富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「兄弟愛と隣人への愛の勧め」ローマの信徒への手紙12章9~21節

2023-08-02 18:57:54 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第11主日 2023年8月6日(日)  午後5時~5時50分

       礼 拝 順 序                    

                 司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 540 (主イェスにより)

交読詩編    122(主の家に行こう、と人々が言ったとき)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) ローマの信徒への手紙12章9~21節(新p.292)

説  教 「兄弟愛と隣人への愛の勧め」   辺見宗邦牧師                                          

讃美歌(21) 532(主イェスこそわが望み)

献 金  

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019

もしくは、メール:munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp  に連絡ください。

         次週礼拝 8月13日(日)  午後5時~5時50分

         聖 書  テサロニケの信徒への手紙一:1~10節

         説教題 「主の来臨に備える」

         讃美歌(21) 403 494 27 交読詩編 121:1-8    

 本日の聖書    ローマの信徒への手紙12章9~21節

12:9愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、10兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。11怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。12希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。13聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。14あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。15喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。16互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。17だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。18できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。19愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。20「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」21悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

 本日の説教

    パウロの書いた手紙は新約聖書中に十三通あり、新約聖書全体の三分の一強を占めています。その十三の手紙のうちで最も重要な、また有名なのが、「ローマの信徒への手紙」です。それはパウロの神学的な思想が組織を立てて堂々と述べられているからです。この手紙が書かれたのは、彼の宣教活動の最後期に属する紀元56年頃、ギリシャのコリントに三か月間滞在していた時であろうと推定されています。パウロはローマの信徒とはほとんど面識がありません。ローマの信徒の集会は、おそらく最初はローマ在住のユダヤ人の間にもたらされたキリスト教が次第に異邦人に及び、パウロの手紙執筆時には異邦人を主体にして成立していたと思われます。このような未知の教会に手紙を書いた動機は、この未知の教会を訪問するに先立って、自己紹介をすることにあったと思われます。パウロはこの手紙で自己の福音理解を整理して述べたのです。パウロは、福音の中心を<人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による>(3:28)という「信仰義認」においています。

    この手紙を大きく分けると、二つの部分に分けられます。1章から12章までの教義の部です。1-8章で、神の力・神の義としての福音とは何かを述べます。すべての人が罪を犯したので、死がすべての人を支配しました。しかし、イエス・キリストの正しい行為によってすべての人が正しい者とされ、命を得ることになったことを述べます。わたしたちは、かつては罪の奴隷でした。善をなそうという意思があっても、肉の弱さのために、それを実行できないからです。神はわたしたちの「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世におくり、その肉において罪を罪として処断されたのです(8・3)。」それは肉に従って歩むのではなく、霊に従って歩む者としてくださるためでした。わたしたちはキリスト・イエスに結ばれて、罪から解放されて、神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいるのです。罪の支払う報酬は死ですが、聖なる生活の賜物は永遠の命であることを述べます。 

    9-11章で、イスラエルと全人類の救いとしての福音とは何かを説きます。

   12章以下は実践の部です。12章から15章13節にかけては、福音によって救われたキリスト者の生き方、実践に関する種々の教えがなされます。

    12章1-2節で、パウロは信仰によって生きる人間の生活を、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとしてささげ」なさいと勧めます。体とは単なる身体ではなく、人格としての自己です。この献身の生活こそ、なすべき霊的な礼拝です、と説いています。この神と人との正しい関係に基づいて人と人との関係が規定されます。

   12章3節以下の具体的な倫理的すすめ、「~しなさい、~行いなさい」という命令の言葉は、人間にとってただ単に、自分で満たすことができるような要求というのではなく、自分の力で従うことができる命令ではありません。それはキリストによる救いにあずかった者が神の霊を内に宿す者とされ、霊の最大の賜物である愛に生きる者とされた各人の生活の仕方を、勧めとして語られているのです。

 今日の聖書の箇所である12章9節から13節にかけては、教会内での兄弟愛について記し、14節から21節では、一般社会でのキリスト者の態度を説きます。

  「愛には偽りがあってはなりません。」(12:9a)

   神からの最高の賜物である愛に生きるキリスト者のまことの愛は、「偽りのない愛」でなければなりません。これは命令ではなく、あなたがたは偽りのない愛に生きることが出来る」という励ましを語っているのです愛は好き嫌いを超えるものであり、自分の自己満足のためではなく、愛の対象へのひたむきな熱意と献身を伴うものであり、これがキリストの恵みの指し示す愛なのです。

   「悪を憎み、善から離れず」(12:9b)

    愛は単なる同情ではありません。絶えず、「何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれることであるか」を見分けなければなりません。この善と悪とを識別する目と心は、信仰によって与えられるのです。

   「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」(12:10)

  「兄弟愛」というこの語は親しい家族的な愛情を意味する言葉ですが、パウロはこの言葉をもって、キリスト者同士の主にある兄弟姉妹の愛、こまやかな愛情と友情を表現したのです。その交わりは<相手を優れた者と>するという、相手を尊敬し、大切にするのです。相手に何か特別な取り柄があるからという理由からでなく、その人が、自分の仕えるべき隣人として神から与えられているから尊敬するのです。

  「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。」(12:11)

  「怠らず励み」は、教会での他者への奉仕における活動的な働きを指しています。聖霊によって自分の心が火のように燃やされることによって生じる働きです。キリスト者の奉仕は、自分の虚栄心や名誉心を満足させるためのものではなく、イエスがそうであったように、たがいに主の僕として仕えるのです。

