富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「敵による苦難からの救い」 詩編143編1-12節

2021-11-25 20:29:00 | キリスト教

    ↑ 「朝にはどうか、聞かせてください。あなたの慈しみについて。あなたにわたしは依り頼みます。行くべき道を教えてください。あなたに、わたしの魂は憧れているのです。」(詩篇143編8節)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

  日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

降誕前第4主日  2021年11月28日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を

成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわ

せ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」                                      (エフェソ3・16-17)

                           礼 拝 順 序

                                                             司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 506(すべては主のため)

交読詩編  143(主よ、わたしの祈りをお聞きください)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) 詩編143編1-12節(旧p.983) 

説  教  「敵による苦難からの救い」  辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                     

讃美歌(21) 566(むくいを望まで)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。

申し込みは、Eメール:munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp に。

              次週礼拝 12月5日(日)午後5時~5時50分 

              聖 書 イザヤ書9章1-6節

              説教題 「『平和の君』の誕生預言」

              讃美歌(21) 235 356 27 交読詩編 147:1-20    

 本日の聖書 詩編143編1-12節

143:1【賛歌。ダビデの詩。】主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈る声に耳を傾けてください。あなたのまこと、恵みの御業によってわたしに答えてください。

2あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいません。

3敵はわたしの魂に追い迫り、わたしの命を地に踏みにじり
とこしえの死者と共に、闇に閉ざされた国に住まわせようとします。

4わたしの霊はなえ果て、心は胸の中で挫けます。

5わたしはいにしえの日々を思い起こし、あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し、御手の業を思いめぐらします。

6あなたに向かって両手を広げ、渇いた大地のようなわたしの魂をあなたに向けます。〔セラ

7主よ、早く答えてください。わたしの霊は絶え入りそうです。御顔をわたしに隠さないでください。わたしはさながら墓穴に下る者です。

8朝にはどうか、聞かせてください。あなたの慈しみについて。あなたにわたしは依り頼みます。行くべき道を教えてください。あなたに、わたしの魂は憧れているのです。

9主よ、敵からわたしを助け出してください。御もとにわたしは隠れます。

10御旨を行うすべを教えてください。あなたはわたしの神。恵み深いあなたの霊によって、安らかな地に導いてください。

11主よ、御名のゆえに、わたしに命を得させ恵みの御業によってわたしの魂を災いから引き出してください。

12あなたの慈しみのゆえに、敵を絶やしてください。わたしの魂を苦しめる者をことごとく滅ぼしてください。わたしはあなたの僕なのですから。

本日の説教

この詩は七つの悔い改めの詩篇(16、32、38、51、102、130、143)の最後のものです。表題には「ダビデの詩」とありますが、この詩の内容はダビデ自身の作ではないが、実際に同じような苦しみを経験したある敬虔な詩人によって作られたものです。罪を告白し、敵による苦難からの救いを切に求めている詩です。

詩人は、彼の受けた苦難が、彼の罪にたいする罰であることを率直に認め、しかも神は恵みの神であるので、赦しと救いとを祈り求めています。彼は、かつて経験した神の愛の御手を思い起し、その恵みが新たに示されることを待ち望んでいるのです。そして最後に、その祈りの答えとして、神が、詩人を亡ぼそうとしている敵の手から、詩人を救い出してくださるように祈って、この詩を歌い終わています。その敵が具体的にどんな人々なのか、また何といって攻撃しているのかは分かりません。しかしこの詩人はこの攻撃を自己の魂に対する攻撃であり、彼を神から引き離し、暗黒に陥れる暗い力として体験しています。新約聖書に従って言うなら詩人は「敵」を動かしているサタン的な力と死闘しているのです。ここにこの詩の最も深い問題があります。

「主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈る声に耳を傾けてください。あなたのまこと、恵みの御業によってわたしに答えてください。 あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいません。」(1-2節)

 苦難にさいなまれた詩人は、神の真実と恵みの御業に信頼しつつ、祈りを聞いてくださいと神に願い求めます。「恵みの御業によって」は、原語では「あなたの義をもって」とあります。神の義とは、神の選びと契約を拒み曲げるあらゆる企てにもかかわらず、神御自身の選びと契約に従って事柄を正しくされる神の御旨とみ業のことです。これこそイザヤ書45:22-25)や、パウロが語っている(ローマ1:17)、神の義です。イザヤ書には、「地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。・・・恵みの御業と力は主にある、とわたしは言う。・・・イスラエルの子孫はすべて主によって、正しい者とされて誇る」とあります。「神は真実で正しい方(義なる方)ですから、(私たちの)罪を赦し・・・てくださいます)と、ヨハネの手紙一、1:9にあります。

悔い改めとは、神の義に、その義のみに目を向けることです。詩人は人間を救おうとしてやまない神の真実と義に信頼しているのです。彼は神の前では誰も正しい者はいないことを知っているので、神に裁判にかけないでくださいと懇願します。この詩は、まだ神が御自分の義のゆえにイエス・キリストを私たちの代わりに裁かれたという真理を知らないのです。

彼はすべての人が罪に引き渡されており、自分の力ではそこから抜け出ることができないという事実と、そしてそこには全く神の恵みに委ねる道のみが残されていることを知っているので、ただ乞い願う者として立っています。

 「敵はわたしの魂に追い迫り、わたしの命を地に踏みにじり、とこしえの死者と共に、闇に閉ざされた国に住まわせようとします。 わたしの霊はなえ果て、心は胸の中で挫けます。」(3-4節)

