富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「大祭司イエスによる永遠の救いの完成」

2018-09-14 22:04:35 | キリスト教

    日本キリスト教 富 谷 教 会   週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

      聖霊降臨節第18主日  2018年9月16日(日)     午後5時~5時50分 

                        礼 拝 順 序

                                                司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 288(恵みにかがやき)

交読詩編   96(新しい歌を主に向かって歌え)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)ヘブライ人への手紙9章23~28節(p.411)

説  教  「大祭司イエスによる永遠の救いの完成」 辺見宗邦牧師

祈 祷

聖餐式    72(まごころもて)  

讃美歌(21) 513(主は命を)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

               次週礼拝 9月23日(日) 午後5時~5時50分

               聖 書  コロサイの信徒への手紙1章21~29

               説教題  「苦難の共同体」

               讃美歌(21) 219 483 24 交読詩編43篇

  本日の聖書 ヘブライ人への手紙9章23~28節

9:23このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。 24なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。 25また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。 26もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。 27また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、 28キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。

     本日の説教

 ヘブライ人への手紙という名称から、ヘブライ人に宛てられた手紙となっていますが、ヘブライ人とは、ユダヤ人を指す古い呼び名です。しかし必ずしもパレスチナのユダヤ人キリスト者たちではなく、13・24の<イタリア出身の人たち>という句からイタリアないしローマの地域のユダヤ人キリスト者を予想させます。迫害に際しての忍耐をすすめている点どから、おそらく離散したユダヤ人キリスト者たちがいるローマの集会に宛てて書かれたものと見る見方が有力です。ローマではユダヤ人信徒と異邦人信徒が混在していました。<ヘブライ人への手紙>という名称は、後になってから、その内容から察してつけられた名です。いきなり本文で始まるので、手紙よりも論説や説教のようなものです。  

 この書は、長い間パウロの書簡とされてきましたが、近代の研究では、バルナバ(キプロス島出身のユダヤ人)やアポロ(アレキサンドリア出身のユダヤ人)、プリスキラ(ローマを退去してコリント、そしてエフェスに移住したアクラの妻で、ポントス[現在のトルコの黒海に近い町]生まれのユダヤ人)といった人物を著者とする説が有力ですが、明らかではありません。

 著者は旧約聖書に深い理解をもち、教養の高い、ギリシア語を用いる外国に住むユダヤ人であると思われます。著者はテモテを知っており(13・23)、パウロの信仰を継承しています。執筆年代は、ネロの迫害(64年)の経験が言及されていますし(10・32~34)、しかも新たな迫害[ドミティアヌ帝(在位81~96年)の迫害]が近づき、再臨の希望が失われ、聖霊の働きもあまり見られないところから、一世紀末が考えられ、80~90年頃と推定されます。執筆の場所としては、エフェソあたりが最も可能性が高いとされています。

 執筆の事情については、次のようなことが考えられます。宛先の教会の人たちが、信仰に入った初めの頃は<苦しい大きな戦いによく耐えた>(10・32)のですが、その後の信仰生活の中で、彼らの中には、集会から離れ(10・25)、異なった教えに迷わされ(13・9)、みだらな生活に陥る(13・4)者たちも出たので、このような危機的な状況を知った、かつてこの集会の指導者であった著者が、新たな迫害に備えて、この勧告の手紙を書き送ったと推定されます。

 ヘブライ人への手紙は、最後の添え書きを別にすると、三つの主要な勧告(説教)から成り立っています。第一部は「神の言葉に聞き従おう」(1・1~4・13)、第二部は「信仰告白をしっかり守り礼拝に励もう」(4・14~10・31)、第三部は「イエスを仰ぎ見つつ忍耐をもって走り抜こう」(10・32~13.21)と信仰者の忍耐を説く勧めになっています。

 今日の聖書の箇所(9章23~28節)は、キリストの十字架の死は、わたしたちの罪をあがなう唯一のいけにえであることを教えます。この箇所に至るまでの各章のキリストについての主な記事をとりあげてみましょう。

 1章では、神の御子は「人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きにならました」(1:3)と地上における大祭司の役目を果たした御子をたたえています。

