富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「世を救うキリストの愛」 1コリント13章4~8、13節

2018-09-17 23:02:11 | キリスト教

     老人養護施設でのミニ礼拝と聖餐」

讃美歌(21) 194(神さまは、そのひとり子を)

主の祈り   93-5、

新共同訳聖書 1コリント13章4~8、13節

説  教    「世を救うキリストの愛」 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌   484(主われを愛す)

聖餐式(21)  78(わが主よ、ここに集い)

感謝祈祷

祝祷

       本日の聖書 

 13:4愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。5礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。6不義を喜ばず、真実を喜ぶ。7すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。8愛は決して滅びない。……13それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

    説 教

 13章1節から3節にかけて、使徒パウロは、「もし愛がなければ」、どんなすばらしいことを実現しても、その人の生涯は無益だ、と断言します。コリントの教会の人々が誇っていた霊の賜物も、愛がなければすべて無に等しいと、断言するのです。愛が伴うことによって、すべての霊の賜物は正しく用いられるのです。

  ここには、真実の愛とはどのようなものか、またどのようなものでないかが教えています。最初にあげた二つの愛の性質は、「忍耐強い」と「情け深い」です。この二つの愛は、パウロがキリストを通して知った愛を表しています。「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことを知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのか」(ローマ2:4)とパウロが言うように、父なる神の愛であり、御子キリストの愛です。

 <忍耐強い、情け深い>とは、人の言動に依って受けた害に対して、怒ることなく、あやまちを責めず、優しいおもいやりと好意的な態度で接し、相手が自分の悪いことに気づくことを根気よく待つという寛大さを意味しています。

ちょとしたささいなことが、愛が欠けているために、過大視されてゆるしにくいものになってしまうことがあります。

このような場合は、神がキリストを通して私たちに示された深い愛を思うべきです。神の忍耐と慈愛は、神のさばきに価いする者に対して怒りをもってのぞむのを控え、満ちあふれる慈愛を注ぐのです。このキリストの忍耐と愛に満たされて、キリストの愛の心をもって、人々に接するのです。「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても(不満をいだくことがあっても)、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。…愛を身につけなさい」(コロサイ3:13)とパウロは勧めています。神の赦しと愛を体験している者として、私たちはこの神の慈愛に応えて人々に情け深い者となりましょう。

 <ねたみ>は、他人に対してどこまでも自己中心的な関心をよせます。<ねたみ>は、人の心の奥底に潜む最も醜い罪です。<ねたみ>は自分よりすぐれたり、恵まれたりしている者に対して、うらやみ、くやしがり、憎らしく感じます。人をうらやむねたみは、分裂と争いに引き起こしてしまいます。コリントの教会内で起きた党派争いの原因も「ねたみ」でした。<ねたみ>は他人を傷つけ、自分の霊性と人格を低下させます。

どのようにしたなら、ねたみに対して打ち勝つことができるのでしょう。神の愛、キリストの愛が、ねたみに打ち勝つのです。キリストの愛は自己放棄的な愛です。キリストは、御自身を捨てられてすべてを私たちのために与え尽くされました。私たちが、もしこの与え尽くす愛に満ちあふれているなら、ねたみは私たちの心に入る余地はありあせん。なぜなら、ねたみは自分よりすぐれたり、恵まれたりしている人からものを奪おうとする心が働くことに対して、愛は与えようとしては働くからです。愛は人をねたまないのです。「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(ローマ12:10)というパウロのすすめを実践するなら、<ねたみ>の心は消えて行きます。「ねたみ」に打ち勝つのはキリストの愛であり、聖霊の働きによるのです。

 <自慢しない>は、実際以上に自己を良く見せようとしないことをいいます。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」(フィリピ2:3)なさいと、パウロは勧めています。

