富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「神の恵みに応える献金」 2コリントの信徒への手紙9章6~15節

2018-09-08 18:46:51 | キリスト教

       ↑ 貧しいやもめの献金(ごくわずかの金)ルカ21章1-4節

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

       日本キリスト教 富 谷 教 会   週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

     聖霊降臨節第17主日  2018年9月9日(日)    午後5時~5時50分 

     礼 拝 順 序

                司会 佐藤 洋子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  16(われらの主こそは)

交読詩編  112(ハレルヤ。いかに幸いなことか)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)2コリントの信徒への手紙9章6~15節(p.335)

説  教   「神の恵みに応える献金」 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 512(主よ、献げます)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

                                  次週礼拝 9月16日(日) 午後5時~5時50分

                                  聖 書  ヘブライ人への手紙9章23~28節

                                説教題  「キリストに贖われた共同体」

                                讃美歌(21) 288 513 24 交読詩編96篇

   本日の聖書 2コリントの信徒への手紙9章6~15節

9:6つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。7各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。8神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。 9「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。10種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。11あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。12なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。13この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。14更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。15言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。

                 本日の説教

 コリント(現在名はコリントス)というギリシアの都市は、アテネ(現在はギリシアの首都)から西南約78キロにあるペロポネソス半島にある都市で、アドリア海とエーゲ海の二つの海に面し、それぞれに港を持つ、通航の要衝であり、商業都市として重要でした。

 コリントは古代ギリシャの都市でしたが、紀元前146年にローマ人によって破壊され、百年近く廃墟になってていました。ローマ共和制時代(B.C.509~44年)の最後の独裁官ユリウス・カエサルによって、紀元前46年にローマの都市として再建されました。ローマ帝国時代(B.C.27~)に、コリントはローマの植民地として再建され、ローマ領土アカイア州(北部を除いた現在のギリシ全土)の首都でした。この地は多種多様な人々が行き交う自由の空気の支配する文化的中心地でもありました。コリントはギリシャ最大の港町で、そこにはかなりのユダヤ人が住んでいました。しばしばコリントは放縦な町と言われますが、それは古代のギリシャの都市の時代のことのようです。

 パウロがこの地を訪れたのは第二回宣教旅行の時で、紀元49年から51年にかけて一年六か月にわたり滞在し、宣教と教会形成にあたりました。コリントでユダヤ人夫婦、アキラとプリスカとの出会ったことは、彼らが皮テントを作る職人で、パウロと同業者であり、熱心なキリスト教徒になったことで、パウロの伝道活動の大きな支えとなりました。教会はまれにみる成長を遂げました。

 コリントの手紙一は、第三伝道旅行中、エフェソに約二年滞在中、パウロが種々の具体的問題の質問に答えた手紙で、おそらく西暦53年から55年に書かれました。

 第一の手紙を送ってから約一年半位い後、テトスの報告を聞いて書き送ったのがコリントの手紙二です。手紙二はマケドニアか、トロアスかで、56年か57年ごろ書かれたものと推定されています。この手紙は、コリントの手紙一とは違って、パウロが経験した苦しみと喜びを中心として、教会に対し自分の使徒職を説明し、擁護し、弁明するために書いた手紙です。パウロは、他のどの手紙よりも、あからさまに詳しく自己を語っているので、パウロがどのような人物だったかをよく知ることができます。

 この手紙二の1章1節には、手紙の差出人、すなわちこの手紙を書き送るのは、「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロ」と記されています。「使徒」とは、「使者、特別な使命を帯びて派遣された者」という意味です。

   1章12節から6章までは、自分に与えられた使徒職の崇高さと偉大さとを論じ、自分が受けた神秘体験を語りました。この手紙は一度に書かれたものではなく、少なくとも複数の手紙を、パウロの死後、コリントでだれかが保存するために、一緒に組み合わせた手紙と思われています。「10章~13章」の部分が、2章4節で言及されている、いわゆる「涙の手紙」の一部ではないかと考えられます。この手紙は、56年か57年頃、マケドニアで書かれたものと推定されています。

