富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「悪(霊)と戦うキリスト」 マルコによる福音書3章20~30節 

2018-02-23 15:53:01 | キリスト教

                  悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやすイエス(マルコ5・13)。    絵の説明(大きな羽が見える悪魔が二人逃げていく。狂人の頭の上に見える悪魔は逆さになって豚の方へ落ちていく。狂人の右肩下に豚が四、五頭見えます。老人はゲラサの住民。裸の男は汚れた霊に取りつかれた男。ゲラさの住民が裸の男のそばにいます。)

                                   

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

               日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

    受難節第2主日  2018年2月25日(日)  午後5時~5時50分

礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 528(あなたの道を)

交読詩編   18(主よ、わたしの力よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) マルコによる福音書3章20~30節(新p.66)

説  教    「悪と戦うキリスト」  辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌(21)   377(神はわが砦)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏 

                    次週礼拝 3月4日(日) 午後5時~5時50分

                   聖書 マルコによる福音書8章27~33節 

                   説教題  「受難の予告」

                   讃美歌(21)497 511 24 交読詩編31篇

    本日の聖書 マルコによる福音書3章20~27節

 3:20イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。21身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。22エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。23そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。24国が内輪で争えば、その国は成り立たない。25家が内輪で争えば、その家は成り立たない。26同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。27また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。28はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦され。29しかし、聖霊を冒涜する者は赦されず、永遠の罪の責めを負う。」30イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

     本日の説教

 主イエスは、ガリラヤ湖周辺の町々村々を巡回して、神の国は近づいたと宣べ伝え、そのしるしとして、病人をいやし、悪霊を追放し、嵐を静め、死人を生き返らせ、奇蹟を行われました。主イエスが行った奇蹟は、イエスが自然、病、罪、悪霊、死に対して支配する権威を持つ神の子、メシヤ(救い主)であることを示すものでした。イエスの時代は、重い病気や身体障害は、悪霊の仕業だと考えられていました。

 「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。」(マルコ3・20)

 ガリラヤ湖の北岸の村落カファルナウムのシモン(後のペトロ)とアンデレの家(1・29、2・1)と思われますが、イエスがそこへ帰ると、群衆が再び集まってきたので(3・7)、イエスと12人の弟子たち(3・13-19)は、食事をする暇もないほどでした。しかし、イエスが罪人と一緒に食事をしたり、安息日の律法を破って病を癒しているとして、ファイサイ派の律法学者たちは、イエスをどのようにして殺そうかた相談を始めました(3・6)。

「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。」(3・21)

<身内の人たち>は、31節で言及されている「母と兄弟たち」(3・31)でしょう。イエスの身内の人たちは、イエスのうわさを聞いて、イエスを幼い時からよく知っているだけに、「イエスは気が変になっている」と思ったのでしょう。彼らはイエスを取り抑えて家へ連れて帰ろうとやって来ました。

  イエスの家族にとっては、あまりにも身近なイエスについて、その真の姿を理解することは困難でした。イエスは長男だったので、早く世を去った父ヨセフの職業(大工)を継ぎ、一家の生計を支えなければならない責任を負っていました。そのイエスが、ヨハネの荒れ野の洗礼が始まると、家族を捨てて単身ヨハネの許に行き、ヨルダン川で洗礼を受けました。その時イエスは神の霊に満たされて、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の声を聞き、「神の子」、メシアとしての自覚を与えられ、内に宿る神の霊の命ずるままに行動されるようになりました。その時以来、イエスはもはやナザレに住む家族の一員ではなく、ただ神の意志のみに従う「神の子」となられたのです。イエスが決して気違いでなかったことは、群衆が気違いを慕って集まるはずはないからです。しかし、イエスの家族はイエスの活動を精神的に常軌を逸脱した結果と考えて、イエスを受け入れることができなかったのです。イエスの家族はイエスを彼らの監視のもとにおき、イエスの行動を抑制しようとして、ナザレからカファルナウムに出て来たのです。

 「エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。」(3・22)

 イスラエルの主都エルサレムから律法学者たちが下って来ました。当時、イスラエル人社会で起こっているすべてのことを監督しているのが、律法学者でした。彼らはイエスを、「あの男は、悪霊の頭、ベルゼベルに取りつかれている。悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていました。

<ベルゼベル>とは、本来<バアル・ゼベル>「君主バアル」、「家の主人」(マタイ10・25)の意です。「バアル」は、カナン地域を中心に各所で崇められた嵐と慈雨の神です。カナンの地に入植してきたヘブライ人たちは、ペリシテ人のバアル・ゼブルを邪教神とし、「エクロンの神、バアル・ゼブブ」(ハエの神)と語呂に似た名で呼んでさげすみました(列王記下1・2)。<エクロン>はペリシテ人の町の名です。その後、<バアル・ゼベル>は、<ベルゼベル>となり、この当時は、<悪霊の頭>すなわちサタンを指す名として用いられていました。律法学者たちはイエスを<悪霊>と共謀してると説明し非難したのです。彼らはイエスの力の源泉を悪魔からのものとし、イエスをその悪霊どもの頭(君主)としたのです。

