富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「大祭司イエスの執り成し」 ヘブライ人への手紙4章14~16

2018-09-29 02:51:16 | キリスト教

          ↑ 至聖所には十戒の石の板を納めた箱が置かれ、その上には一対のケルビムがが顔を贖いの座に向けて、向かい合って置かれました。(出エジプト記25:17ー22)

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      日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

       聖霊降臨節第20主日  2018年9月30日(日)   午後5時~5時50分 

                            礼 拝 順 序

                                                司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 155(山べにむかいて)

交読詩編  103(わたしの魂よ、主をたたえよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)ヘブライ人への手紙4章14~16(p.405)

説  教   「大祭司イエスの執り成し」      辺見宗邦牧師 

祈 祷                 

讃美歌(21) 495(しずけき祈りの)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

               次週礼拝 10月7日(日) 午後5時~5時50分

               聖 書  使徒言行録5章27~42節

               説教題    「忍耐」

               讃美歌(21) 532 510 24 交読詩編37

   本日の聖書 ヘブライ人への手紙4章14~16節

4:14さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。15この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。16だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

    本日の説教

 今日の聖書には、「大祭司」という言葉が出てきます。そもそも「祭司」(「コーヘン」כֹּחֵן)は、「主の前に立って、仕える(申命記10:8)者ーつまり、神と人との間に立つ仲介者を意味します。その祭司たちの長が、大祭司です。

  モーセが律法を与えられる前は、父親(族長)が一家の祭司となっていました。しかし律法を与えられた後は、レビ族、すなわちアロンとその子どもたちが専門的な祭司職を担うようになって行きました。

 神はシナイ山で、イスラエルの民を指導するモーセに十戒という律法を授け(出エジプト記20:1~17)、その後、モーセに、神が住むための幕屋と聖所を建設することを指示しました(同25:8)。また、神に仕える祭司としてモーセの兄アロンとその子ら四人(ナダブ、アビフ、エルアザル、イタマル)を指名しました(同28:1)。この後、祭司階級は、大祭司、祭司(幕屋の仕事)、レビ人たちの三階級となり、ほぼすべてをレビ族が占め、「大祭司」はアロンの子エルアザルの家系の者で、その最年長者が世襲で「大祭司」を継承することになりました(同29:44)。旧約聖書中、「大祭司(ハコーヘン・ハガドール)」の文字が最初に出てくるのは、レビ記21:10や、民数記35:25からです。

 旧約聖書でなぜ大祭司が存在していたのかというと、人は罪あるままでは、聖なる神様の前に出ることはできません。そこで、神は大祭司を選び、聖別しました。大祭司が年に一度動物をほふり、その血を携えて幕屋と呼ばれる所に入って行き、だれも近づくことができない、契約の箱が置いてある至聖所に入り、その契約の箱に動物の血をふりかけてイスラエルの民の罪の贖いをしました。それによってイスラエルの民の罪は赦され、神の前に出て礼拝することができたのです。このように大祭司は、神様と民との間に立って、民の礼拝を成り立たせるための執り成しをしたのです。しかし、大祭司自身も完全ではなく、罪の贖いのためにささげる動物のいけにえも完全なものではありませんから、完全な罪の贖いを成し遂げることはできなかったのです。

 今日の聖書では、神の御子イエスがこの大祭司であると言われています。神の子イエス様が人となって来てくださいました。イエス様は、神なる方ですから、完全に罪のない方です。そのイエス様が、御自身を完全ないけにえとしてささげてくださいました。それによって、神様と私たちの間を阻んでいた罪の問題が完全に解決され、神様と私たちの関係が完全に回復され、私たちは、聖なる者として、恐れることなく神様の御前に出ることができるようになったのです。イエス様こそ、まことの大祭司なのです。イエス様だけが大祭司としての役割を全うすることができる方なのです。神様と人との間をとりなし結びつける仲介者の役割を完全に成し遂げることができるのは、イエス様だけなのです。

「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。」(4:14)

