富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「『見失った羊』のたとえ」 ルカによる福音書15章1-7節

2021-06-27 04:44:19 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

聖霊降臨節第6主日   2021年6月27日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」 (エフェソ3・16-17)

      礼 拝 順 序

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 218(日暮れてやみはせまり)

交読詩編   23(主は羊飼い)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ルカによる福音書15章1-7(新p.138)

説  教  「『見失った羊』のたとえ」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                      

讃美歌(21) 200(小さいひつじが)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏   

〇 オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、申し込みください。ズーム設定担当は、斎藤美保姉です。

                       次週礼拝 7月4日(日)午後5時~5時50分    

                       聖 書 ルカによる福音書12章16~20節

                       説教題 「『愚かな金持』のたとえ」

                       讃美歌(21) 197 456 27 交読詩編 143  

本日の聖書 ルカによる福音書15章1-7節

 15:1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 15:2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 15:3そこで、イエスは次のたとえを話された。 15:4「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 15:5そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 15:6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 15:7言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

              本日の説教

 「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。」(15章1-3節)

徴税人や罪人が皆>、イエスの話を聞こうとして近寄てきました。<徴税人>は、徴税人の頭(19:2)のような一定区域の徴税権をローマ政庁やヘロデ王家から買い取った富裕な徴税請負人の下請け人のことで、徴税現場で、上部に支払う「規定以上のものを取り立てる」(3:1)ことから、「奪い取る者、不正な者」(18:11)として、ことにユダヤを支配するローマのために税金を集めることから、同胞のユダヤ人から憎まれ、軽蔑され、社会から除外されていました。

<罪人たち>も社会から除外されていた点では同じで、詐欺師をはじめ、すべての犯罪人だけでなく、道徳的に品行のいかがわしいと見做される者たちで、高利貸、賭博師、遊女、羊飼いなどです。羊飼いは、一定の頭数を請け負って遊牧飼育に従事する零細な請負人を意味し、他人の土地へ不法に羊を追い込んだりする不届き者という社会的通念と蔑視が一般化していました。このような者たちが<皆>、イエスのもとへ来ていました。

 すると、<すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。>

 5章27-30節では、レビという徴税人の家でイエスが徴税人たちと盛大な宴会をしていたとき、ファリサイ派の人々や律法学者たちが、イエスの弟子たちに、「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と不平を言い出しましたことが記されています。ファリサイ派の人々は神の戒めを固く守り、自分たちこそ正しい人間であうと自負していた人達で、他人を見下げている人達です。罪人と席を同じくすることは、自分をけがすことだと考えていました。彼らの多くはイエスの敵でした。彼らは宗教の外面的な形式に注意を払う偽善者であり、心の中は傲慢で、へりくだりの思いもなく、真の神を知りたいという願いも全くありませんでした。彼らは貧しい人々に重荷を負わせ、助けようなどどとは少しも考えませんでした。

ここでは、非難の矛先が直接イエスに向けられています。そこでイエスは、次のたとえを話されました。

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」(15章4節)

イエスは、<あなたがたの中に>と聴衆に呼び掛けて、羊を飼う人がいて、こんな立場に立ったら、このようなことをするではないか、と言って話を進められます。羊飼といえば、当時の人にはきわめて身近な人たちでした。羊百匹を持っているのは、ありふれた羊飼のことのようです。

羊が一匹いなくなると、羊飼は残り全部を放っておいて、その一匹を捜しに行ってしまう。当時のだれもがとるであろう対処の仕方です。

羊飼の頭の中は、見えなくなった一匹の羊を<見つけ出すまで>、さまよっていそうな所を、山を越え、谷をわたり、草木を分けて捜しまわり、引き返そうとしません。

「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」(15章5-6節)

そしてやっと見つけた時は、嬉しくてたまらないので、さまよって疲れ動けなくなった羊の前肢をたばねるようにして、自分の肩にかついで家に連れ帰ります。

           