「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。『どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。』」(3・23-26)

 イエスは彼らの考えが間違っていることを、彼らに納得のいくように、たとえを用いて、分かりやすく説明されました。「国が内輪で争えば」、その国は立ち行かない。内部抗争に明け暮れる国や家が荒廃して、自滅してしまいます。同じように、サタンの頭の力で、サタンの手下である<悪霊>を追い出していると言うのであれば、それは内輪争いをすることであり、サタンの支配は崩壊し、自滅してしまいます。サタンは、内部抗争によって自滅するほど愚かではありません、とイエスは反論しました。

「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」(3・27)

 <強い人>は、サタンの別名です。この<強い人>という言葉は、イザヤ書49章24-26節の、<勇士・暴君>という言葉を反映しているものと考えられています。

 「勇士からとりこを取り返せるであろうか。暴君から捕らわれ人を救い出せるであろうか。主はこう言われる。捕らわれ人が勇士から取り返され、とりこが暴君から救い出される。わたしが、あなたと争う者と争い、わたしが、あなたの子らを救う。……わたしは主、あなたをを救い、あなたを贖う。」勇士、暴君であるサタンを打ち破る強い存在として「わたし」と御自身を呼ばれる主なる神のことが述べられています。そして「あなたの子らを救う」と。イエスは、勇士や暴君であるサタンを縛り上げる、サタンよりより強い救い主として自覚されているのです。

  ここでいう<家財道具>は、悪霊につかれた者、サタンのとりこになっている者です。「まず、強いサタンを縛り上げなければ、だれも、そのサタンの家に押し入って、その悪霊の家にとりこになっている人を、奪い取ることはできない。」とイエスは言われました。サタンを縛り上げるのは、神の霊であり、イエス自身です。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(マタイ12・28)とイエスは、マタイ福音書の方では宣言しています。

 強い人であるサタンが悪霊にとりつかれた人々を、所有物(捕虜)としてそのままにしておこうとしても、サタンよりももっと強う者(イエス)の前には、サタンは無力です。この「悪霊を追い出す権能を持たせるため」、イエスは十二人の弟子を任命されました(3・15)。

 「『はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦され。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されず、永遠の罪の責めを負う。』イエスがこう言われたのは、『彼は汚れた霊に取りつかれている』と人々が言っていたからである。(3・28-

 「はっきり言っておく」とは、新しい重要なことを話すときの導入のことばです。イエスは、人が犯すどんな罪や冒涜でも赦されと語りました。しかし、「聖霊に対する冒涜は赦されない。この世においても、後の世でも、永遠の罪の責任を負う」と言われました。<聖霊の冒涜>とは、イエスの聖霊の働きをベルゼベルの働きと曲解することですが、それはイエス自身に対する中傷でもあります。なぜならそれは、洗礼の際に聖霊を与えられた神の子イエスを(1・10)、<汚れた霊に取りつかれている>者と見做すことを意味しているからです。イエスは、律法学者の人々がイエスの活動を悪霊の頭ベルゼベルに帰したことを、このままでは永遠の罪に定めらっると警告しました。

 「国が内輪で争えば、その国は成り立たない」と主イエスは言われました。シリア(国名はシリア・アラブ共和国)の2011年から始まった内乱は、来月で七年になります。独裁政治のアサド政権と反体制派の対立です。この内戦にサウジ・アラビアとアメリカは反体制派を支援し、ロシアはサダト政権を支援して介入し、やっと駆逐したISイスラム国の介入もあり、トルコやクルド人部隊の介入もあって、先の見えない泥沼化の状態です。人口2100万人の四割近い55万人が難民となり、国内外に避難し、24万人が命を失っています。その内、10万人以上が民間人です。この国には、民主化運動によるイスラムの春は訪れませんでした。こ国の紛争の速やかな終結と、平和を祈りましょう。

 私たちは、主の祈りで、「御国を来らせたまえ」と祈ります。終末のときに実現する「御国」を求めるだけではなく、今、わたしたちのところで実現している「神の国」、「神の支配」を求めて祈る事も必要です。罪と死に打ち勝ち、復活され、天上におられ、父なる神とともに世を支配されておられる、神の御子イエス・キリストの「神の霊」による悪霊に打ち勝つ権能を与えられていることを自覚して、悪に打ち勝ち、日々霊に満たされて歩んでまいりましょう。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「荒れ野の誘惑と神の国の宣... | トップ | 「受難の予告とイエスに従う... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事