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富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「終わりの日の裁きー主に祝福される人とは」 マタイによる福音書25章31-46節

2021-02-27 21:29:23 | キリスト教

       ↑  ミケランジェロの「最後の審判」1541年 フレスコ画  縦13m70㎝ 横12m

    ローマ・バチカン宮殿のシスティ―ナ大聖堂の祭壇画。

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380、FAX:022-358-1403

                  メールアドレス munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp 

日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

受難節第2主日  2021年2月28日(日)      午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

                 礼 拝 順 序

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 299(うつりゆく世にも)

交読詩編   91(いと高き神のもとに身を寄せて隠れ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書25章31-46節(新p.50)

説  教   「神に祝福された人達」  辺見宗邦牧師

祈 祷                                                          

讃美歌(21) 475(あめなる喜び)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                                                     次週礼拝  3月7日(日)午後5時~5時50分    

                                                     聖 書  ヨハネによる福音書3章16節

                                                     説教題  「神はその独り子を」

                                                    讃美歌(21)194 27 交読詩篇 86  

本日の聖書 マタイによる福音書25章31-46節

 31「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 32そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、 33羊を右に、山羊を左に置く。 34そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 37すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 38いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 39いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 40そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

41それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。 42お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、 43旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』 44すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』 45そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』 46こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

    本日の説教

マタイ福音書には、24章から25章にかけて、「世の終わり」についての教えが、まとめて記されています。

24章3~14節、世の終わりはいつ起こるのか。終末の徴について。

15~28節は、苦難の日々の後に、人の子(イエス)が来る。

29~35節は、あなたがたが、これららのことを見たら、その日が近いことを悟りなさい。

36~44節は、その日、その時は、天の父だけが知っている ので、目を覚まして、準備をしていなさい。

45~51節は、忠実な僕と、悪い僕の例にたとえて、予想しない日に起こる終末に備えるように教える。

25章1~13節では、「十人のおとめ」のたとえで、花婿を待つ、五人のおとめたちのように、その日にそなえて、用意をととのえ、目を覚ましていなさいと教えます。

 14~30節は、「タラントン」のたとえで、主人から預かっ財産を有効に管理した忠実な良い僕と、怠け者の悪い僕の 例のあげて、旅に出かけた主人が帰ってくる終末の日までの過ごし方を教えます。

そして、今日の聖書の箇所が、最後の部分で、キリストが「すべての民を裁く」という標題が付けられています。世の終わりには、人の子であるキリストが現われて、栄光の座に着き、すべての人が裁かれると言うのです。

31~46節では、イエスが来臨されるとき、栄光の裁きの座に着かれます。そしてイエスは、羊のグループと山羊のグループに分けられます。羊のグループには天の国を継ぐようにと宣言されます。それは彼らが愛の業を行ったからです。しかし、そのように言われた人々は、身に覚えがのないことだったので、いつそのようなことをしたのかとイエスに尋ねます。するとイエスは、自分の兄弟たちにしたことがご自身になされたことだと言われました。

さらにイエスは、山羊のグループに向かって永遠の火に入れと宣言されます。その理由は、イエスの兄弟たちが困っていたとき、愛の業を行わったからです。正しい人は永遠の命に入るが、そうでない人には滅びしか残されていないのです。この記事はマルコ福音書にもルカ福音書にも、同じような記事はありません。

イエス・キリストは神の身分であられたが、この世界に来られたとき、神の栄光を捨て、へりくだり、人間と同じ者となられました。しかし、世の終わりに再び来られときには、人の子であったイエスは、神の栄光をおび、天使たちを従えて栄光の座に王として着座されます。全世界の人々が集められ、最後の審判が行われます。旧約聖書では、終末の裁き主はいつでも神です(イザヤ66:18、ヨエル2:1-12、ゼカリア14:5)。しかし、新約聖書では、裁き主をキリストとしています。

 羊飼いが、昼間は羊と山羊を一緒に放牧するが、夜間は分けて囲いに入れるように、キリストは集められた全国民を左右に分けます。

王として着座されたキリストは、右側に区別された人たちに、「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と言われます。神の国を継ぐという特別な祝福です。

その祝福が与えられる理由は、イエスのためになされた六つの愛の行いによります。あなたがたは、わたしが①飢えていたときに食べさせ、②のどが渇いていたときに飲ませ、③旅をしていたときに宿を貸し、④裸のときに着せ、⑤病気のときに見舞い、⑥牢にいたときに訪ねてくれたからだ、と言われます。

すると、祝福され、正しいとされた人たちは王に答えます。主よ、いつわたしたちは、そのようなことを行いましたか、と、自分たちには身に覚えのないことだと、とまどいの言葉をのべます。

良い行為をしたかどうを、最後の審判で、裁きの尺度とすることは、信仰によって義とされるというパウロの教えとは矛盾するように思われるかもしれないが、主イエスは、「主よ、主よ」と言うものが皆、天の国に入るわけではない」(7:21)と教えています。律法から解放された信仰者にとっても、キリストに結ばれて歩み、聖霊の恵みを受けて、神の御心である愛の行為をすることが求められているのです。

主イエスは、山上の説教の中で、「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな、それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は報いてくださるであろう」(6:3,4)と教えています。そこには当然のことをしているのであれば、その行為を誇らないように、という教えです。

