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日本キリスト教 富 谷 教 会 週 報
年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』
聖句 「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)
降誕前第5主日 2017年12月3日(日) 午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 16(われらの主こそは)
交読詩編 82(神は神聖な会議の中に立ち)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書(新共同訳) イザヤ書51章4~11節(旧 p.1146)
説 教 「主の来臨の希望」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌 235(久しく待ちにし)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 12月10日(日)午後5時~5時50分
聖書 エレミヤ書36章1~10節
説教題 「旧約における神の言」
讃美歌(21)355 231 24 交読詩編19篇8~11節
本日の聖書 イザヤ書51章4~11節
4わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間にわたしの裁きをすべての人の光として輝かす。5わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ、わたしの腕は諸国の民を裁く。島々はわたしに望みをおきわたしの腕を待ち望む。6天に向かって目を上げ、下に広がる地を見渡せ。天が煙のように消え、地が衣のように朽ち、地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの恵みの業が絶えることはない。7わたしに聞け、正しさを知り、わたしの教えを心におく民よ。人に嘲られることを恐れるな。ののしられてもおののくな。8彼らはしみに食われる衣、虫に食い尽くされる羊毛にすぎない。わたしの恵みの業はとこしえに続き、わたしの救いは代々に永らえる。9奮い立て、奮い立て、力をまとえ、主の御腕よ。奮い立て、代々とこしえに、遠い昔の日々のように。ラハブを切り裂き、竜を貫いたのはあなたではなかったか。10海を、大いなる淵の水を、干上がらせ、深い海の底に道を開いて、贖われた人々を通らせたのは、あなたではなかったか。11主に贖われた人々は帰って来て、喜びの歌をうたいながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき、喜びと楽しみを得、嘆きと悲しみは消え去る。
本日の説教
先週の説教は、サムエルからダビデが油を注ぎを受け、イスラエルの王としての任職を神から受けた場面でした。そのおよそ十年後に、ダビデはイスラエルを統一する王として即位しました。ダビデの治世は、紀元前1000年~961年の三十九年間です。
今日のイザヤ書51章は、第二イザヤと呼ばれている無名の預言者の預言集の一部です。イザヤ書40章から55章までが、彼の預言集と見做されています。彼は、バビロン捕囚時代の末期、紀元前546年~538年頃、クロス(キュロス)王によるペルシャ帝国が台頭しつつあった時代に、バビロニアで活動しました。
エルサレムが滅ぼされ、南ユダヤ王国の多くの人々はバビロニアに連れて行かれ、異国の地で捕囚の民として屈辱と苦難をあじわいました。生活それ自体は、必ずしも悲惨ではなかったようですが、神の民としてのイスラエル民族にとって、捕囚の民として生きることは、その全歴史が根底から崩壊したように思われたのです。
彼らは「主はわたしを見捨てられた」(49・14)のではないかと問い、イスラエルの神に対して、バビロニアの神々が勝利したのではないかという疑問が生まれ、偶像礼拝へ走ろうとする者達もいました(44・9-17)。
第二イザヤは、この捕囚の民の中にあって、自分もその苦しみを深く味わいながら、唯一の神が共にいたもうこと、主(ヤーウェ)なる神は必ずイスラエルをあがないたもうことを力強く語り、希望と平安をもって生きることをすすめました。
「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる……苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた」で始まる、帰還の約束を告げるイザヤ書40章1~11節は、第二イザヤの前奏曲とされています。その基調は、神による慰めの言葉であり、神による永遠の救いと希望の確信です。
この慰めと希望の使信は、第51章からいよいよ最高の調べを帯びてきます。1節~3節は、神の「正しさ(義)」を主題にし、歴史的な回想(アブラハムとサラ)を織り交ぜながら慰めの言葉を告げ、救いの約束を力強く述べています。
1節は、一人であったアブラハムを祝福して子孫を増やし、大いなる民としたのは主であることを告げ、敬虔なイスラエル人はまことに少数であっても、心配することはない、と主は語ります。<切り出されてきた岩>は少数の信仰を保つイスラエル人のことであり、その<元の岩>はアブラハムのことであり、<岩穴>はサラのことです。イスラエルの先祖を石切り場になぞらえ、そこから切り出された岩を子孫とみなしています。
2節は、アブラハムはその信仰のゆえに祝福を受け、その子孫は神の約束のように、天の星、また海の砂のように増し加えられたことが語られます。
3節は、神がアブラハムやサラを慰めたように、神は<シオン(エルサレム)>を慰め、またそのすべての荒れた所を慰めて、その荒野をエデンのように、またその砂漠を主の園のように、祖国の国土を回復するという預言です。そこには<喜びと楽しみ、感謝の歌声>が響くのです。それゆえ、望みを抱けと鼓舞しています。
「わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間にわたしの裁きをすべての人の光として輝かす。わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ、わたしの腕は諸国の民を裁く。島々はわたしに望みをおき、わたしの腕を待ち望む。」(イザヤ書51・4-5)
預言者は、<わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ>と、いう神からの託宣を述べます。なぜなら、<教え>はわたしのもとから出><わたしの裁きをすべての人の光として>輝かすからだ、と神は語ります。その結果、<わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ>るのです。そうして神の支配は全世界に及ぶことになるのです。全世界はヤㇵウェ(ヤーウェ)に望みをおき、ヤㇵウェに待ち望んでいる、と神は告げます。
「天に向かって目を上げ、下に広がる地を見渡せ。天が煙のように消え、地が衣のように朽ち、地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの恵みの業が絶えることはない。」(6節)
見えるものはいつかは滅びるものです。<天が煙のように消え、地が衣のように朽ち>てしまうのです。また、その中に生きているものも、<ぶよ>のように死んでしまう。しかし、神の救いは永遠であって、恵みの業は絶えることがありません。
「わたしに聞け、正しさを知り、わたしの教えを心におく民よ。人に嘲られることを恐れるな。ののしられてもおののくな。彼らはしみに食われる衣、虫に食い尽くされる羊毛にすぎない。わたしの恵みの業はとこしえに続き、わたしの救いは代々に永らえる。」(7~8節)
神は再びイスラエルの中の真に神を畏れる者に呼びかけます。神の正義と神の教えを確信する者は、人のそしり(嘲り)を恐れてはならない。なぜならその嘲りはほんのしばらくのことであるからです。というのは彼らはまもなく<しみに食われる衣、虫に食い尽くされる羊毛>だからです。しかし、神の救いは永遠に続くのです。
「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、主の御腕よ。奮い立て、代々とこしえに、遠い昔の日々のように。ラハブを切り裂き、竜を貫いたのはあなたではなかったか。」(9節)
まず主の<御腕>が現れて、その支配が現れることを祈っています。<御腕>は、5節の<わたしの腕>と同じであり、神の力のシンボルです。主の<御腕>が<代々とこしえに>、<遠い昔の日々>のように、すなわち天地創造の時と、出エジプトの時に、<ラハブを切り裂き、竜を>刺し貫いたように、今またその権能をふるうことを待ち望んでいるのです。<ラハブ>はレビヤタンのような海獣であり(イザヤ30・7、詩篇104・26)、原始混沌の象徴であり、淵の主でもあります。<竜>も同じく海の怪獣であって、これもまた暗黒とか混沌を意味しています。
「海を、大いなる淵の水を、干上がらせ、深い海の底に道を開いて、贖われた人々を通らせたのは、あなたではなかったか。」(10節)
<海を、大いなる淵の水を、干上がらせ、深い海の底に道を開いて、贖われた人々を通らせた>は、出エジプトにおける紅海の奇跡を指しています。エジプト王がイスラエル人のエジプト脱出を許可しておきながら、奴隷労働力を求めて再びイスラエル人を連れ戻すために、エジプト軍を派遣しました。追ってきたエジプト軍隊により、紅海を渡らうとしていたイスラエル人は絶対絶命になりました。その時、神の奇跡的な救いによって、イスラエル人は紅海を渡ることができました。ここでは<淵>は、バビロンの混沌の神を指しており、<深い海>もまたバビロンの混沌を意味しています。出エジプトの時と同じような奇跡を、<あなた>がその御腕をもってバビロンからの解放にさいしても行われることを求める祈りです。
「主に贖われた人々は帰って来て、喜びの歌をうたいながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき、喜びと楽しみを得、嘆きと悲しみは消え去る。」(11節)
こうして<主に贖われた人々は帰って来て、喜びの歌をうたいながらシオンに>入るのです。<贖われた人々>とは、10節の出エジプトのイスラエル人であり、11節のバビロンから帰還するイスラエル人のことを言っています。彼らは出エジプトの時のように、「主の御腕」に守られてバビロンを出てシオンに帰るのです。そして、<頭にとこしえの喜びをいだき>、喜びと楽しみを得て、嘆きと悲しみは消えてしまうのです。
イスラエルのバビロン捕囚は、14年の間、三回にわたって行われました。紀元前597年、586年と、583年です。捕囚期間は、紀元前597年~538年にかけて、59年間、短い人で45年間です。主要な人物と国民のほとんどが捕らえられました。捕囚の時が終わるに及んで、神はイスラエル人に第二イザヤを遣わしたのです。預言者に聞く者は少数でしたが、第二イザヤは祖国帰還に際して、神の慰めと激励のみ言葉を伝えたのです。第二イザヤは神の真理を万国民に伝える大使命を前に己の力なさを覚えます。しかし神は、今日の預言詩にあるように、第二イザヤに力強い託宣を告げたのです。イスラエルの民は、確信に満ちた預言者の声を聞き、神の約束と力とを己が内に感じて、立ち上がったのです。まことに信仰は山をも移すと言われるものです。
第二イザヤの「苦難の僕の歌」と呼ばれる預言が53章に収められています。ここには、わたしたちの身代わりとなって神に打たれ、苦しむ「主の僕」のみじめな姿が描かれています。メシアについては、すでに最初の預言者イザヤによって、ダビデの家系から出る新しい栄光の王、平和の君として語られていました。神から新しくつかわされる新しい王こそ、ベツレヘムで誕生したイエスであり、苦難の道を歩まれ、十字架の死を遂げ、復活され、神の国の王として栄光を受けられた主イエスです。今日は、この世に来られた主の誕生を祝うクリスマスを待つアドベント(待降節)の期間に入ります。主の再臨を待ち望む時でもあります。今日のイザヤ書51章は、そのようなわたしたちにも、希望と確信を与えてくれる預言です。
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