     7章では、パウロはコリントの教会の悔い改めを喜びました。7章の終わりには、「わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます。」と記しています。

   8章と9章は、彼らとの信頼関係を確認したパウロは、エルサレム母教会の困窮している信徒に対する「経済援助」に関する文章です。その援助は貧しさを和らげ、また教会の一致のために役立たせようとするものでした。

   パウロは、コリントの信徒たちへの勧めにさきだち、マケドニアの諸教会(フィリピ、テサロニケ、ペレア)の実情を知らせます。それは、「マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵み」(8章1節)です。この「恵み」とは、諸教会が行った「惜しまず施す豊かさ」を指しています。この施しの実践は、くるしい義務の遂行ではなく、霊的賜物と同じように、神がなしてくださった「神の恵み」の業なのです。

 8章では、主イエス・キリストの模範を引いて(9節)、貧しい兄弟たちを自発的に援助すべき動機を示したパウロは、9章では、この慈善の業を、コリントの教会でもやり遂げるようにと勧めます。以前、コリントの教会の人々が約束した贈り物の用意を「渋りながらではなく、惜しまず差し出」してもらうためです(9:5)。

 「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」(9:6-7)

 6節からは募金に対する最後の訴えで、献金する際の正しい精神について述べます。旧約聖書に出てくる思想を引用して、寛大に、気前よく施すことがいかに神の御心にかない、寄付をする本人の真の利益にもつながるものであるかを説得します。まず、献金を種まきにたとえて、まく種の多い少ないによって収穫の量もきまってくると言います。これと同じ内容は、箴言の11:24-25などにみられます。

 施しにあたっては、第一に、いやいや惜しみながらではなく、第二に、強制されてではなく自発的に、第三に、他人との比較ではなく自分の心にきめたとおりに、行わねばなりません。喜んで施す者を神は愛します。「喜んで与える人を神は愛してくださる」という文は、ギリシア語訳の箴言22:8に出て来ることばです。

 「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」(9:8)

 寛大に、気前よく、喜んで寄付する人には、神が豊かに報いてくださるとパウロは言います。神の恵みは満ちあふれ、何の不足もなく、善き業にあふれさせてくださる。神には<おできになる>ということで、神がいつでもかならずそうなさるとは言っていません。功利的で、報酬めあてのみの慈善行為であってはならないからです。

 「『惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く』と書いてあるとおりです。」(9:9)

 9節の引用文は、詩篇112:9からのものです。「貧しい人々にはふるまい与え、その善い業は永遠に堪える」とあります。<彼>とは、「主を畏れる人、主に戒めを深く愛する人」(詩篇112:1)です。「いかに幸いなことか」とこのような人が祝福されています。

 「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。」(9:10)

 10節以下には、とくに施しの結果が記されています。それはまず、施す者に、豊かな報いを与えます。<種を蒔く人に>まく種を与え、自足して食する<パンを糧としてお与えになる>神は(イザヤ書55:10の引用)、施しをする者を、すべてにいよいよ豊かにしてくださる。<あなたがたの慈しみが結ぶ実>、という句は、ギリシヤ語訳のホセア書10:12から採られています。このことからも分かるとおり、パウロは旧約聖書をふんだんに引用して、気前のよい寄付について説明しようと務めているのです。

 「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。」(9:11)

 あなたがたはすべてのことに富む者とされて、惜しみなく施すようになり、パウロたちの働きによって多くの人々が神に感謝をささげるようになります。

「ぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足していものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。」(9:12)

12節では、施し(献金)が、「奉仕」を意味する「レイトゥルギア」で表されています。この奉仕の働きは、聖徒の乏しさを満たす助けとなるばかりではなく、多くの人々がますます盛んに神に感謝をささげるようになります。

「この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。」(9:13)

