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日本福音教団 富 谷 教 会
週 報
聖霊降臨節第7主日 2021年7月4日(日)
午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を
成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住ま
わせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」
(エフェソ3・16-17)
礼 拝 順 序
司会 田中 恵子姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 197(ああ主のひとみ)
交読詩編 49篇(諸国の民よ、これを聞け)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)ルカによる福音書12章16-27(新p.131)
説 教 「『愚かな金持』のたとえ」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 456(わが魂を愛するイェスよ)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
〇 オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、申し込みください。ズーム設定担当は、斎藤美保姉です。
次週礼拝 7月11日(日)午後5時~5時50分
聖 書 ルカによる福音書7章11-17節
説教題 「やもめの息子を生き返らせる」
讃美歌(21) 533 474 27 交読詩編 18
本日の聖書 ルカによる福音書12章13―27
12:13群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」 14イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」 15そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」16それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。 17金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、 18やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、 19こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』 20しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。21自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
本日の説教
群衆の一人がイエスの権威を認めて、<先生>と呼び、遺産の分配について依頼しました。兄弟が父の遺産を分配するときには、長男は二をとり他の人は一を取ると定められていました。ここでは全部兄が取ろうしたのでしょう。
イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」とたしなめられ、この世の問題解決のために、わたしは来たのではないことを明らかにされ、地上の財の調停役を断りました。イエスはこの遺産争いの中に、厭うべき「より多く持ちたい」という人間の貪欲を見抜いたのです。
そこで、群衆一同に言われました。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と教えられました。<貪欲>とは、飽きることなくほしがる欲望、自己中心の欲望です。
それからイエスは、人のいのちと持ち物との関係をたとえで話されたのが、この「愚かな金持のたとえ」です。
ある金持ちの畑が予想以上に豊作でした。金持ちは収穫が多いことを喜び、「どうしよう。作物をしまっておく場所がない」といろいろ考えた末、思いつき言いました。ギリシヤ語原典を直訳すると、「こうしよう。(私の)倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに(私の)穀物や財産をみなしまい」こもう、そして自分(の魂)に言ってやるのだ、「(魂よ、さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。休んで、食べたり飲んだりして楽しめ」と、ひとりごとを言いました。
「私の作物」「私の倉」「私の穀物や財産」「私の魂」と、みな「私の」を追及する自我(エゴイズム)と富が強調され語られています。そして人間として生きる相手、隣人も神も語られていません。あたかも自力で生き続けることが出来るように思っています。また、金持ちは「飲み」「食い」「楽しむ」ことがただちに罪悪ではないが、神の恵みに感謝することのない傲慢と、翌年からは働かずにのんびりと享楽し、たくわえを食いつくそうとする貪欲にとらわれています。
その時、神がこの金持に語りかけます。神は、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言われました。この金持は、神のことも、隣り人のことも忘れ、自分のことしか考えず、ただ現世の生活と安易な人生の享楽のみを求めていました。
この金持の愚かさには、二つの誤りがありました。一つは、この世の自分の命を、希望通りにいつまでも長く、自分で持ち続けることができると考えていたことです。私たちの寿命は神の御手の中にあるということです。時期が来れば神の御心によって取り上げてしまわれるのです。この摂理を彼は頭に置いていなかったことです。もう一つは、豊作が神の恵みによるものであることを彼は忘れ、自分のためだけに穀物や財産を貯えたことにより、自分の魂に平安を与えることができると考えたことです。肉体的に楽をして、自分の好きなことをしていれば、その暮らしが裕福で、おだやかであり、自分の魂もそれで平安になる、と彼は考えていたことです。これは彼が、人の魂の平安とは何であるか、をわきまえなかったための誤りでした。人の魂の平安は神が共にいて下さり、神が与えて下さるものだからです。
このような二つの誤った考えのために、この金持は無意味な生涯を閉じななければなりませんでした。そして次の新しい世界、神のみもとへは何一つ持って行けず、彼の魂は神の目には全く価値のないものと認められることになってしまいました。
私は、1990年(平成2年)、当時56歳だったとき、胆石による胆嚢炎の3回目の再発で入院したとき、死を意識しました。そのとき、死への備えが全く出来ていないこと、天国には全く宝を積んでいないことを思い知らされました。このまま死んでは身の破滅だと思いました。まさに罪の裁きとしての死を覚えました。自分本位の生き方をしてきたことを懺悔いたしました。死ぬ前に生れ変わりたい。自己中心の自我から解放されて、感謝と喜びに満ちた愛の人に生れ変わりたい、と神に祈りました。
この金持は、富は本来神から与えられるものであることを忘れ、あたかも自分の占有物であるかのように思い、自分の富に安住し、自分を満足させるために使おうとしました。彼は、自分のことだけを追い求めないで、神のことを考え、人のことを顧みて、そのために彼の豊かな財産を利用すべきでした。
この愚かな金持のやり方は、人ごとではなく、実はわたしたち自身の現状にも当てはまります。わたしたちは、財産だけに限らず、知識や人格や人からの賞賛を求めて、ますます持ち物を増やして、自分の魂を満足させようと努力しているのではないでしょうか。
イエスは、「愚かな金持のたとえ」と話すにあたって、聴衆に「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。」と言われました。貪欲は財産だけに限りません。人に見せるための行為も、たとえそれが善行であっても、人からの賞賛を得ようとする行為は自己中心の欲望であり貪欲です。それはいわゆる地上の富です。人は善行をするにあたって、それを他人に見せることを心がけず、むしろ隠れた行為によって神からの報いを受けるという、天上の富をこそ求めるべきなのです(マタイ6:1-4)。
このように貪欲(むさぼり)は人が意識するより強く人々の心を捉えています。人は生まれながら貪欲であって、この欲から自分の力で逃れ出ることはできません。わたしたちはすべての貪欲から解放されて、正しい歩みができるように、主の導きを求めなければなりません。わたしたちは神のもとにいつか帰らなけれなりません。しかしそれはいつのことであるか、わたしたちには分かりません。わたしたちは常に神を意識して天に心をむけ、「神に出会う備え」を常にしていなければなりません。
「神の前に豊かになる」ということは、この世のことのみに捕らわれている小さな自我の束縛から解放され、キリストと共に生きる新しい命を与えられ、「何も持たないようでも、すべてのもの持つ」(コリント一、6:10)豊かな者とされることです。日毎に必要なものを豊かに与えられながら、神の栄光のために、また隣人を愛するために所有物が用いられ、「天に宝を積む」生き方ができるようにされることです。
パウロは、「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」(テモテ一,6:17)と教えています。