  <もろもろの天を通過された>という表現は、旧約の大祭司が聖所の幕を通って至聖所に入られたことと対比して、イエスの場合は、地上の聖所の幕ではなく、もろもろの天を通過された偉大な大祭司であることを言い表しています。当時、「天」は、何層にもなっていると考えられていました。つまり、神と人との間には、何層にもなっている天があると考えられていたのです。しかし、神の子イエス様が、神様のもとから、もろもろの天を通って私たちのもとに下って来てくださり、私たちのために十字架にかかってくださいました。そして、よみがえって、もろもろの天を通って神様のもとに上って行かれ、神の右の座について大祭司の務めを果たしておられるのだというのです。このイエスは、「人々のために執成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことが」おできになる方です(同7:25)。ヨブ記に出てくるヨブも、「わたしのために執り成す方、わたしの友、神を仰いでわたしの目は涙を流す」(ヨブ記16:20)と仲保者イエスを待ち望んでいました。

  すべての人間の罪を贖い、救うための大祭司である神の子イエスが、わたしたちに与えられているのだから、この「イエスは神の子である」という<信仰をしっかり保とう>ではありませんか、と今日のみことばは勧めています。

「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(4:15)

 この大祭司イエスは<わたしたちの弱さに同情できない方>ではありません。<わたしたちの弱さ>とは、肉体的な弱さや、病気、道徳的な弱さ、宗教的な弱さのすべてを含んでいます。<同情>するとは、「共に苦しむ」という意味の語が用いられており、他者の苦しみの中に自らも入り込み、その苦しみを自分の苦しみとして負う、という意味です。イエス様は、上から「かわいそうに」と見ている方ではなくて、私たち一人一人の弱さ、悲しみ、苦しみを、一緒になって味わわれ、一緒に背負ってくださり、私たちの祈りを御自分の祈りとして一緒に神様に祈ってくださる、そういうお方なのです。天におられたキリストが、肉体をとってイエス様としてお生まれになってこの地上を歩まれたということは、私たちと共に苦しむため、私たちの苦しみを御自分の苦しみとして引き受けるためだったということなです。イエス様は、神の御子であるのに、私たちと同じ人となって私たちのもとに下ってきてくださり、私たちと同じように試みに会われました。罪を犯さないということ以外は、すべて私たちと同じようになってくださったのです。それどころか、私たち以上の苦しみを経験されました。裏切られ、誤解され、むごたらしい十字架につけられ、想像できないほどの痛みを味わわれたのです。だからこそ、イエス様は、私たちの痛みも悲しみも弱さも理解し、私たちの立場にたってとりなしをしてくださるのです。

 「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(4:16)

 <恵みの座>とは、旧約聖書では、神殿の至聖所に置かれた契約の箱の蓋を意味しました。そこは償い(贖い)の座と呼ばれました(ヘブライ9:5)。箱の中には掟(十戒)の石の板が納められ、箱の上には一対の黄金のケルビムが顔を償いの座に向けて、向い合って置かれました。ケルビムはケルブの複数形で、人面または獣面」で翼をもった旧約聖書の天使的存在で、神の玉座や聖なる場所を守護すると信じられていました。神は箱の蓋の贖いの座の上から臨み、アロンや大祭司に語りました(出エジプト記25:17ー22)。

  しかしここで言われている「恵みの座」は、神であられる主イエスが座ったおられる場所を指します。ちょうど一人一人のキリスト者が祭司が聖所に近づくように、天の聖所に近づくように勧められているのです。だから、イエスさまを信じ、その憐れみにすがり、恵みを受け、イエス様におりにかなった助けをいただくために、大胆にイエス様に近づこうと、呼びかけているのです。

 14節に「偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから」とあります。「イエスが与えられているのですから」と訳されている言葉は、直訳すると「イエスを持っている、有している」となります。イエス様が聖霊として私たちの内に住んでくださっているので、私たちは、どこにいても、イエス様と共にいて、イエス様と親しく語らい、赦しの恵みを味わい、助けを受けることができるのです。

  パウロは、ガラテヤ2章20節で「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」と記しています。私たち一人一人の内にキリストが生きておられるのです。

 「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(コリント一、6:19-20)わたしたちのうちに大祭司イエスがおられる恵みを覚え、神の栄光を現す者となりましょう。 

コメント (1)
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