富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「主がこの場所におられるとは!」 創世記28章10~22節

2019-06-26 09:34:40 | キリスト教

     ↑ Michael Willmann(1630-1706)「ヤコブの夢の状況」(1691年)

  2019年6月26日(水)15時~15時40分

    「ミニ礼拝と聖餐」   場所 仙台市、養老施設シエアホームみどり

讃美歌(21) 214(わが魂のひかり)

主の祈り   93-5、

新共同訳聖書 創世記28章10~22節

説  教   「主がこの場所におられるとは!」 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌   434(主よ、みもとに)

聖餐式(21)  72(まごころもて)

感謝祈祷

祝祷

           本日の聖書 

 28:10ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。 11とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。 12すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。 13見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。 14あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。 15見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」 16ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」 17そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」 18ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、 19その場所をベテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。 20ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、 21無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、 22わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」

            本日の説教

 アブラハムの子イサクには、双子の兄弟が生まれました(創世記25章19節以下)。先に生まれた子は赤かったのでエサウと名付けられ、後から生まれた子は、兄のかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けられました。この二人は性格の違う兄弟でした。エサウは「巧みな狩人で野の人」だったのに対して、ヤコブは「穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした」とあります。ヤコブは、兄のかかとをつかんで生まれてきたように、人を押しのける狡猾な人だったようです。父イサクはエサウを愛しました。狩りの獲物が好物だったからでした。母リベカはヤコブを愛しました。親の偏愛を受けて二人は育ちました。

 父は、兄のエサウを跡取りしようと考えていました。しかし、ヤコブは、腹のすいたエサウから、一杯の煮物と引き替えに、長男としての権利を自分のものにしました。しかし、誰が跡取りとなるかは、父イサクが誰に祝福を与えるかにかかっていました。老い先短いことを意識したイサクが、エサウに祝福を与えようとしていました。ところが、ヤコブを気に入っていた母リベカが、イサクの目がかすんでよく見えないのをいいことに、ヤコブにエサウの着物を着せ、エサウになりすまさせて、父イサクの祝福を代わって受けさせてしまったのです。ヤコブはこうして、長男としての権利を奪っただけでなく、エサウに与えられるはずだった祝福をも奪い取ってしまったのです。エサウは、父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになった。そして、心の中で言った。「父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる」と、エサウはヤコブに殺意を抱くようになりました。それを察知した母リベカは、ヤコブを守るために彼をハランへと旅立たせることにします。その口実は、ハランにいるリベカの兄ラバンの娘を嫁に迎えるためということでした。リベカは夫に、ヤコブを嫁取りのために旅立たせようと提案しました。リベカは、「わたしは、ヘト人の娘たちのことで、生きているのが嫌になりました。もしヤコブまでも、この土地の娘の中からあんなヘト人の娘をめとったら、わたしは生きているかいがありません(27:46)」と夫に告げました。エサウがヘト人の娘を妻として迎えたため、彼女たちが、イサクとリベカにとって悩みの種となっていました。リベカは、アブラハムの神、ナホル(アブラハムの弟)、その子ベトエルの信仰のもとで育ったヤコブの伯父ラバンの娘とヤコブを結婚させようとしたのです。  

 ヤコブは父イサクをも騙したが、父はこれを赦し、祝福して送り出しました。こうしてヤコブは、ベエル・シェバの父の家からパダン・アラムのラバンの所へ旅立ちました。パダン・アラムはアラム人(古代シリヤ北部に住む民族)の平地の意味で、ベエル・シェバから725キロもある、徒歩で一か月を要する遠い地です。今日のシリヤの国境を越えたトルコの地です。ラバンは母リベカの兄です。この旅は、兄が父から受けるはずの跡取りの祝福まで奪ったので、兄エサウの憎しみを買い、殺意を逃れて、母の勧めで伯父ラバンの許に身を寄せる逃亡の旅でした。 

