコロサイの信徒たちを、「あなたがたは」と名指しして、福音に生かされる以前の生き方を思い起させています。以前は神から離れた生活を送っていた過去の事実と、現在の福音に生かされている生き方とを、対比しています。その過去の状況から解放されて、<聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者>としてくださったのは、キリストの苦難と死によってもたらされたものであることを思い起させます。私たちも同じ状況にあります。

 「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。」(1・23)

  <揺らぐことなく信仰に踏みとどまる>ようにとの勧告は、明らかに建築のイメージからきています。信仰は神の真実のうちにふみとどまることです。ここに福音の望みがあります。あなたがたが聞いたこの福音の希望から離れてはならないと励まします。この福音はすべての人のためのものであり、世界中に宣べ伝えられており、この目的に仕えるためにパウロは神から与えられたすべてをの力を用いて労するのです。

 「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」(1・24)

  パウロは<今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし>と言い、コロサイの信徒たちのための苦難が、福音に仕える使徒としての活動にとって必然であり、喜びであると言います。<キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています>の文章は、さまざまな解釈がなされています。それはキリストの苦難にまだ欠けたところがあって、パウロが補わなければならないということなのか、キリストのために苦しむということなのか、あるいは、神秘的にキリストに一致したパウロの経験したキリストの苦しみのことなのでしょうか。十字架における御子のあがないと和解のわざはそれだけで完全であって、もはやなんの補足も必要としない一回限りですが、それを分け与え伝える聖餐は繰り返し行われるように、使徒は自らもこの一回限りの贖いの業にあずかりつつ、これを宣教し、今もなおこの務めを果たしており、もろもろの苦しみを受けながら、キリストの贖いの苦難を証ししているのです。キリストの救いの業と共に、使徒の働きは、人々をキリストの前に全き者として立たせることを目指す(1・22)宣教です。

 「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。」(1・25)

  パウロは、<御言葉ををあなたがな伝える>という務めを神から与えられたことによって、キリストの体である教会に仕える者になったと、使徒としての抱負と使命を述べます。

 「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。」(1・26-27)

  パウロは神の言葉である<秘められた計画>(奥義)に従って、その計画を異邦人たちに明らかにし、実現するために仕える務めを神に託されました。<秘められた計画>とは、神の御心のうちに隠されている将来の出来事ではなく、今、異邦人に与えられている<栄光に満ちた>神の働きです。それは<あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望>です、とあるように、<わたしたちの内におられるキリスト>、<わたしたちの内に>住んでくださる<キリスト>こそがわたしたちにとって、栄光に満ちたものであり、栄光の希望なのです。

  「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。」(1・28-29)

  <このキリスト>をパウロたちは宣べ伝えており、<すべての人がキリストの結ばれて完全な者となるように>、使徒はすべてのひとりひとりの人を訓戒し、教えています。使徒自身は、<わたしの内に力強く働>いておられる方、キリストの力によって、それも<苦闘しながら>その務めを果たしています。それだからこそ、からだの苦難も、使徒にとっては喜びのしるしであり、与えられた使命を確かなものにしているのです。。

 私たちが救われたのは、私たちが立派で善い行いを積んだからではありません。私たちは「かつては悪い行いをして神から離れ」(21節)ていた者でした。しかし、神様は、このような私たちのために御子を死に渡し、贖うことで赦し、神様と和解させてくださったのです。それは私たちを「聖なる、傷のない、責められるところのない者」(22節)として神のみ前に立たせるためです。それは御子イエス様がわたしたちの内に住んでくださることによって実現します。この救いの恵に預かった私たちは、ゆるぐことがなく、しっかりと信仰に踏みとどまり、人々の救いを願って宣教することが求められています。獄中でこのように記したパウロは、口先だけで愛するのでなく、身をもってキリストのからだなるコロサイ教会のために、喜んで様々な苦難を引き受け、主に仕えました。

 パウロは自分の経験している苦しみを「キリストの苦しみのなお足りないところ」を自分の体をもって補っていると言います。パウロが命がけで伝えていたのは今まで長い間隠されていたが、いまや明らかにされた奥義でした。それは、まさにキリストを指し示すものであり、このキリストが私たちのうちにいてくださる、住んでくださるということです。私たちも、わたしたちのうちにいてくださるキリストの力強い働らきをいただいて、それぞれに与えられている使命を成し遂げましょう。

 

 

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