富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「信仰は、キリストの言葉を聞くことによって始まる」 ローマの信徒への手紙10章14ー21節

2021-08-27 23:43:09 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

聖霊降臨節第15主日  2021年8月29日(日)      午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

礼 拝 順 序

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 149(わがたまたたえよ)

交読詩編  103(あたしの魂よ、主をたたえよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ローマの信徒への手紙10章14-21節(新p.288) 

説  教     「信仰は聞くことによる」  辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                      

讃美歌(21) 356(インマヌエルの主イェスこそ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏   

〇 オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、申し込みください。ズーム設定担当は、斎藤美保姉です。

                                                                                    次週礼拝 9月5日(日)午後5時~5時50分    

                                                                                   聖 書 ローマの信徒への手紙1章16-17節

                                                                                    説教題  「わたしは福音を恥としない」

                                                                                    讃美歌(21) 206 405 27 交読詩編 96   

本日の聖書 ローマの信徒への手紙10章14-21節

10:14ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。 15遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。 16しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。 17実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。 18それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。 19それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、「わたしは、わたしの民でない者のことであなたがたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と言っています。 20イザヤも大胆に、「わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いだされ、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。 21しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。

本日の説教

 異邦人に福音を伝えるために、キリストの使徒とされたパウロは、10章1節で「兄弟たちよ」と、読者であるローマの信徒たち一同に対して呼びかけ、パウロと祖国を同じくする「彼ら(ユダヤ人)が救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」と、パウロは伝えています。

パウロは、ユダヤ人たちが「神に熱心であった」ことを認めています。この<神への熱心>とは、ユダヤ教とその律法への熱心です。パウロ自身もかつて律法に熱心でした(ガラテヤ1:12、フィリピ3・6)。しかし、その熱心は「正しい認識に基づくものではない」とパウロは断言します。それは神の義を正しく理解し、それにふさわしくうやまう態度をとらなかった、ということです。「神の義」を無視して、「自分の義」を建てることに熱心であって、<神の義>に従わなかったのです。

<自分の義>は、人間が自分自身の努力で律法の要求を満たすことによって、自らを正しい者とすることであり、神に自分を正しい者として認めさせようとすることです。しかし人は善をなそうとする意志があっても、それを実行できない自我という罪があるので、律法の要求を完全に行う力がないことを、パウロは繰り返し述べてきました。

それに反して<神の義>は、神から人に恵みの賜物として与えられる義であり、神がつくり出す救いとしての義であり、神がその人を全く罪のない正しい人と認める赦しの恵みです。人はただこれを信じて受け入れるだけなのです。それはただ神の義の福音を聞いて信じ服従することによって与えられるものです。ところがユダヤ人はこのことを知らないで、自分の義を立てようとしました。これは自己主張であり、自己を誇ることであり、神への不服従なのです。

 キリストは、「信じる者すべてに義をもたらすために」「律法の目標」(10:4)となられました。キリストを信じる信仰の道が開かれた今は、律法的努力は不必要となりました。キリストは律法に終止符を打たれたのです。神はイエス・キリストにおいて律法を「終わり」とされたのです。律法に代わってキリストの支配する新しい世界が始まっているのです。神を愛し、人は互いに愛し合いなさい、ということが新しい律法となったのです。

「モーセは、律法による義について、『掟を守る人は掟によって生きる』と記しています。」(10:5)パウロは、モ―セの語ったレビ記18章5節の「わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる」の言葉を<掟を守る人は掟によって生きる>と言いなおしたのです。レビ記の言葉は、ユダヤ人の一般的な律法理解であり、律法の要求を満たすことによって神の救いを獲得することが目指されたのです。しかし、人間はこれを完全には行うことができませんでした。

  しかし、「信仰による義」について「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにことに他なりません。また「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。」(10:6-7)とパウロは述べます。この勧めは、キリストがこの世に来たことによって、神と人、天と地との間に神の側からの橋がかけられたことによる救いです。人間の側から神への橋渡しをしようとするような<天に上る>試みは、不可能であり、また無用なのです。自分の力で<キリストを引き降ろす>ようなことはすべきではありません。また、人間が陰府(よみ)に下るようなことをすべきではありません。パウロは、自分の業によって義を得ようとする律法主義者の誤りを、申命30:12-13の引用文によって正したのです。「死にて葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり」たもうたキリストの救いの働きを無意味にするような、自分の業に頼ろうとする者の誤りを戒めたのです。

「では、何といわれているのだろか。『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」(10:8)

 それでは、旧約聖書は、何と言っているか。パウロは申命記30:14の言葉を引用します。この<御言葉>とは、律法の戒めではなく、パウロが宣べ伝えている<信仰の言葉>であるとパウロは理解したのです。

申命記30章12~14節の元の意味は、神の言葉がいかに身近なものであって、それを実行することがいかに容易であるかを語る格言として、ユダヤ人が親しんでいたものです。申命記には、「あなたは…それを行うことができる」(申命記30:14b)と結論しているこの御言葉をパウロは無視して、律法のわざによらず、ただ信仰によって義とされるという<信仰の言葉>として受け取り、旧約聖書の神の言葉の近さは、キリストによってまさに文字通り完全に実現したと認識したのです。

 「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(10:9-10)

