富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「十字架の勝利」ヨハネによる福音書12章20-36節

2024-03-12 22:16:30 | キリスト教

 ↑ 「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです。」12章21節       (フィリポを囲んでいる三人のギリシア人)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

受難節第5主日 2024年3月17日(日)午後2時~2時50分

       礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                邉見 順子姉

讃美歌(21) 225(すべてのものらよ)

交読詩篇    22:23-32(わたしは兄弟たちに)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書12章20-36節(新p.192)

説 教     「十字架の勝利」   辺見宗邦牧師

祈 祷

聖餐式      78(わが主よ、ここに集い)

讃美歌(21)   502(光のある間に)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)    27(父・子・聖霊の)

         次週礼拝 3月24日(日)午後2時~2時50分

         聖 書 ヨハネによる福音書18章1~40節

         説教題   「十字架への道」

         讃美歌(21)531 296 27 交読詩篇 64 

  本日の聖書 ヨハネによる福音書12章20~36節

20さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。21彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。22フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。23イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。24はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。25自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。26わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

27「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。28父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」

29そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。 30イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。 31今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。 32わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」 33イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。 34すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」 35イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。 36光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」

 本日の説教

 過越祭の六日前の土曜日に、ベタニアに住むマリアがイエスに高価なナルドの香油を塗る出来事がありました。その翌日の「棕櫚(しゅろ)の日曜日」のことが、12章12-19に記されています。来週の礼拝は、その棕櫚の主日の礼拝です。

 今日の聖書の記事は、棕櫚の日曜日の翌日の月曜日か火曜日の出来事になります。いよいよイエスが十字架への道を歩む最後の一週間の記事に入ります。

 ギリシア人がイエスに会いに来たのは、その翌日の月曜日か火曜日の出来事になります。おそらく場所は神殿の異邦人の庭と思われます。

 「祭りのとき」とは一週間続く過越祭のことです。多くのユダヤ人たちがエルサレムに上って来ました。その中に数人のギリシア人がいました。彼らはおそらくユダヤ教に理解と同情を持つ神を畏れる異邦人と思われます。それはイエスにとって福音が異邦の民にも及ぶという新しい時の始まりを告げる出来事でした。

 ギリシア人たちは直接イエスのところへ行かないで、「ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポ」に「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と仲介を頼みました。フィリポに頼んだのは彼の名がギリシア的な名だったので、話しかけやすかったからかも知れません。フィリポもアンデレに話し、アンデレとフィリポが連れ立ってイエスのもとに行き、イエスに伝えました。

 今や福音はユダヤ民族の壁を破って、広くギリシア世界にまで伝えられる新しい時がきたのです。イエスは答えました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と言われました。

 栄光という言葉は、神が神であられることが分かり、神の御姿が栄光に満ちることです。イエス自身の姿もまた神に等しい者であり、栄光に輝くということです。ここで言われている「栄光をうける」とは、イエスが十字架で死ぬことを意味し、その十字架の死を通してイエスが再び天のみ座につくことを意味しています。これまで何回か「私の時はまだ来ていない」と繰り返し語られてきました(2:4、7:6、7:30、8:20)。しかし、今その時が来たとイエスは言われました。それはイエスの公生涯の終わりの時であり、完成の時です。

 一粒の麦は、そのまま、とって置かれたなら一粒のままにとどまる。しかしこれが蒔かれて地に落ちると、この一粒の麦自体は死ぬが、ここから芽が出て多くの実を結ぶようになる。

 ここではイエスが十字架について死ぬことによって多くの者たちが永遠の命を与えられ生かされるという逆説的真理が語られています。農耕生活を営み、特に小麦の栽培をしていたパレスチナ地方の人々には非常に分かりやすいたとえでした。しかしそこにイエスの死の深い意味がたとえの形で宣言されています。人々は人の子にこの世の勝利を期待し、イエスは十字架の死による勝利者であることを明らかにされたのです。イエスにとって栄光の時とは、人々のために自らを捧げ、仕える時でした。

 「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」「自分の命を愛する者」という時の「命」は、生まれながらの自然的生命です。そしてこの生命によってのみ生きようとする者は、その生命を失うことになる、というのです。

 これは、この世に生かされている命を愛し、感謝することを否定している教えではありません。ここで言われている<自分の命を愛する者>とは、神様からいただいている命、神様から頂いているすべての恵みや賜物を私物化し、神様から離れて、自己中心の生き方をする者のことです。この世の価値だけを追い求め、そこに人生の意味や充実を追い求める生き方です。それは快楽や名誉などだけではなく、教養や芸術など内面的・精神的価値をも含みます。そのような価値に自分の命の充実を求める者は、死によってすべてを失います。昨年膵臓がんで87歳で亡くなった元東京都知事石原慎太郎さんは、余命を告げられ、「死ぬのはつまらない」と語られました。「死んだら虚無」という言葉でした。

 「永遠の命に至る」という時の「永遠の命」は、神の国の生命であり、霊的生命です。<この世で自分の命を憎む者>とは、神様から離れて自己中心に生きようとする罪を離れ、イエスに仕え、イエスに従う者のことです。