詩人はこの乞い願う祈りの態度に達してはじめて、神に自分の苦しみを訴えます。自分の魂は敵に負い迫われ、自分の命は地に踏みにじられ、自分が死人のように希望なき闇に囲まれている有様を告げます。外的に窮し、内的に助けがないので、生きる勇気は奪われ、自分が、もう死にかけて硬直するのを感じる人のように衰え果てていると訴えます。詩人はここに、サタン的な力のために彼の魂が神から離れて死んだ者のようになったというのです。霊的な苦悶を受けています。

「わたしはいにしえの日々を思い起こし、あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し、御手の業を思いめぐらします。あなたに向かって両手を広げ、渇いた大地のようなわたしの魂をあなたに向けます。〔セラ 」(5-6節)

 詩人は自分の個人的な苦難から抜け出そうとして、「いにしえの日」の民族の過去を顧みます。民族の過去における神のさまざまの恩恵、その救済の歴史を考えます。霊的苦悩のただ中で、神がすでに自分以外の多くの人に施した救いの業に思いをはせます。他の多くの人が先に救われたことはやがて自分も救われる一つのしるしです。詩人も神の民イスラエルに属する一人として、民族救済の歴史の中で自己の救いを見ようと試みているのです。

 「両手を広げる」とは、イスラエル人の祈りの姿勢です。天に向かって両手を挙げ、手のひらを拡げて上を仰いで祈るのです。イスラエル人の祈りの態勢は上なる神から一切の力を仰ぐのです。民のために、民の間でなされた神の救いのみ業の記憶が、詩人に、乾いた大地が雨を求めるように神を待ち望ませるのです。

「主よ、早く答えてください。わたしの霊は絶え入りそうです。御顔をわたしに隠さないでください。わたしはさながら墓穴に下る者です。 朝にはどうか、聞かせてください。あなたの慈しみについて。あなたにわたしは依り頼みます。行くべき道を教えてください。あなたに、わたしの魂は憧れているのです。(7-8節)

詩人の神の救いを求めるせっぱつまった気持ちが表面に出ます。「御顔」とは神の人格を表すものであり、それが隠されてしまうことは神との生ける交わりが断たれることです。「墓穴に下る者」とは神との交わりを絶たれた死者です。「朝にはどうか、聞かせてください」は、朝は光の時、恵みの時だからです。彼は朝に神の「慈しみ」、神の憐れみの愛を聞き、自ら歩まなければならに道を教えてくださいと願いました。彼の魂は神に憧れているのです。そのことだけが、彼の魂をよみに陥る危険から守る力でした。

「主よ、敵からわたしを助け出してください。御もとにわたしは隠れます。御旨を行うすべを教えてください。あなたはわたしの神。恵み深いあなたの霊によって、安らかな地に導いてください。」(9-10節)

 詩人にとっては、神の御もとだけが隠れ家であり、この神に逃れる以外には救いを得ることは不可能でした。しかし詩人は、ただ単に神の平安を求めるだけではなく、「御旨を行うすべを教えてください」と祈っています。神のみ旨を行い、その御名のために生きることこそ詩人にとって生き甲斐のある生活であり、これこそどのような敵も侵すことの出来ない、平安に満たされた生活なのです。

 「主よ、御名のゆえに、わたしに命を得させ恵みの御業によってわたしの魂を災いから引き出してください。あなたの慈しみのゆえに、敵を絶やしてください。わたしの魂を苦しめる者をことごとく滅ぼしてください。わたしはあなたの僕なのですから。」(11-12節)

わたしの命を救い出してくださいとの願いは、祈り手にとって、「御名のゆえに」、「恵みの御業によって」とあるように、神御自身の一方的なあわれみの心から実際に助けの手が伸べられることを期待しています。しかし、この世の「命」にこだわるところに、旧約の詩人の限界があるのです。

主イエスの十字架と復活の恵みに与り、永遠の命を与えれた者は、「神の恵みの福音を、力強く証しするという任務を、果たすことができさえすれば、この命すら、決して惜しいとは思いません」(使徒言行録20:24)という生き方を与えられるのです。

最後に詩人は敵の滅亡を祈ってこの詩を終わっています。その祈りは、ほとんど呪いのような激しいものです。神の御名のゆえに、神が崇められるために敵の裁きを望む彼の信仰には学ぶべき点がありますが、その敵が完全に滅ぼされるのを見ることによって、自分が神の僕であることを知るという彼の信仰には、この詩人の限界を見ることができます。

彼は、サタンに勝利したイエス・キリストの十字架と復活を、まだ知らないのです。イエス・キリストは、「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分に死によって滅ぼし」(ヘブライ2:14)ました。サタンはキリストの千年王国の最後に火と硫黄との池に投げ込まれます(黙示録20:10)。

わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方、主イエスによって「輝かしい勝利を収めています」(ローマ8:37)。なぜなら、「死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる」からです。パウロは、「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望し」(フィリピ1:23)ていると言い、この世の生に執着することから解放されています。もはや死は、キリストとの交わりを絶つものではなく、一層キリストに近づき、共にいるための通過点になったのです。

詩人に旧約的信仰の制限があるにもかかわらず、この詩人が、率直に自分の罪を悔いる謙遜な信仰の態度と、あくまでも神の御栄のあめに生きようとする雄々しい精神を、この詩を通して学びたいと思います。

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