富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「神の摂理ーヨセフの生涯」 創世記45章1-15節 

2021-08-15 01:34:25 | キリスト教

     ↑ 創世記 神の摂理 創世記50章18節の場面か? 兄たち10人がヨセフの前にひれ伏している。

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会

週    報

聖霊降臨節第13主日   2021年8月15日(日)   午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を

成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

礼 拝 順 序

                 司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  57(ガリラヤの風かおる丘で)

交読詩編   46(神はわたしたちの避けどころ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) 創世記45章1-15節(旧p.81)

説  教    「神の摂理による人生」    辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                       

聖餐式    81(主の食卓を囲み)

讃美歌(21) 355(主をほめよ、わが心)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏   

〇 オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、申し込みくだ

さい。ズーム設定担当は、斎藤美保姉です。

                     次週礼拝 8月22日(日)午後5時~5時50分    

                     聖 書 コリントの信徒への手紙二4章7節

                     説教題  「宝を土の器に」

                     讃美歌(21) 206 492 27 交読詩編 96    

 

本日の聖書 創世記45章1-15節

45:1ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、「みんな、ここから出て行ってくれ」と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。 2ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。 3ヨセフは、兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。 4ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。 5しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。 6この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。 7神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。 8わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。 9急いで父上のもとへ帰って、伝えてください。『息子のヨセフがこう言っています。神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました。ためらわずに、わたしのところへおいでください。 10そして、ゴシェンの地域に住んでください。そうすればあなたも、息子も孫も、羊や牛の群れも、そのほかすべてのものも、わたしの近くで暮らすことができます。 11そこでのお世話は、わたしがお引き受けいたします。まだ五年間は飢饉が続くのですから、父上も家族も、そのほかすべてのものも、困ることのないようになさらなければいけません。』 12さあ、お兄さんたちも、弟のベニヤミンも、自分の目で見てください。ほかならぬわたしがあなたたちに言っているのです。 13エジプトでわたしが受けているすべての栄誉と、あなたたちが見たすべてのことを父上に話してください。そして、急いで父上をここへ連れて来てください。」 14ヨセフは、弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンもヨセフの首を抱いて泣いた。 15ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った。

   本日の説教

 ヤコブの息子たちは、後にイスラエルの12部族となる12人です(創世記35:16-26)。

  1. ルベン(1) 2.シメオン(2) 3.レビ(3) 4.ユダ(4) 5.イサカル(9) 6.ゼブルン(10) 以上の6人は レアから生まれた息子たち

 7.ヨセフ(11) 8.ベニヤミン(12) この二人はラケルから生まれた息子たち。

 9.ダン(5) 10.ナフタリ(6) この二人の母は、ラケルの召し使いビルから生まれた息子たち。

11.ガト(7) 12.アシュル(8) この二人はレアの召し使いジルパから生まれた息子たちです。

 生まれた順序は()の赤数字で示しています。

ヨセフが17歳の時(べニヤミン1歳の頃)、兄たちによって宍に投げ込まれ、その後に、通りかかったミディアン人の商人に穴から引き上げられ、エジプトに下るイシュマエル人の隊商に銀20枚で奴隷として売られてしまいました。兄たちは、それを隠すために、ヨセフが悪い獣に噛み裂かれたかのように見せかけて、父をだましました。ヤコブは、ラケルとの間に生まれた子、ヨセフとベニヤミンとを溺愛しました。ヨセフは、ヤコブが91歳の時に、異国の地ハランで、母ラケルから生まれた11番目の息子です。ヨセフの弟のベニヤミンは、ヤコブがハランを去って父の住む故郷カナンの地のヘブロンに行く途中、ベツレヘムへ向かう道の辺りで、ラケルが産気づき、ヤコブが107歳頃、12番目の子ベニヤミンを生みました。ラケルは難産のため出産後に息を引き取りました。