また、ルカ福音書には、「主人の僕が命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべきことをしたに過ぎません』と言いなさい」(ルカ17:9、10)と主イエスは教えています。

キリスト者は、神の律法を行うことによっては義とされない罪人であることを知った者です。神の戒めを完全に実行しいうという思いがあっても、自分の望むことは実行できず、望まないことをするからです。神に受け入れていただくには、ただキリストの十字架の死による、罪のあがないによって赦される救いを信じる信仰によって救われるのがキリスト者

 キリスト者です。キリスト者は、自分の努力や力によって神の求める愛を行うのではなく、キリストが与えてくださる聖霊の力によって、愛の行いをするのです。実行した愛の業は、自分の誇りとはなりません。自分を通してキリストがなさったくださっているからです。

「主よ、いつわたしたちは、そのようなことを行いましたか」との彼らの疑問に、イエスは答えます。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしたことだ。」

この「兄弟である最も小さい者」とは誰のことを指すのでしょうか。それは主御自身が「わたしの兄弟」と呼ぶすべての者です。貧しく、苦しみの中にある者、それはイエスの兄弟だ、と言われます。そこまで深く、主は私たちと一体となっておられるのです。ここに記されている六つの人間の苦しみ、悲しみを、主イエスご自身も経験されました。いや、それ以上の十字架の死に至るまで、主イエスは父ななる神のみこころに従いました。わたしたちの悲しみで、主がご存知でないものは何ひとつないのです。それゆえ、この悲惨と苦悩にある者への、小さな愛の奉仕でさえ深く喜んでくださるのです。

もう一つ考えられることは、「わたしの兄弟である最も小さい者」とは、通常の経済的貧困や困窮者でなく、実は福音の伝道者を意味したことです。イエスに送りだされて、すべての民に伝道に出かけた弟子たちは様々な困難に出会いました。この伝道者を受け入れる者は、キリストを受け入れるのです(10:40)。彼ら(この小さい者)に水一杯でも与える

ものは祝福を約束されるのです(10:42)。弟子たる者は自己を低くし仕える者とならねばなりません(23:12)、「最も小さい者」とは、このような弟子たちです。彼らは投獄され、飢え渇き、みすぼらしい身なりをし、定住するところのない生活を続けながら福音を伝えました。それゆえ、彼ら、伝道者をどう迎えるかが、終末の裁きに決定的に関わることになります。21章33~43のぶどう園の農夫のたとえでは、律法学者たちユダヤ教徒がイエスを受け入れなかったことが裁かれていますが、25章の今日のたとえでは、キリスト教の伝道者への態度次第によって「すべての国民」が裁かれるのです。

まだ、問題が残っています。イエスは18章5節において、「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われています。イエスが自分を子供たちと同じに見なされるのは、信仰のゆえではなく、子供たちの弱さのゆえなのです。従ってマタイ25: 40の「兄弟たち」は、広い意味で用いられているのです。したがって貧しい者たちや困窮している者たちは、彼らが誰であれ、イエスの兄弟たちまた姉妹たちと見なされなければなりません。

とすると、異邦人によって行われる良い行いも、イエスとの関係を示すものと見做されます。そのことを知っていようといまいと、正しい異邦人は、イエスがわたしと見做されている人々を助けることによって、イエスに仕えていることになります。まさに彼らは「匿名のキリスト者」なのです。

それから王は、左側にいる人たちに「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」と言われました。

その理由は、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ」と言われました。

そう言われた人達は、「主よ、いつわたしたちは、あなたがそのような状態を見て、お世話をしなかったでしょうか」と答えました。

そこで王は、「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」と言われました。こうして、正しくない者は、永遠の罰である死を受けるのです。一方、正しい人たちは、永遠の命にあずかるのです。

       

 ローマのヴァチカン市国にあるシスティーナ大聖堂の正面の祭壇には、ミケランジェロが描いた最後の審判の壁画があります。その画の中央には、栄光の座に座った体が堂々としたキリストが、右手をあげて正しい者と正しくない者を裁いています。両手の手の平と、両足の甲に釘跡が、胸の左指先に傷跡が見えます。ミケランジェロは最後の審判者として、復活したイエスを、十字架につけられたイエスの姿で描きました。キリストは人間の罪を自ら負われて、十字架の死の裁きをうけられました。罪人を、正しい者として、天国に迎えるためでした。最後の審判の時も、主イエスは、すべての者を天国に迎えたいために、終わりの日の裁きについて話されたのです。最後の晩餐の絵も、「のろわれる者」でなく、「祝福される人」になるように、という教えがこめられています。それは、むずかしいことではありません。イエス様による罪の赦しを信じて受け入れ、イエス様と一つにされて、聖霊のめぐみをいただき、イエス様を愛し、人を愛す生活をすることです。

キリストの再臨の時を憶測することは空しいことです。キリスト者にとっては、主キリストとお会いすることが最大の望みです。この世の旅路を終えるとき、「み国にいたりて、み前に伏す日、み顔のひかりを仰がせたまえ」(讃美歌21:475番「あめなる喜び」4節)と、主の御前に立つことが喜びなのです。主がいつ来られても、主の与える平安を喜び、感謝をもって迎えるのです。キリスト者にとって、その時以上の幸いはありません。

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