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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
降誕前第7主日 2021年11月7日(日) 午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)
聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)
礼 拝 順 序
司会 田中 恵子姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 132(涸れた谷間に野の鹿が)
交読詩編 103(わたしの魂よ、主を讃えよ)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)イザヤ書40章27-31節(旧p.1125)
説 教 「主に望みをおく人は新たな力を得る」辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 149(わがたまたたえよ)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。
次週礼拝 11月14日(日)午後5時~5時50分
聖 書 詩編51編12~21節
説教題 「清い心を創造してください」
讃美歌(21) 492 481 27 交読詩編
本日の聖書 イザヤ書40章27-31節 51
40:27ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか。わたしの道は主に隠されている、と。わたしの裁きは神に忘れられた、と。
28あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。
29疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
30若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、
31主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。
本日の説教
イザヤ書40章から55章までの無名の著者を、第二イザヤと呼んでいます。その預言の歴史的背景は、紀元前6世紀の中頃(B.C.546~538年)と推定されています。イザヤ書1章から39章までの預言者であるエルサレムで活動したイザヤは、アッシリア帝国の時代を歴史的背景としていますが、バビロンで活動した第二イザヤは、バビロン帝国時代よりペルシヤ帝国が勃興する時代を背景としています。イザヤと第二イザヤの間は、150年以上の開きがあります。第二イザヤの時代は、多くのユダ王国の民はバビロンに捕囚され、祖国の都エルサレムは荒廃し、ユダ王国を滅ぼしたバビロニアはその国運が傾き、ペルシア王キュロス(B.C.557~529年)が現れて、バビロニア軍を破り、捕囚の民イスラエルに解放を告げる時代でした。異教徒の王キュロスは、「主が油を注がれた人」(イザヤ45・1)と呼ばれ、神の意志を知らずして、捕囚民の解放を行うことになります。
第二イザヤはバビロン捕囚のユダヤ人の間から召された一預言者です。彼の名前も、出生についても、預言者としての召命も伝えられていません。しかし彼は、イスラエルの最大の預言者の一人です。第二イザヤは、ユダヤ人のバビロン捕囚という現実にも神の意志である審きを見(40・2)、捕囚からの解放と祖国帰還にも神の意志である救いを見ました(44・28)。
第二イザヤが預言活動を開始したときは、イスラエルの民の捕囚期間が、短い人でも50年になろうとしていました。イスラエルの民は、「いつまで、主よ、隠れておられるのですか。御怒りは永遠に火と燃え続けるのですか」(詩篇89・46)と故国を失ったことを嘆いていました。そのような人々に、長い間隠れたまま応答をしなかった神が現れ、第二イザヤに語るべき預言を与えました。彼は民に捕囚からの解放の時が来たことを告げ、神が民の罪を赦してくださったことを説き続けました。彼の預言は、捕囚解放前の預言を集めた40~48章と、解放後の預言を集めた49~55章の二部構成になっています。
イザヤ書40章第一部1節~11節は、「帰還の約束」です。イスラエルの捕囚の民が、バビロンからっだ奇跡的に故国へ帰還することになるという内容です。ここで告知されているのは、解放であり、救済です。イスラエルの審判は過ぎ去り、そのとがはゆるされ。服役の期(とき)は終わり、神自身が解放者として来臨することが語られています。
第二部12節~31節は、「創造と贖いの神」についての預言です。第二部は、6段からなります。
12~14節 宇宙の広大と神の主権。預言者は希望の確かさを、主が創造と贖いの神であることを想起することによって、保証しようとします。繰り返して強調していることは、人知を超えた自然と歴史を支配できるものは主のほかにはない、という点です。
15~17節 無に等しい諸国民。諸国民のむなしさの描写と序曲の「万物は草」は、創世記一章二節の混沌虚無の思想に通ずるものがあります。
18~20節 空しきもの。偶像攻撃がなされ、捕囚の苦難と屈辱の中で、バビロンの偶像崇拝の愚を攻撃してヤハウェ(主なる神、創造の神)の神を語ります。
21~24節 天に座する者 自然の創造者であり歴史の審判者である主の超絶的な力を強調します。
25~26節 万象をひきだす者 森羅万象をひきいだし、すべてが神の手中にあることを告げる。
27~31節 力の源 今日の聖書の箇所です。捕囚の民、イスラエルは、目に見える現実の前で、「わが道は隠れている」「わが訴えはわが神に顧みられない」(40:27)という不信の言葉を語っています。預言者はより鮮明にイスラエルに対する神の働きについて語ります。
27~31節は、三つの内容で構成されています。
