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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
復活節第4主日 2024年4月21日(日)午後3時~3時50分
礼 拝 順 序
前 奏 辺見トモ子姉
司 会 辺見宗邦牧師
讃美歌(21) 481(救いの主イェスの)
交読詩篇 118:1-18(恵み深い主に感謝せよ)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書21章15-23節(新p.212)
説 教 「ペトロへの委託」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 483(わが主イェスよ、ひたすら)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
次週礼拝 4月28日(日)午後3時~3時50分
聖 書 ヨハネによる福音書15章18-27節
説教題 「迫害の予告」
讃美歌(21)402 343 27 交読詩篇 106
本日の聖書 ヨハネによる福音書21章15~23節
15食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。16二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。17三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」
本日の説教
復活された主イエスはガリラヤ湖畔で七人の弟子たちに現れ、朝食を与えられました。それは日毎のパンと聖餐を示すものでした。
食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われました。他の福音書では<バルヨナ・シモン>、つまりヨナの子シモンと言われていますが、この福音書では<ヨハネの子シモン>と,呼んでいます。<この人たち以上に>というのは、この人たちがわたしを愛している以上にという意味です。このお言葉は、他の弟子たちとの競争をあおるような問いかけではなく、この問いの背後には、「わたしはあなたをだれにもまして愛している」という、ペトロへの主イエスの愛が込められています。主イエスに誰より以上も愛され、多くの罪を赦された者は、誰よりも以上に主を愛する者とされるのです。しかし、神の愛は差別のない愛なので、特にペトロだけを優先して愛しているということではありません。神は、それぞれの人の特性に応じて、それぞれの人をだれにもまさって愛しておられるのです。主イエスのペトロへの問いは、主イエスがペトロの愛を確かめ、親密な愛の関係を結び、新たな任命をペトロに託すためであったと考えられます。神であられるイエスを愛すということは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ22:37)とあるように心からなる愛がペトロに求められてしかるべきなのです。
主イエスの三度にわたる「わたしを愛しているか」との問いは、言わば主との愛の契りを結ぶことです。ここに確固とした主イエスとの永続的結合関係を与えられるのです。
ペトロは主の問いに、<はい、わたしはあなたを愛しています>と答えずに、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と控えめに答えています。「わたしはあなたを愛しています」とペトロがなぜ答えなかったのかということについては、ペトロがイエスを明らかに三度知らないと裏切っているので、このような間接的な言いまわしをしたと思われます。
最後の晩餐の席で、ペトロは。「あなたのためなら命を捨てます」(ヨハネ13:26)と言っています。マタイによる福音書には、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言っています。ルカ福音書には、「主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しています」と言っています。復活のイエスとの出会いを経験する前のペトロの信仰は人間的な意気込みによるものであり、イエスとの間に永続的結合関係ができていませんでした。ペトロはイエスを裏切り、捨てるという挫折と破綻を経験した後、復活の主と出会い、主イエスは十字架の贖いにより、罪深い自分を赦し、新たな任命を与えてくださることを知ったのです。もはや信ずるということも、自分の側からの決断によるものではなく、キリストの霊によって神から賜る恩恵であることを知ったのです。
ペトロはもう以前のように、他の人と比べるようなことをせず、心砕かれて「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です。」と答えるほかありませんでした。もはや自分の確信の力、自分の意志の強さに頼るのではなく、主イエスが知っていてくださればいいと、全てを主に委ねる告白へと、変えられたのです。<あなたがご存じです>という言葉は、すべてを知る復活のキリストに対するペトロの畏敬の念を感じさせます。そのようなペトロに主はご自分の大切な羊を任せようとされるのです。イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と命じました。
二度目にもイエスは、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と言われました。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われました。
三度目にイエスは言われました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」主イエスから三度も繰り返し問われたペトロは「悲しくなった」とあります。
三度繰り返して念を押されることによって、ペトロは自らが三度イエスを知らないと言ったことを思い起して悲しくなったとも受け取れます。しかしそれだけではありません。もっと大きな主イエスの深い愛に触れたのです。罪を犯して、もう弟子と呼ばれるにふさわしくないペトロに、主イエスの方から近づいて来てくださり、一緒に食事をし、そして過去の罪を責めるのではなく、今も変わらずに愛してくださり、自分の大切な羊を任せようとしていてくださる、その愛、赦し、信任といった、主の大きな愛に触れて主イエスがそれほどまで、心を傾けてくださることに感激したのです。同時に、主を裏切った罪だけでなく、これまでいかに自分が罪深い者であるかを知らされ、そのような自分を主は愛し、身代わりのいけにえとなってご自分の身を父なる神に献(ささ)げ、ご自分の血によって罪から解放してくださった神の子であられる方の苦痛と痛みを覚えて悲しくなったのだと思います。その悲しみは、ペトロの心に主の愛が満ちたことによって起こったものです。
イエスが三度も「わたしを愛しているか」と問われたのは、ペトロに対する主イエスの不変の愛を示し、どんなものも引き離すことのできない愛の関係で結ばれていることを確信させ、このイエスの愛に応えて生きる新たな決意をもって、主の与える使命に生きる者とするためでした。
ペトロは、イエスの三度目の問いに答えて、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と言いました。「何もかもご存知です」という言葉の中には、ペトロのこれまでのすべての罪を御存知である主に対して、ペトロの悔い改めが言い表されています。
主イエスはペトロに、「わたしを愛しているか」と問い、自分に対する愛を確認したあと、一度目は「わたしの小羊を飼いなさい」と言われ、二度目は「わたしの羊を養いなさい」と言われました。この異なる二つの表現は羊飼いの種々の働きを表していますが、それほど違って理解する必要はないと言われています。主イエスは、御自身を「わたしは良い羊飼い」(ヨハネ10:11)と言われました。良い羊飼いは、羊のために命を捨てると言っています。主イエスは、御自分の羊を、ペトロに託したのです。
その任に、主イエスを三度知らないと言ったぺトロが堪えることができるでしょうか。主イエスは、まことのぶどうの木とその枝のたとえで、「人がわたしにつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と話されています。主イエスは羊を飼う務めをペトロに託すに当たって、主に対する愛を問い、主と固く結びつくようにされたのです。この主イエスを愛すところで、主イエスはすべてを与えてくださるのです。主イエスを愛する者は、主イエスの羊を愛さないではいられないのです。そこに、愛の交わりが形作られ、主イエスの愛によってうち立てられるキリストの体としての教会が建っていくのです。
「わたしを愛しているか。」この問いは、私たちにも向けられている、主イエスの問いかけです。神がわたしたちに求められるのは、わたしたちが神を愛すことと、神が愛しておられる一人ひとりの隣人を、自分と同じように愛すことです。隣人を愛すことも、主イエスを愛することによって、可能となるのです。愛を追い求めましょう。主イエスを愛する愛を、主イエスの羊を愛する愛を、隣人を愛する愛を増し加えていただきましょう。
「わが主イェスよ、ひたすら祈りもとむ、 愛をば。増させたまえ、主を愛する愛をば、愛をば。」(483番1節)