富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「『神を愛し、隣人を愛しなさい』とは」

2021-07-31 03:57:22 | キリスト教

         ファリサイ派の人々が集まった中で、一人の律法学者の質問に答えて、「最も重要な掟」について話すイエス。

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

聖霊降臨節第11主日  2021年8月1日(日)      午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」 (エフェソ3・16-17)

                礼 拝 順 序

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 475(あめなるよろこび)

交読詩編   31篇(主よ、みもとに身を寄せます)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書22章34-40節(p.44)

説  教「『神を愛し、隣人を愛しなさい』とは」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                       

讃美歌(21) 483(わが主イェスよ、ひたすら)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏   

〇 オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、申し込みください。ズーム設定担当は、斎藤美保姉です。

                                                                         次週礼拝 8月8日(日)午後5時~5時50分    

                                                                        聖 書 コリントの信徒への手紙一、13章1-13節

                                                                        説教題  「パウロの愛の賛歌」

                                                                        讃美歌(21) 194 464 27 交読詩編 62   

            本日の聖書 マタイによる福音書22章34-40節

22:34ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。35そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。 36「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」 37イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 38これが最も重要な第一の掟である。 22:39第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 40律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

         本日の説教

<ファリサイ派>は、イエスの時代にサドカイ派と並んでユダヤ教の大きな勢力でした。律法学者は多くファリサイ派に属していました。<ファリサイ>は「分離した者」の意味ですが、律法を守ることを重視した彼らは、一般の人から自分たちを分離したことから、この名で呼ばれました。<サドカイ派>は、祭司や上流階級を代表していました。霊や天使や復活を否定したと言われており、律法の解釈や生活の実践の面で、ファリサイ派と対立していました。

 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まりました。そのファリサイ派の一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねました。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」

 そこで、イエスは最も重要な掟について話します。共通する「最も重要な掟」は、マルコ福音書12:22-31、ルカ福音書10:27にも記されています。

<律法>とは、神の意志を表すもので、行動を規律するための規定されたもので、十戒や、モーセ五書(創・出・レビ・民・申命記)や、律法書(トーラー)に書かれている様々な儀式の決まりごとが含まれています。<戒め>は、律法の一つを指します。<掟(おきて)>は、守るべき定めを意味します。<預言者>とは、旧約聖書中の預言書を指します。

イエスが言われた第一の掟は、申命記6章5節に基ずくものです。また、第二の掟は、レビ記19章18節に基ずくものです。

イエスが、<律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている>と言われたことから、それは<どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れており>、キリスト教会は旧約の多数の掟をすべて守る必要がなくなりました。<掟>は、愛に歩むこと(ヨハネの手紙二、6)、愛の倫理になりました。

 普通、「愛」とは、人間どうしのいつくしみの気持ちや男女の恋愛感情を指しますが、「神への愛」も、「隣人への愛」も、気持ちや感情といった情緒的なものではありません。

「神への愛」は、イエスが父なる神を全能の神を信頼し、日夜の祈りにおいて交わり、神と共に歩み、神のご意思に服従しました。このように、「神への愛」は、神への畏敬と、服従として理解されます。 「隣人への愛」は、他者の幸福のために他者に向かって行動することを意味します。ここでは自己愛と隣人愛とが要求されているのではありません。隣人愛と共に求められているのは、むしろ自己犠牲です。この愛もイエスが世のすべての人々を愛を分け隔てなく愛され、救うために十字架の死を遂げてくださったことによって真実の隣人愛を示されました。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」とは、全身全霊で神を愛しなさいということです。わたしたちが神を愛する前に、神が先にわたしたちを愛してくださったのです。わたしたちに対する神の愛は、神がわたしたちを救うために、御子をこの世に送られたこと、御子の生涯を通して、父なる神の御心が示されました。主イエスは、わたしたちの罪をあがなうために十字架の死を遂げ、わたしたちを天に招くために、復活されて、罪と死に勝利し、永遠の命に至る道を備えてくださいました。このことにより、わたしたちは神の愛を知ることができました。

神を愛すということは、神の愛に感謝し、この聖書によって示めされている神を、唯一の主として受け入れ、愛すことであり、自己の全存在において主である神を畏れ敬い、この神のご意思に服従するということです。

「隣人を自分のように愛しなさい」という掟は、自分と同等に愛すことであり、神を全身全霊で愛すこととは違いますが、第一の掟と<同じように重要>な掟です。イエスが要求している隣人愛は、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ15:12)と言われていますが、それを実行することはむずかしいのです。人間には自己愛があり、自己中心的な性癖が染みこんでいます。隣人の命を自分の命と同等に見なすことは、自然の感情では不可能なことです。

人間同志の愛は、不完全で弱く、愛する対象への偏りもあります。良心が備わったいるので、私たちは隣人愛を理想としながらも、それを実行できないジレンマの中にあります。実行しようと思う善を実行できないことを、聖書では、わたしたちの中に住んでいる罪のせい(仕業)だとしています

第一の掟は、このようなジレンマ(板挟み)を脱出するために定められているのです。人間は自分の力で罪の問題を解決することはできません。

人間は神がわたしたちを愛されたので、わたしたちも互いに愛し合う者となるのです(ヨハネの手紙一、4:11)。私たちはキリストの愛を受け入れることによって、真実の愛を経験することができるのです。神の愛はあらゆる真実の愛の源泉です。私たちは神の愛を受けて、この愛を原動力としなければ、隣人を愛すことはできないのです。私たちを愛して下さったキリストを愛すことによって、隣人を愛す力が与えられるのです。

神を愛すことは、人への愛を伴うものであり、人を愛すことは神への愛を前提とします。神への愛が欠けるなら、自己中心の罪から解放されず、自己満足の愛になってしまうのです。神への愛と人への愛は、相互に関係しているのです。

讃美歌21の483番は、人を愛すような愛を求めているのではなく、主を愛する愛を増したまえと祈り求める歌です。それは神を愛す愛であり、主イエスを最大の喜びとして、主に従っていく信仰の歌です。

1節は、「わが主イェスよ、ひたすら、いのりもとむ愛をば。増させたまえ、主を愛する愛をば、愛をば。」とあります。

作詞者は、アメリカの女性エリサベス・プレンティスです。彼女は牧師の家庭に生まれ、27歳のとき、牧師夫人となりました。彼女は教師でした。彼女は二人の幼い子供を亡くしました。この詩は、1856年、38歳とき、彼女が病の床で、心身の苦痛の中にあって作られました。原作の英文の1節では、祈りを聞き給え。3節では、「悲しも苦痛も、キリストへの愛を増してくださるなら、すべてが甘美となるだろう。これがわたしの祈りのすべてです。4節では、わたしの最後の祈りとなるだろう。」と歌っています。

主イエス・キリストを愛し、賛美することは、「父である神をたたえることになるのです。」(フィリピ2:11)

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