 2章には、「『天使たちよりも、わずかな間、低い者とされた』イエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と誉れの冠を授けられたのを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです』」(2:9)とあります。神の御子であられたイエスが人となられて地上に間になされた十字架の死について語っています。

 3章では、イエスはモーセよりもまさることが語られ、わたしたちが告白している「使者であり、大祭司であるイエス」(3:1)に目を向けるべきことが告げられています。また、旧約の荒野の民が神の言葉に従わず安息を得ることが出来なかった例をあげて訓戒します。

 4章では、この安息にあずかるように努力しましょう(4:11)、と勧め、「もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えたれているのですから」、信仰をしっかり保ちましょうと勧めています(4:14)。

 5章では、旧約における一般の大祭司たる者の資格が述べられます。イエスにおいてもその資格が満たされたことが述べられます。イエスが神によって御子および大祭司として任命されたこと、自ら人間的苦難を経験され、父なる神への従順を学ばれたこと、こうして完全なものとなって、イエスはメルキゼデクの位に等しい大祭司に任命され、永遠の救いの源となられた(5:7-10)ことが語られています。

 6章では、キリストによって与えられている救いの希望がどれほど確かなものであるかを船の<錨のようなもの>であると説明します。それは「イエスがわたしたちのために先駆者として」至聖所に入って行き、「永遠のメルキゼデクと同じような大祭司となられた」ことによって与えられた(6:19-20)と説明します。

 7章では、メルキゼデクについての説明がなされます。「メルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福し」(7:1)たことが語られています。これは創世記14章18-20節の記事によります。詩篇110:4では、神の子がメルキゼデクになぞらえられています。本書では、メルキゼデクは「神の子に似た者であって、永遠の祭司です」(7:3)と言われています。

  律法では、アブラハムの子孫のレビ族の中から大祭司を任命しますが、祭司たちには、死があるので、多くの人たちが後継者として任命されます。しかし、イエスは神の誓いによって保証された、永遠に完全な者とされている大祭司なので(7:28)、「御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできに」(7:25)なる、と述べられます。

 8章では、大祭司である御子は、天の父なる神の右の玉座に着き、「人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられる」(8:1)と語られます。祭司たちは、「天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことはモーセが幕屋を建てようとした」ときも同じで、神に示された型どおりに作ったのです、と言っています(8:5)。「しかし、今、わたしたちの大祭司」は、「更にまさった契約の仲保者になられたのです」(8:6)と述べます。

      

     

 〔門〕東に一箇所あるのみ。礼拝する者はだれでもこの門を通らなけれならなかった。神の唯一の門(ヨハネ10章9節)。

②〔大 庭〕                                  a. 祭 壇  門を入った前庭の中央にはいけにえの動物を焼くための祭壇があった。ここでは、毎日絶やすことなく、朝と夕に若い雄牛のいけにえがささげられた。また礼拝する人々はこの祭壇に置くいけにえを持って来なければならなかった。

b. 洗 盤  幕屋で仕える祭司たちが奉仕する前に身をきよめるために、この水を浴び、手を洗った。

③〔聖 所〕                                                a. 聖所の入り口の幕  祭司たちは毎日聖所の入り口の幕を通って、聖所での務めをした。一般の人が中に入ることはできなかった。⇒へブル10章19節。

b. パンの机  イスラエルの12部族を表わす12のパンが、神の恵みに対する感謝として、また神こそ民のすべての必要を備えてくれるという信仰のあかしとして、絶えず神にささげられた。ヨハネ6章35,48節。

c. 燭 台  純金でできた豪華な燭台。窓のなかった聖所の明かりのすべてをこの燭台にたよっていた。しかもその燃料となるオリーブ油は上質なものが用いられた。⇒ヨハネ1章9節、8章12節。油は聖霊を象徴する。

d. 香 壇  聖所の中は、毎朝、毎晩、かおりの高い香がたかれた。⇒とりなしの祈り  ヨハネ17章9節、へブル4章14~16節、Ⅰヨハネ2章1節。

e. 垂れ幕 聖所と至聖所とを仕切っている隔ての垂れ幕。そこには神の臨在の象徴であるケルビムが織り出されていた(創世記3章24節)。垂れ幕を通ることなしに至聖所に入ることはできなかった。⇒神と人との隔てが裂かれた。マタイ27章51節、へブル6章19~20節、同10章20節。