1.(27-28節a)予言者の問いかけ。預言者は、何とかして民にかつて礼拝で賛美した神の働きを思い起させようとしました。
2.(28b-29節)主の讃美。預言者は捕囚の民に賛歌を歌って、力づけている。預言者は、歴史的世界を支配し生きて働く神が今や新しい時を開こうとされる、と告げる。
3.(30-31節)主を待ち望む者。 疲れ、倦怠、無気力が血気さかんな若者たちを襲っている。しかし、主を待ち望む者は絶えず新たな力を得る。
それでは、27節から、1節ごとにみことばを味わいましょう。
「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか。わたしの道は主に隠されている、と。わたしの裁きは神に忘れられた、と。」(27節)
預言者は眼を同胞に転じます。「ヤコブよ、イスラエルよ」は、現実にはユダの捕囚民をさしているが、神の選民の総称であるイスラエル全体をも意味しています。「わたしの道は・・・、わたしの裁きは・・・」の道とは運命の意味であり、裁きとは、神の公正なさばきを意味します。「わたしの道は主に隠されている」とは、私を導く方がいないということであり、結局神が隠れているということです。「裁き」は、ここは「訴え」の意で、なぜ苦難の中を這いずり回らねばならないのか、いったい救いは来るのか、あるいはさらに、契約の民にこのような苦難を与える神は義(ただ)しいのか、との訴えです。主の道はわたしから隠されている。神が顔をかくして、その民の訴えに耳をかさず、正しいさばきをしてくれないことが、敬虔な人々をも焦りと絶望にかりたてたのです。捕囚民の苦しみが続けば続くほど、その信仰が揺らぎ不信の声が上がります。果たして主は、イスラエルの運命に無関心でいられるのか。また、その受けるべき権利を忘れられたのか、という問いです。人間は、一般的に苦難の時には、その苦しみのために神を見失ってしまいます。それだけでなく不平不満を述べ、神から離れ、神ならざるこの世のものに身をまかせてしまいます。
「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。」(28節)
預言者は、人間の目に見える現実はどうであれ、歴史を通して働く神を強調しています。いついかなる時代にあっても神の声を聞くことが出来る透徹した信仰の姿勢の必要性を示しています。「とこしえにいます神、地の果ての造り主」と人々は神をこのように教えられました。時間と空間の支配者である神は、人間の思いを越えた遠大な計画をもって歴史を導く方です。それを今思い起すべき時だと言うのです。「地の果て」とは、当時の世界観によればバビロンを指しており、神は、そこで起こっている事態に対しても関心をもっておられることを意味しています。イスラエルの神はバビロンの創造者でもあり、バビロンの辺境で苦しんでいる捕囚民のひとりびとりの存在を、決して忘れてはいない。また主は、決して「倦(うむ)ことなく(弱ることなく)、疲れることのない」方である。その「英知」、すぐれた知恵ははかりがたい、と言うのです。神は答えない、との嘆きをいま預言者は否定するのです。
「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。」(29節)
<疲れ><勢いを失っている>捕囚民にも力を与え返し、これを救いたもう方だからです。神は一人一人の生に深くかかわっておられます。根源的な所で人間を支え、力を与え、強めてくださる方であります。パウロは、「わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」(コリント二12:10)と語っています。信仰とは、神から力を頂く体験であると言えます。
「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(30―31節)
「若者(年若い者)」と「勇士(血気盛んな者)」が対比されており、人間の力を信じ、主の支えなしに歩もうとする若者も弱り、かつ疲れ、勇士も疲れはてて、つまずき倒れます。しかし、今や新たな歩みが提起されます。「主に望みを置く人」は、神の現在の働きを信じ、来るべき救いを待ち望む者のことです。つまり、神に信頼と望みをおいて生きる者は、神から力を頂くのです。それは自分の所有してい力とは違って、全く新しい力なのです。「主に望みをおく」こと、待ち望むことは神の民、特に「残りの者」の伝統的な姿勢です。
「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。」「鷲のように翼を張って」とは、鷲は力の象徴であり、翼さをのばすと三メートル近くのもなるという鷲の勇姿、その飛ぶ様は自由さを表します。「鷲の翼」は神の力の象徴です。人間の力に頼らず、根源的力である神に信頼する信仰者のダイナミックな姿が表徴されているのです。その神の力をいただいた者は,「走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」というのです。詩篇103編5節には、「長らえる限り良いものに満ちたらせ、鷲のような若さを新たにしてくださる」とあります。
第二イザヤの預言40章は、この最後の段落(27~31節)において、人間が人間の力に寄り頼むことの空しさ、はかなさを語り、人間を造り、この宇宙を造った創造者なる神に寄り頼むことによってのみ、神からの大きな力に満たされることを預言したのです。この預言は今日のわたしたちにとっても真理なのです。自力では自己を救うことは出来ないのです。宗教改革者ルターも、自力による努力を断念し、心から天を仰ぎ、神の憐れみに依り頼み、「主に望みを」おいた時に、天地を創造し、統治しておられる神の力が臨んだのです。キリストによる愛と平安を与えられ、何をもおそれない強い人に造り変えられたのです。来世への確かな希望を与えられ、愛の人に造り変えられるのです。これこそ今日の世界の人々を救う神の力なのです。「走っても疲れない」精神力、「鷲のような」若々しさ、誰もが望む人間らしい誇りと生き甲斐をも、「主に望みをおく人」は与えられるのです。