  「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」(12:12)

    終末の時を目指し、主の来臨の近いことを望むことによって、この今の時を喜びをもって生きるキリスト者は、苦難に耐えることができるのです。この希望を固くし、その希望に支えられて、苦難をのりこえさせる力は、たゆまず祈り続けることによって与えられるのです。「たゆまず祈る」ためには、自分が生ける神の前で、神と共に生きていることを意識していることが必要です。そのことが、信仰者の希望と喜び、そして忍耐の土台なのです。

  「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。」(12:13)

 貧しい信徒たちを自分のこととして助けるように勧めています。特に、やもめ、孤児、圧迫された人などのキリスト者がいたことを指しています。持つ者が持たない者に対して、一方的にあわれみの手をさしのべるのではなく、共に神の恵みにあずかるためです。旅人、特に寄留の他国人を愛して、食物と着物を与え一夜の宿を貸すということは、申命記以来のイスラエルの民の基本的な倫理の一つでした(申命記10・18-19)。<旅人>を受け入れることは、特に教会間の交流のため、宣教活動のために、緊急かつ不可欠な信仰者の務めでした。

 「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」(12:14)

 この勧めの言葉には、明らかにイエスの山上の説教の中の言葉「敵を愛し、迫害する者のために祈れ(マタイ5・44)が反映しています。イエス様の生き方に倣って祈りなさいと命じられています。それは人間の努力では不可能なことです。そのように神に命令されなければ、私たちは人を呪う思いから解放されて祝福を祈ることはできないからです。

 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(12:15)

 他人の不幸や悲しみを共に担うことはむずかしく、むしろ逆に、他人の失敗を見てわが幸せを喜ぶということになりやすい。更に難しいのは、他人の幸いや喜びを、自分のこととして共に喜ぶことです。他人の成功は羨望や嫉妬の的となりやすい。共に喜び、共に泣く、ということは、単に心理的な共感に終わらず、兄弟として真に共に生きることを命じています。神に命じられなければ、私たちは共に生きることから逃げようとしてしまうのです。

  「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。」(12:16)

    16節はフィリピ2:6以下を想起させます。そこでは十字架の死に至るキリストの謙遜が<思いを一つ>にする根拠として述べられています。「神から賜った恵み」の下で初めて、思いを一つにすることが可能となるのです。<身分の低い人々と交わりなさい>は、低い人々との、兄弟として連帯することが示されています。キリストは、罪人、低い者、しいたげられている者の友となりました。人間を有用な者とそうでない者、強者と弱者に分けて評価し、差別することは、人間蔑視の高慢の罪を犯すのです。

   「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」(12:17)

     普通の人は悪を受けると悪をもって仕返しをします。しかしキリスト者は「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」と勧めます。<善を行う>とは、これまで語られたことでは、祝福することであり、喜びも悲しみも共にすることであります。悪をもって悪に報いれば、それはまた反撥を生み、際限なく争いが続きます。平和を実現するためには、憎しみが憎しみを生む悪循環をどこかで断ち切らなければなりません。

   「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」(12:18)

  「できれば」とは、<可能であれば>、ということであり、「せめて」は<少なくとも>の意です。あながたの方からはすべての人と平和に暮らすことを追い求めなさい。終末を間近にひかえて無用な摩擦を避け、すべての人と平和に暮らすようにと勧めています。平和に達する真の道は赦しの愛です。

  「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。[『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる]と書いてあります。」(12:19)

    悪の力に対する報復は、自分で復讐しないで神の怒りに任せ(申命記32:35)ることです。神の怒りとは神の裁きのことです。この世界の支配者は神であり、その最終的判断も神がなさるのです。人が神に代わり、神に先立って判断することは正しくありません。復讐は神に委ねられるべきものなのです。しかしキリスト者は無抵抗であれ、何をされても我慢しろというのではありません。復讐するのではなく、悪を行う者の悔悟と教育のために、警察力や、裁判や、懲役などの実刑を求めることも神に委ねる手段となるのです。

 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」(12:20)

 敵に対して取るべき態度も、良くしてやることなのです。敵・味方を固定的に考えず、敵をも飢え渇き、欠乏している者として飲み食いさせることによって、「彼の頭に燃える炭火を積む」(箴言25:22)ことになるのです。このユダヤのことわざは、人に心からの自責の念を抱かせる、との意です。神がその人を導いて、自分の罪に気づかせ、悔いさせてくださることを意味しています。これこそキリストが自ら模範を示された、愛によって敵を友と変える方法です。

 「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(12:21)

    悪に負けてはなりません。悪の連鎖を断ち切り、善の連鎖を始めなければならないからです。善によって悪に勝つこの方法は、神のなさることであり、人間が自分の力でするのではありません。人間の力では不可能です。どんな人も生まれながらにわがままで、自分さえよければよいと考える自己中心的な人間でした。ところが、キリストによって示された神の愛によって捕らえられ、神の愛をいただくことによって、罪人である者たちが愛の人に変えられるのです。こうしてキリストを救い主として信じる者たちが召し集められているのが教会です。愛こそキリスト者の生活を特徴づけるものです。主イエスが今、私たちと共にいて下さり、喜びも悲しみも共有して下さっています。その主イエスの恵みと支えによって私たちも、悪に負けることなく、善をもって悪に勝つ歩みへと導かれています。この世の人々が最も必要としているものはキリストによる罪からの救いであり、キリスト・イエスの愛に基ずく生活です。

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