<口でイエスは主であると公に言い表し>とあるのは、原始教会における最も根本的な信仰告白です。この告白によって人々はキリスト者とされました。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。神は人を救うために御子をこの世に送られ、人の罪をイエス・キリストに負わせて、神の徹底的な審(さば)きと赦しの御業を行われました。ただキリストによる罪のつぐないの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。信仰とは、このイエス・キリストを信じることです。私たちを罪なきものとしてくださる神の義を正しく知り、全存在をもって受け入れることです。そのとき、キリストは聖霊としてしっかり私たちの心のうちに住み、私たちの存在の中心になってくださるので、その聖霊の力を受けて良き業を行う者とされるのです。

  「聖書にも、『主を信じる者は、だれも失望することがない』と書いてあります。」(10:11)

イザヤ書の28:16にある<信ずる者は慌てることはない>という言葉を用いて、主を信じる者はだれも失望するようなことがない、とパウロは言います。そして、「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです」(10:12)とパウロは語っています。旧約聖書の神の呼び名であった<主>を、今やキリストを意味する<主>として用いることによって、神の民が拡大されました。

さらに、ヨエル書3:5を引用し、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(10:13)としています。 

パウロの旧約解釈は、わたしたちが旧約聖書をキリスト証言として受け取る道を示したのです。イスラエルは、この旧約聖書の根本精神を見抜くことができなかったのです。

そして今日の聖書の箇所に入るのです。

「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」(10:14)

確かに信じたことのない方を、呼び求めることはできません。それならば、どうして信じることができるかと、すぐそのあとを受けて<聞いたことのない方を、どうして信じられよう>とたたみかけてきます。<信じる>ということは、その前に<聞く>ということが先にあります。聞いて、その結果として<信じる>ということが起きるのです。聞くためには、<宣べ伝える人>、伝道者、福音の宣教者がいなければ、聞くことはできません。

「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてあるとおりです。」(10:15)

宣教者は神によって召され、遣わされた者として、福音を宣べ伝えることができます。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と福音を宣べ伝える者に対する賛美の言葉が語られています。これは、イザヤ書52:7の引用で、イスラエルがバビロン捕囚から釈放されて帰ってくる、という喜ばしい知らせを歌ったものです。これをパウロは、キリストの福音を宣べ伝える者に当てはめて言ったのです。

「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、『主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか』と言っています。」(10:16)

<すべての人が福音に従ったのではありません>とは、ユダヤ人を指しています。そのためパウロは9章以下でユダヤ人の救いという問題を取り上げています。パウロは、イザヤ書53:1を引用しています。<聞く>ということは、いかにもやさしいことのように思うのですが、自分の考えとか、信念とか、自我を捨てて、受け入れるとが必要なのです。

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(10:17)

これは、ガラテヤ人への手紙3章2節に、「あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」とあるように、律法の業に対して信仰の聞くことを鋭く対立させ、業によってではなく、信仰の聞くことから聖霊を受けると強調しています。このように、<信仰はキリストの言葉、福音を聞くことによって始まる>は、パウロの基本的な福音理解の一つです。

 「それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。『その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ』のです。」(10:18)

 <彼ら>とはユダヤ人(イスラエル人)のことを言っています。詩篇19:14を引用し、<その声(福音)>は全地に響き渡って>いるのに、彼らは聞いているのに、信じないのです。

 「それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、『わたしは、わたしの民でない者のことであなたがたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう』と言っています。」(10:19)

 <分からなかった>とは、聞いても、それを悟らなかたということです。そして信じることが出来なかったということです。それについて申命記32:21の言葉を引用します。申命記のもとの意味は、イスラエルが偶像を拝んだために、神様はイスラエルよりも他の民、つまり神を知らない異邦の民、つまり、愚かな民を愛して、イスラエルにねたみを起させ、怒らせよう、という意味です。それが今、その通りになったとパウロは言うのです。

「イザヤも大胆に、『わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いだされ、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した』と言っています。」(10:20)

次に、イザヤ書65:1を引用して、<わたしを探さなかった者たち>、<わたしを尋ねなかった者たち>は、異邦人を指しています。異邦の民によって神は見いだされ、また神も御自分を顕した。選民イスラエルが、神の民でありながら、神をしらないでいることを嘆いているのです。この預言も、今、その通りになったとパウロは言うのです。

「しかし、イスラエルについては、『わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた』と言っています。」(10:21)

イザヤ書65:2節を引用し、そのような<不従順で反抗する民>イスラエルに、神は、<一日中手を差し伸べた>というのです。イスラエルに、なお、救いの望みが残されているのです。

律法はユダヤ人と異邦人を区別し、分離しました。しかし、主イエスを信じる信仰には、ユダヤ人とギリシャ人との差別はありません。ここに信仰の世界性があります。ここに、新たな神の民が誕生したのです。主イエスは万民の主であり、呼び求める者に、はかり知り得ない富、すなわち恵みと生命と救いとが充満している豊かな富にあずからせてくださるのです。

「わたし(神)は、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」というイザヤ書の元の意味は、異邦人に向けて語られたものでした。神は異邦人にも、ユダヤ人にも<一日中手を差し伸べ>ておられるのです。

日本にカトリックの宣教がなされてから四百七十年以上(1546年~)、また、新教(プロテスタント)の宣教がなされてから百六十年以上(1861年~)も経つのに、大部分の日本人はいまだに福音に耳を傾けようとしない現実があります。終日手を差し伸べてくださっている神の憐れみをと忍耐を覚えつつ、「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによて始まる」のであから、みことばを熱心に宣べ伝えなければなりません。

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