④〔至聖所〕                                           a. 契約の箱  神がまず造るように命じたのはこの箱であった。この箱の中には十戒が刻まれた石の板、マナの入った金のつぼ、芽を出したアロンの杖である。この契約の箱こそ、イスラエルの中心をなすものであった。

b.贖いのふた  契約の箱のふたの両端には二つの金のケルビムが置かれ、その翼は広げられてふたを覆っていた。年に一度だけ、大祭司のみが至聖所に入り、ふたに血を塗ってイスラエルの民の罪の贖いをなした。ふたの上に主の臨在があり、神はそこから語りかけられた。 へブル9章12節、同10章19節参照。

 9章では、著者は最初の契約のもとでの地上の聖所と、新しい契約のもとでの天の聖所を比較して、後者のすぐれていることを主張します。キリストは、「人間の手で造られたものではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです(9:12)。キリストの貴い血がわたしたちの良心を清めて「生ける神を礼拝するようにさせ」ることを告白します(9:14b)。十字架におけるキリストの犠牲が、動物の犠牲の不完全さに比較して完全なものであることが示されています。ここに、神と人との新しい契約関係が、キリストを仲介者として初めてその効力を発揮したと、著者は記します。キリストの十字架の死が、人類の罪を代わって引き受け、自身に負いたもうことを教えます。新しい契約の確立がキリストの血を必要とする理由を述べます。罪の赦しは血を流すことなしにはありえないことを、説いています(9:22)。死をもって罪をつぐなういう事よりも、むしろ聖潔な血をもって神に自己を献げることが「命の贖い儀式」(レビ記17:11)でした。主イエスはすべての人に代わって、「御自身をきずのないものとして神に献げられました」(9:14a)。

  ここからが、本日の聖書の箇所です。

 このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。」(9:23-24)

  <天にあるものの写し>である地上の聖所とそれに属するものは、動物の血によって<清められねばならない>ことを、著者は認めます。しかし動物の血では、心の中の汚れをとり除くことはできません。天の聖所は動物の血よりも<まさったいけにえによ>らねばなりません。かつて大祭司はただ写しに過ぎない地上の聖所で、神の現臨の象徴である香の煙の前に立ったのだが、キリストは天の聖所に入られたのです。今やキリストはわれわれの罪の犠牲として現実に<神の御前に現れてくださった>のです。

                                  

 「また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。 もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。」(9:25-26)

  旧約の大祭司が年ごとに、したがって度々、自分のものでない血を携えて聖所に入るように、新約のキリストはそうなさったのではありません。もしそうであれば、キリストは世の初めから、度々苦難を受けねばならなかったでしょう、著者は仮定して言います。ところが実際は、この新約の時代、キリストはただ一度限り、御自身をいけにえとして献げて、わたしたちの罪を取り除くために、歴史の中に誕生された、と著者は説きます。

 「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」(9:27-28)

 一度限りの人生ということが、人間の死と死後の審判という面から述べます。キリストは死に勝利し、最後の審判を受けることもないのだが、キリストにとっても死は新しい存在に至る入口を意味します。キリストがかつて地上に来られたのは、<多くの人の罪を負うため>でした。それは<ただ一度>十字架の出来事で完成したのです。キリストの犠牲は一度限りでくり返しません。ただ自分を待ち望んでいる人々に<救いをもたらすために>再び来られます。キリストの十字架を信ずる者にとって、最後の審判は救いの完成の時なのです。キリストの再臨の待望がキリスト者の信仰を励まします。

 キリストは大祭司として天の至聖所に入り、自らを犠牲として献げられたことにより、わたしたちの罪は清められ、永遠の救いが完成しました。キリストはその死によって人々が天の聖所に至る道を開かれました。現在キリストは天にあって、人々のためにとりなしておられるのです。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(4:15-16)

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