 <高ぶらない>は、自分よりも社会的位置の低い者に対して、差別し見下す態度をいいます。高慢は罪の根源であり罪の本質です。高慢(高ぶり)は、自我から生まれる心のおごりです。高慢が、ねたみと共に、コリントの教会の分裂の原因でした。

高慢に打ち勝つ道は、神の御前に罪を赦された者として、自分を低くすることです。そのとき、聖なる愛が心に満ち、高慢の心は、取り払われるのです。パウロは「罪人の頭である」という自覚を持っていました。

 <礼を失せず>は、実際は恥ずべき行い、ふさわしくない振る舞いをしないことです。相手を重んじ、礼儀に反しない行動をすることです。

<自分の利益を求め>ないは、「自分の益ではなく多くの人の益を求め>(10:33)るということです。利己主義でないことです。パウロは「だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」(10:24)と勧めています。

 <いらだち>は、感情的に激して怒りやすくなることです。自分の意に反するものの存在とか、中傷、悪口などによって感情が高ぶり、腹を立てて、興奮して気が荒くなることです。<いらだたない>は、急にかっとなって心の平安を失うようにならないことです。いらだちは短気の特徴です。人間の罪に対して主イエスは怒られましたが、個人的に悪口を言われたり、ののしられたりしたことに対しては怒られませんでした。

 <恨みを抱く>とは、自分に加えられた損害を数え挙げて他人を恨むことです。<恨みを抱かない>とは、人の悪を心の中にとどめず、執念深く考えず、赦し忘れることです。

 <不義を喜ばない>とは、神の正義を喜び、不義と邪悪を排してすべてのことに耐えぬく生き方です。主イエスの不正を喜ばない態度は、私たちの不義をあがなうために、身代わりとなって十字架の処刑を受けて死んで下さったことによって、最もよく表れています。

 <愛は真実を喜ぶ>とありますが、<真実>は原語ではアレセイア(真理)と言う意味の語です。「真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました」(ヨハネの手紙三、4)とあります。キリストの教えに従って、愛に歩むことが、真理に歩むことです。<愛は真実を喜ぶ>とは、愛を擬人化していますが、愛は私たちが愛に歩むこと、すなわち、真理に歩むことを喜ぶのです。

 愛は、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」とあります。徹底的に自分を捨て、他人のために生きる姿がえがかれています。ここにはキリストの示す愛がえがかれています。

 「愛は決して滅びない」とは、真実の愛は永遠である、ということです。

終末到来までの間、いつまでも存続し続けるのは信仰と希望と愛です。愛が三つの中で最も大いなるのは、啓示の賜物と違い、また信仰と希望とも違い、永久に持続するからです。信仰と希望は、神から与えられた人間の特質です。しかし愛は、「神は愛です」(ヨハネ一、4:16)とあるように、神の本質であり、永遠性を有するのです。私たち、キリスト者の愛は「神から出るのです」(同4:7)。神が永遠に生きておられるので、愛も永遠に存続するのです。人生で最も偉大なものは愛なのです。パウロは愛がすべてのものの基礎にあること、<最高の道>であることを私たちに教えています。

 キリストによって示された愛こそが私たちに必要であり、この愛を、家族も、この世も求めていることを知らなければなりません。この愛に欠けるために、多くの不幸な出来事が起こっているのです。マザー・テレサが私にくださった手紙には「すべては御祈りすることから始まります。愛を神様に求めることがなければ、わたしたちは愛の心を持つことが出来ません。」と書いてあります。私たちは、世を救うキリストの愛を人々に伝えなければなりません。

 讃美歌21の512番「主よ、捧げます」の4節にあるように、主に、私の愛も、知恵も力も、宝も、すべて献げましょう。私のうちに、あなた(イエス様)に住んでいただき、みむねのままに、用いていただきましょう。私のうちに、イエス様に住んでいただくなら、これにまさる恵みは何もありません。心のうちにイエス様に迎えて住んでいただくなら、神を愛し、隣人を愛する満ちあふれる愛に満たされるのです。

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