ヤコブは12人の子供たちの中で、ヨセフとベニヤミンを特に可愛がりました。それは、愛する妻ラケルの産んで子たちであり、ヤコブの「年寄り子」で、母に死なれた子たちだったからです。ベニヤミンが赤子の頃、ヨセフだけが特別な裾の長い晴れ着を着せられたいました。この偏愛は腹違いの兄たちのヨセフに対する妬みと憎しみ生みました。

ヨセフが17歳の時(べニヤミン1歳の頃)、ドタンで兄たちによって宍に投げ込まれ、エジプトに下って行こうとしているイシュマエル人に売ろうとしていました。ところがミディアン人の商人たちが通りかかり、ヨセフを穴から引き上げ、銀二十枚でエジプトに下るイシュマエル人の隊商に奴隷として売られてしまいました。兄たちは、それを隠すために、ヨセフが悪い獣に噛み裂かれたかのように見せかけて、父をだましました。

ヨセフは、エジプトで奴隷として仕えることになった主人の信頼を得て家の切り盛りを任されるまでになったのですが、主人の妻に無実の罪を着せられて牢獄に捕われる身となってしまいました。しかしそこで、同じく捕えられていたエジプト王ファラオの役人の夢の意味を解き明かしたことがきっかけとなり、ファラオの夢を解き明かすために召し出され、それを見事に解き明かしたためにファラオの全幅の信頼を得ました。

ヨセフはファラオに、豊作の七年の間に、飢饉に備えて産物を備蓄するようにと進言しました。このヨセフの進言に感心したファラオは、聡明で知恵のあるヨセフを、エジプト全土を支配する、王に次ぐ位の司政者に任じました。このときヨセフは30歳でした。ヨセフが解いた夢のように、七年の大豊作のあと、七年の飢饉が始まりました。

一方、ヨセフがいなくなってから、20年後、カナンの地でも飢饉が始まりました。それから2年後、ヤコブは、末の子ベニヤミンを残して10人のヨセフの兄たちを、穀物を買いにエジプトに遣わしました。

 エジプトに下って、ヨセフの前に現れた兄たちは、エジプトの司政者がヨセフだとは気付きませんでした。ヨセフは兄たちだと分かったのですが、自分の身を明かさず、兄たちをエジプトを探りにきた回し者だと決めつけ、その疑いを晴らすために、弟(ベニヤミン)を連れて来るように命じ、シメオンを人質にとり、穀物を与えて、兄たちをカナンに帰しました。

飢饉が続き、ヤコブは仕方なく、ベニヤミンを連れて、兄たちが、穀物の買い出しに行くことを認めました。エジプトに再び戻った兄たちを、ヨセフは自分の屋敷に迎え、シメオンも連れてきて、食事でもてなしました。その間に、ヨセフは、執事に、兄弟たちの袋に運べるかぎりの食料で満たし、銀の代金もめいめいの袋に返し、一番年下の者の袋にはヨセフの銀の盃を入れておくように命じました。

次の朝、兄たち一行を見送ったヨセフは、一行が町を出たころ、追手を送り、ヨセフの銀の盃を盗んだ者を連れ帰るように命じました。ベニヤミンの袋から、ヨセフの銀の盃が見つかったベニヤミンだけでなく、兄たちもエジプトの司政者のもとに戻りました。ユダは、司政者にベニヤミンの代わりに、自分を奴隷として残してくださいと嘆願しました。あの二十二年前、ヨセフを奴隷に売ろうと最初に言い出したのはこのユダでした。ユダを始めとする兄たちは、二十二年前に自分たちが犯した罪と向き合い、そのことを心から後悔し、悔い改めているのです。

ここからが、今日の聖書の箇所に入ります。

ユダの誠意と切実な嘆願に心を打たれたヨセフは、その時平静を装うことはできなくなり、兄弟たちにこう言うのです。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。」(4~8節)そして父と家族をエジプトへ連れてくるように話しました。

ヨセフは兄たちに、22年前に自分をエジプトへ売ったことを、悔やんだり、責め合ったりする必要はない、と言ったのです。ヨセフが兄たちに「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神がそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」と語り、兄たちを赦しました。人の悪い企み、人間の悪の計画、悪しき行為も、神は善きことに変えてくださり、多くの人を救おうとされる、神の摂理に対する信仰がここに言い表されています。

「ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った」とあります。今、兄たちとヨセフの間に、語り合いが、交わりが、平和が回復されました。

その後、ヤコブの一行、総数七十名は、エジプトのゴシェンの地に移住し、ヤコブはヨセフと対面を果たしました。ヤコブはこのあと、十七年間幸せな日を過ごしました。 ヤコブは死ぬ前にヨセフの子ら、エフライムとマナセを養子にし、ヨセフをヤコブの後継者として祝福しました。

ヨセフの兄弟たちは、父が死んだあと、ヨセフが恨みを晴らすために、自分たちの犯した悪に仕返しするのではないかと恐れて、人を介して、ヨセフに、「お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。『お前たちはヨセフにこう言いなさい。どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい。』お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください」と詫びを入れました。ヨセフがエジプトに連れて行かれてから、40年近く経っているのに、兄たちの罪の意識は、まだ消えていませんでした。

兄たちの詫びの言葉を聞き、ヨセフは涙を流しました。この涙は、「なぜ、そんなことをずっと長いこと思っていたのですか」という思いと、兄たちがあまりにもこのことで苦しんできたことを思っての涙と思われます。ヨセフの前にひれ伏し、「私どもはあなたの僕です」と言うと、ヨセフは17年前に、自分の名を明かした時と同じように言いました。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください。このわたしたが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう」と、兄たちの恐れを取り除き、兄たちを慰め、優しく語りかけたのです。

   神様こそがただ一人本当に裁きをなさる方である、ということを告げ、神は人間の悪、罪をも用いて恵みのみ業を成し遂げて下さる方であると、ヨセフは語ったのです。もはや父から言われたからではなく、ただ神が赦されたので、ヨセフも兄たちを赦したのです。

ヨセフは父の家族と共にエジプトに住み、110歳まで生きました。イスラエルの民がエジプトに寄留した年数は、430年と記されています(出エジプト記13:19)。ヨセフの死から、数えると、凡そ350年後に、出エジプトの出来事が起こるので (ヤコブ一族のエジプト移住1660頃、ヨセフの死1590年、出エジプト1230年、として計算。)

ヨセフ物語は、神の摂理ということを教えています。「摂理」とは、神様がこの世の全てのことを支配し、導いておられる、ということです。私たちの人生と、そこに起る全てのことが、神様のご支配、導きの中にあると信じる、それが神の摂理を信じることです。これは、聖書が語る信仰の中心をなす大切な教えです。神を信じるとは、神の存在を信じることに留まるのではなくて、神の摂理を信じることなのです。

<摂理>と言う言葉は、<自然の摂理>と言うときは、「自然界を支配する法則」を言いますが、<神の摂理>というときは、「すべてのことが神の配慮によって導かれている>という意味になります。摂理信仰とは、このように神の世界支配を信じ、創造者である愛の神様が、ご自分の意志によって私たちの人生を導いてくださり、すべてを益となるように働いてくださるということです。このことを信じて生きる時に、いかなる時も希望をもって生きることができ、人生に絶望するということがなくなるのです。

創世記全体を通して言えることは、何度も神に背き、罪を犯す人間が赤裸々に記されていることです。それは一人の人生の中でも言えることです。然し、それらを越えて、人を愛し、救おうとする神様の計画、御業がなされたことが、一貫して創世記を通して語られています。この世界は運命や宿命によって支配されているのではなく、愛なる神の摂理の支配の中にあることを信じるときに、わたしたちは平安を与えられます。

父なる神は御子キリストによって、罪と死に打ち勝つ復活と永遠の生命と、神の国を、私たちのために用意してくださった方です。ですから、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマの信徒への手紙8:28)とパウロは語るのです。

キリストを信じるとき、わたしたちは、偶然や運命に支配されているものではなく、誕生も結婚も職業も病気も死も、その生涯すべてが神の摂理にあることを覚え、主の導きに信頼し、主イエス共に歩むのです。

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