 13節では、献金が「奉仕」という意味の「ディアコニア」という語で表されています。この奉仕が行われた実際に行われた結果、多くの人が神をあがめつつ神に感謝するでしょう。ここには奉仕の業のもたらす効果があげられています。すなわち、福音の従順な公言(これは「福音を公言することによって福音への従順を示す」という意味にも解釈されます)、神への賛美になるのです。献金の業が、福音に対する従順と福音の宣言にもつながり、神への賛美となるのです。

 「更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。」(9:14)

 献金を受ける彼らは、あなたがたの奉仕が、あなたがたに与えられた神のすばらしい恵みによるものであることを知り、あなたがたを慕い、あなたがたのために執り成しの祈りをするのです。施しは、与える者と受ける者との間に、神にある交わりを強めます。

「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。」(9:15)

 このようなことはすべて神の恵みの賜物です。15節の<言葉では言い尽くせない贈り物>とは、「キリス自身」のことです。8章1節で、気前よく施すマケドニア州諸教会の慈善の業を、<神の恵み>として理解したパウロは、ここでも、コリント教会の献金の業を同じく<神のこの上なくすばらしい恵み>とみなして、感謝しているのです。善き業は、人間の功績ではなく、神の賜物なのです。

 なぜコリントの信徒がこの献金をしなければならなかったのでしょうか。ここでパウロが挙げた理由をまとめてみます。

1.   マケドニヤの信徒の例があったこと(8:1-5)

2.   神が喜んで献げる人に対して報いてくださること(9:6-7)。

3.   彼らのパウロに対する愛(8:7)。

4.   もし失敗するならば恥となること(9:4)。

5.   彼らの寛大な心によって神に感謝が献げられて、神が栄光をお受けになること(9:11-12)。

6.   異邦人キリスト者がユダヤ人キリスト者から霊的な益を受けたこと(ローマ15:27)。

 パウロは「献金」のことを、一度も、「献金」を意味する「ドーラ〔献金〕」(ルカ21:1)という語を用いることをしていません。この語は金銭を表す語です。パウロはこの語に変えて、6通りの語によって、金銭のこととしてではなく、献金を表現し、説明するのです。とかく金銭のことになるとは人は用心し、ケチになることをパウロは危惧したのでしょう。

1.「カリス」(8:6,7,19-訳文では〔慈善の業〕)。これ はもともと「恵み」の意味です。ここでは「献金」を意味する。

2.「ディアコニア」(8:4、9:1)。「奉仕」の意味です。

3.「ハドロテ―ス」(8:20―訳文では〔募金〕)。「豊かさ」を意味する。ここでは「献金」を意味する。

4.「エウロギア」(9:5-訳文では〔贈り物〕)。語源から言えば「祝福」のことです。「気前のよい寄付」を意味しています。

5.「レイトゥルギア」(9:12―訳文では〔奉仕の働き〕)。「公の奉仕」または「礼拝」を意味します。ここでは「献金」のことです。

6.「コイノーニア」(9:13―訳文では〔施し〕)。「交わり」を意味します。

 「献金」の行為が、以上のようにきわめて宗教的な意味あいの濃い用語で表現されています。パウロにとって、「困窮者を経済的に援助する」ことは、「恵み」であり、「奉仕」であり、「豊かさ」を示し、「祝福」を意味し、「礼拝行為」につながり、「交わり」をもたらすものだったわけです。

 「献金」や「慈善の業」が、原語の「カリス」(恵み)の訳語になっていますが、これは献金や慈善の業の根源と根拠とを探るとき、「神の恵み」につき当たるからです。

 パウロは8章9節で、「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵み(カリス)を知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」と言っています。主が貧しくなられた事実が恵み(カリス)であって、この恵みはあなたがたを豊かにするためでした。このキリストの恵み「カリス」にあずかり、「豊かにされた者」として、自分たちもキリストに倣い、貧しい人々のために、みずからを貧しくして仕えようとするの行為が献金や慈善の業となるのです。それは聖霊の働きによるものです。このように「献金」は、神の恵みに対する感謝から、神への愛、隣人への愛の行為として行われ、究極的には神の栄光のためなのです。

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