 主イエスは自己中心の生き方から、神に仕え、神に従う神中心の生き方へと転換することを要求しておられるのです。しかしながら、人は誰でもあくまで自己を主張してやまない自己中心の心があり、地上的な自分の生活への執着があります。神中心の生き方へ転換しようとすれば、そこに内的な葛藤が始まります。それは自分の意志や努力では解決できません。イエスに従っていた弟子たちも、イエスの十字架の死のとき、皆イエスを捨てて逃げました。復活のイエスに出会い、聖霊の降臨を受けて再び立ち上がったのです。

 星野富弘さんの「花の詩画集」の中にこういう詩があります。「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」。

 多くの人がこの詩に感銘を受け、「いのちより大切なもの」って何だろう、といろいろ考えています。しかし私たちにはそれは明白です。いのちより大切なもの、それは主イエスの父である神との交わりであり、神の愛です。それを知らずに自分で自分の命を愛し、大切にし、保とうとしている間は、生きることは苦しいことです。大切な命を失ってしまう恐れと不安がいつもそこにあります。しかし、神が、その独り子をお与えになったほどに自分を愛して下さっていて、独り子を信じる者に永遠の命を得させて下さることを知ったなら、生きていることは本当に嬉しいこととなるのです。

 人間はより大きな神の恵みを受けることによってのみ、神中心の生きかたができるのです。主イエスの場合は父なる神と密接な愛で結ばれ、祈りの対話があり、必ず復活させてくださるという全能の神への信頼がありました。私達の場合は活ける主イエスとの「生命の交わり」に入れられ、聖霊の力をいただくことによってのみ、罪の自分を憎み、罪に打ち勝ち、イエスに従うことを喜ぶことができるのです。生きていることだけでなく、肉体における人生を終えて主のもとに召されることもまた、同じように嬉しいこととなるのです。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなた(父なる神)と、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(ヨハネ17:3)」というイエスの祈りのことばがあります。イエスを受け入れたときから、死と罪の支配からの解放が始まり、永遠の命の歩みが始まり、最後に永遠の命に至るのです。

 私達に今最も必要なことは、「いのちより大切なもの」を知ること、主イエスの父である神の愛を知ることです。そのために主の日の礼拝があります。礼拝を守り、主イエスに従い、仕えていきましょう。「そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」と26節にあります。主イエスと共に生きている私たちを父なる神が本当に大切にしてくださることを、私たちは礼拝において体験していくことができるのです。

 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」この27-36節はヨハネ福音書のゲッセマネの園と言われる箇所です。「今、わたしは心騒ぐ。」イエスも人の子として、心の葛藤を経験されたことが、ここに示されています。死の時を直前にした人の子イエスの叫びです。<自分の命を愛する>心と、神のみ心に従おうとする心の葛藤で、イエスの心は動揺したのです。イエスは今父なる神との祈りを通し、霊的交りを経て、自ら十字架の道を決断するのです。

 <父よ>という呼びかけはイエス御自身の口から神に対してなされています。イエスと神との親密な父子関係が現わされています。「何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか」と死を避けたい思いがありました。<この時>とは十字架の死の苦しみの時です。「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」という自覚と決意が生まれます。<このことのために>とは、人間の罪の身代わりとなって十字架の死を遂げることです。神のみ旨がそこにあるなら私は喜んで父の意に従い、十字架を負おう、とイエスはついに決断したのです。<父よ、御名の栄光を現してください>とは、神の偉大さ、すばらしさを現してくだい、という祈りです。私達の祈りもまた、「わたしを御救い下さい」という自然な、あからさまな祈りと共に、「み名があがめられますように」と神にみ心を問い、ゆだねる真実な祈りを続ける者でなけれなりません。

 すると、天から声が聞こえました。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」それはイエスの十字架への道が、神の定められた歩みであり、神のみ旨にかなうものであることを確証しています。そしてそれはまさに「人の子が栄光を受ける時」(12:23)だったのです。イエスにたいする父なる神の声は、大きな励ましをイエスに与えました。このような励ましに支えられてイエスは使命を果たされるのです。

 そばにいた群衆はこれを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは、「天使がこの人に話しかけたのだ」と言いました。イエスは、この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、まだイエスが天から来た者であることが分からない人たちのためだと言われます。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。「今こそ」は終末の時、栄光を受ける時が来たことを強調しています。

 「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(12:33)「上げられる」の第一の意味は、イエスが十字架の上にあげられるということと、死人の中から上げられるという第二の意味があります。イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのです。すると、群衆は「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」と言葉を返しました。 

 イエスは「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」と言われました。

 光と闇との対比においてイエスの存在、あるいは働きが示されています。イエス御自身が栄光を受ける時が来た、従って地上に存在する時間はいま少しの間である。この間に光であるイエスを信じ、弟子たちが光の子となり、イエスが彼らの中に共に住むようにし、光の中を歩くようにせよと言うのです。つまりイエスを受け入れて信ずるようになれということを勧めているのです。

 イエスの十字架の死は、サタンの勝利の時ではなく、それによってサタンが裁かれ、すべての者が罪の支配から解放されて、主のもとに引き寄せられる栄光への時です。だから、やみに追いつかれないように、光なるイエスが生きている時に、光を信じ、光の子とされることはすべての者に求められているのです。

 主イエスに従うわたしたちも、主イエスの祈りに学び、絶えず神に祈りつつ、聖霊の励ましと力をいただき、神のみ栄えを現しましょう。

 

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