 一人でベエル・シェバを立ったヤコブは、後にベテルと呼ばれる場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜の過ごすことにしました。ベエル・シェバはパレスチナ南部の町であり、ヤコブの父イサクがそこに井戸を掘り当てて家族と共に住んでいた所です。ヤコブにとってここは父の家、故郷なのです。しかし今ヤコブはその故郷を離れて、シリアのはるか北方、ユーフラテス川の上流にあるハランへと旅をしているのです。これまでの生活は、家督相続の争い、兄弟との不和、人間的な争いに満ちていました。表向きは嫁探しの旅ですが、実は逃亡の旅でした。人里離れた誰もいない夜空の下で、石を枕にして寝るヤコブの姿は哀れです。このヤコブの姿は、人間関係における破れと挫折に苦しむ人間の姿です。この時のヤコブの心境はどのようなものだったでしょうか。希望のない孤独な荒れ野の旅です。神様の祝福を求めるあまりに、兄の心を踏みにじるようなことをしたヤコブは、石を枕にしながら自分のしでかしたあやまちを反省したに違いありません。

   ヤコブの寝たベテルの風景

 その夜、ヤコブは夢をみました。旧約聖書では、夢という手段を用いて、神様がヤコブと出会われた出来事でした。ヤコブに神が近づき、かわらに立ち、語りかけられました。「先端が天にまで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりして」いました。前の口語訳聖書ではこの「階段」は「はしご」となっていました。「ヤコブのはしご」という言葉がここから生まれました。旧賛美歌320番「主よみもとに近づかん」の3節では「かよう梯(ばし)(梯子)の上より」とあり、賛美歌21に434番では、「天よりとどくかけはし(架け橋)」とあります。この階段は地上から天に上っていく階段ではなく、神の住む天から地に下ろされた階段です。この階段は、天と地とをつなぐものです。神様の世界と人間の世界とをつなぐ架け橋がここにある、ということを、ヤコブはこの夢において体験しました。ヤコブはこの夢で、自分がいるこの場所が神様の御臨在される所であることを知らされたのです。

 ヤコブは、アブラハム・イサクと続いた神様の祝福を、父から受けながら、約束の地を負われた身でした。ヤコブはもう自分には神様の祝福はもうないのではないかとさえ思ったことでしょう。しかし、そのようなヤコブに対して、神様は夢を見せ、語りかけてくださったのです。

 ヨハネによる福音書1章51節に語られています。「更に言われた。『はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる』」。「神の天使たちが昇り降りするのを見る」、これはまさにヤコブがあの夢で見たことです。「人の子の上に」とあります。「人の子」とは主イエス・キリストのことです。ヤコブが見たあの階段は、主イエスを指し示しているのです。主イエスが天と地の、神様と私たちの間の架け橋です。

 ヤコブは主なる神のご臨在と神が語りかけてくださったみ声を聞きました。「見よ、主が傍らに立って言われた。『わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。』」神様からも見放されているという思いがあったヤコブに神が現れ、語りかけて下さったのです。そして、カナンの土地を与えるという約束を神様からいただいたのです。「あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。また、あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなって世界に広まり、地上の氏族はすべてあなたとあなたの子孫とによって祝福に入る。」

 そして、神が共にいて下さり、守って下さるという約束を与えてくださったのです。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこに行っても、わたしはあなたを守り・・・あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」

 ヤコブは眠りから覚めて言いました。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」ヤコブの見た夢は正夢でした。神は、夢をとおして、ヤコブに語りかけてくださったのです。神からも人からも遠く離れていると思っていた野外のヤコブに、神が現れてくださったのです。ヤコブは朝早く起きると、自分がまくらにした石を立てて、油を注いで聖別しました。その所の名をベテル(「神の家」の意)と名付けました。神がこれからもヤコブと共にいてくださるなら、この地を礼拝の場所とし、必ず収入の十分の一をささげると約束し、請願を立てたのです。

 ヤコブにとって、体を横たえたルズの荒野は、「神の家」「天の門」となりました。私たちにも、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」ということがあります。私はそれを、入院中の病室で経験しました。

 主イエスがこの地上にこられて救いのみ業を完成してくださったことにより、地上のすべての場所がベテルとなりました。神は地上のどこにでも偏在され、支配されておられるのです。私たちが神から最も遠く離れたとこに置かれていると思えるような所、最も落ち込み気落ちしているときにも、私たちが最も弱い、貧しい状態にあるときにも、主イエスは共にいてくださり、力を与え、祝福してくださるのです。

 ヤコブは荒れ野で野宿している時に、神様のご臨在を経験し、「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」と叫びました。このように、たとえあなたが知らなくても、主はいつもあなたの側にいてくださり、あなたの心に愛をもって宿ってくださるのです。

 

     

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