 彼は黙っておられず、友達や近所の人たちまで呼び集めて、<見失った羊を見つけたので喜んでくれ>、と言います。この招待には、祝宴が予定されています。いなくなった一匹のため、他の九十九匹を野原に残して捜し回るのは賢明ではないが、失われたものへの心配と愛着はそれを超えます。

「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(15章7節)

「罪人」は、ギリシア語で「ハマルトロー」で、「罪」は「ハマルティア」と言い、本来は「まとはずれ」という意味があり、的を射はずすときに使われたもので、そこから「罪過」の意味にも用いられます。神は御自身の愛を受け入れる存在として人間を創造し、自由な意志を与えられました。しかし人間は神の愛にそむき、自らの意志によって、あるべきでない方へとさまよい、的をはずれてしまいました。それが「罪」なのです。罪(ハマルティア)はキリスト教の罪悪を示しています。人間は自分の欲望によって神から離れ、死と罪が支配する絶望の世界に迷いこんだのです。

失った羊を見つけることは、「悔い改める一人の罪人」のことです。もちろんたとえですから、神は九十九人を放っておくという結論はできないが、失ったものへの心配を印象づけています。

 羊飼とその羊との関係、羊飼としての主と民との関係は、旧約の多くに箇所で言及されています。エゼキエル書34章11-12節,23節には、「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。・・・わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる」とあります。イザヤ書53章6節には、「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた」とあります。羊は神の子らを表すとともに、迷い出て失われた罪人を表します。

 「見失った羊のたとえ」のクライマックスは、羊を見つけた時の羊飼いの「喜び」です。羊飼は重い羊を、自分の肩にかつぐほど、うれしくてたまりませんでした。神は愛である方です。その愛にそむいた人間を探しておられるのです。罪に陥った一人が悔い改めて神のもとへ帰ることが、神の側ではどんなに大きな喜びであるかが、巧みに説明されています。「大きな喜びがある。」イエスを満たしているのは、天の喜びです。神の王座の前で燃え上がるような喜びです。その罪人を神の国へ招くためにこそ、わたし(イエス)はこの世に来たのである、ということが説かれたのです。

<悔い改める必要のない九十九人の正しい人>には二つの解釈が可能です。「自らを正しいと思っているファリサイ派の人々、律法学者たち」か、または、すでに見つけられている罪人たち、心もイエスのもとにある人々です。「悔い改める必要のない人」とは、自分自身、悔い改める必要がないと考えているファリサイ派の人々を表しています。この人々も、いま一緒に喜ぶことが求められています。

<悔い改め>とは、イエスに見つけられ、イエスのもとに戻ることであり、罪人の側からはイエスを受け入れるということであります。

この大きな喜びは、実は更に大きな悲しみがその前にあったからこそなのです。羊飼いは、残された九十九匹のことも、あるいは自分のことさえも忘れしまうほど悲しみに満たされていたに違いありません。あとのことなど忘れてしまって、夢中で捜しに出かけて行ったのです。この悲しみこそ、神が人に対して持っておられる愛の悲しみに他なりません。預言者イザヤは神の言葉として、「わたしは子を養い育てた、しかし彼らはわあしにそむいた。牛はその飼主を知り、ろばはその主人のまぐさおけを知る。しかし、イスラエルは知らず、わが民は悟らない」(イザヤ1:2-3)と言っています。

神が自分で造られ、そして育ててこられた人類は、自分の創造者を忘れてさまよい歩いています。そのために神は、この羊飼のように、人々が帰って来るのを悲しみをもって追い求めておられるのです。この羊飼いこそ、主イエスです。この羊飼いによって、主イエスは神の愛をしめしておられます。どのように小さく貧しい者でも、見捨てられ、失われたような者でも、主イエスは愛し、捜し求めておられるのです。

 「わたしは迷える羊ではない。残りの九十九匹の羊の中にいるのだ」という人がいるでしょうか。悔い改めを必要としない人間などは一人もいないのです。

わたしたちは、わたしたち一人一人を必死に捜し求める神に気づくことです。神から愛され、求められている自分の価値を認めることです。そして、自分が神に立ち帰ることが神の大きな喜びであることを、このたとえ話から聞き取りましょう。

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