↑ 「あなたは奇跡を行われる神、諸国の民の中に御力を示されました。・・・あなたの道は海の中にあり、・・・羊の群れのように御自分の民を導かれました。」(詩篇77篇15、20ー21節)
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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
降誕節第一主日 (年末礼拝) 2020年12月27日(日) 午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
礼 拝 順 序
司会 田中 恵子姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 464(ほめたたえよう)
交読詩編 91(いと高き神のもとに身を寄せて隠れ)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)詩篇77篇1~16節(旧p.911)
説 教 「あなたは奇跡を行われる神」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 351(聖なる聖なる)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 1月3日(日)新年礼拝 午後5時~5時50分
聖 書 歴代誌下20章5~9節
説教題 「ヨシャファト王の祈り」
讃美歌(21) 368 367 27 交読詩篇 96
本日の聖書 詩篇77篇1~16節
1【指揮者によって。エドトンに合わせて。アサフの詩。賛歌。】
2神に向かってわたしは声をあげ、助けを求めて叫びます。
神に向かってわたしは声をあげ、神はわたしに耳を傾けてくださいます。
3苦難の襲うとき、わたしは主を求めます。夜、わたしの手は疲れも知らず差し出され、わたしの魂は慰めを受け入れません。
4神を思い続けて呻き、わたしの霊は悩んでなえ果てます。〔セラ
5あなたはわたしのまぶたをつかんでおられます。心は騒ぎますが、わたしは語りません。
6いにしえの日々をわたしは思います、とこしえに続く年月を。
7夜、わたしの歌を心に思い続け、わたしの霊は悩んで問いかけます。
8「主はとこしえに突き放し、再び喜び迎えてはくださらないのか。
9主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に断たれてしまったのであろうか。
10神は憐れみを忘れ、怒って、同情を閉ざされたのであろうか。」 〔セラ
11わたしは言います。「いと高き神の右の御手は変わりわたしは弱くされてしまった。」
12わたしは主の御業を思い続け、いにしえに、あなたのなさった奇跡を思い続け、13あなた の働きをひとつひとつ口ずさみながら、あなたの御業を思いめぐらします。
14神よ、あなたの聖なる道を思えば、あなたのようにすぐれた神はあるでしょうか。
15あなたは奇跡を行われる神、諸国の民の中に御力を示されました。
16御腕をもって御自分の民を、ヤコブとヨセフの子らを贖われました。 〔セラ
17 大水はあなたを見た。神よ、大水はあなたを見て、身もだえし、深淵はおののいた。
18 雨雲は水を注ぎ、雲は声をあげた。あなたの矢は飛び交い、19あなたの雷鳴は車のとどろきのよう。稲妻は世界を照らし出し、地はおののき、震えた。
20 あなたの道は海の中にあり、あなたの通られる道は大水の中にある。あなたの踏み行かれる跡を知る者はない。
21 あなたはモーセとアロンの手をとおして、羊の群れのように御自分の民を導かれました。
本日の説教
この詩編は個人の嘆きの歌の形式を取っていますが、詩人の「苦難」は、国家的・共同体の苦難の時を指しています。それは長期にわたっており、彼には解決が見えていません。
この状況は今日のコロナ禍の苦難の中にある世界の国々と同じです。この苦難を主なる神はなぜ顧りみられないのかを考えつめて詩人は苦悩しています。
表題の1節の「エドトン」「アサフ」は、自分たちの父祖と呼んでいる第二神殿合唱隊の祖先の名です(歴代上16:41)。神殿合唱隊指揮者による、アサフ作詞、エドトン作曲のの賛歌です。
「神に向かってわたしは声をあげ、助けを求めて叫びます。神に向かってわたしは声をあげ、神はわたしに耳を傾けてくださいます。」(2節)
「神はわたしに耳を傾けてくださいます」と訳すと、神が現実には聞いてくださらないことが、9節までの前半の中心問題なので前後関係が合いません。ATD旧約聖書注解詩編の私訳は「わたしに聞いて下さるように、大声で神に叫ぶ」と訳しています。原語を直訳すると、「わたしは声を上げ、叫んだ、神に向かって。わたしは声を上げ(叫んだ)、私に、神が耳を傾けることを。」となります。二度も声を上げて叫んだのです。
しかし、新共同訳聖書のように、「神はわたしに耳を傾けてくださいます」という訳文の方が良いように思われます。なぜなら、73篇のアサフの詩のように、神についての根本的な真理、77篇では、神が私たちの祈りを聞いてくださるという真理を、導入として歌ってから、3節以下の本題である現状の苦難の詩を歌い始めると解釈できるからです。
詩人は苦難の中で、神に信頼して祈ることが出来ず、神を思うことに転じます。神は三人称で語られます。
「苦難の襲うとき、わたしは主を求めます。夜、わたしの手は疲れも知らず差し出され、わたしの魂は慰めを受け入れません。神を思い続けて呻き、わたしの霊は悩んでなえ果てます。あなたはわたしのまぶたをつかんでおられます。心は騒ぎますが、わたしは語りません。」(3-5節)
3-5節には、詩人が不安に悩まされて、眠れない夜に、「耳を傾けてくださる」神を求め、「手は疲れを知らず差し出して」(祈りの姿勢を示す言葉)求めたが、「魂の慰め」を受け入れることができず、「神を思い続けて呻き、わたしの霊は悩んでなえ果てます。」(4節)という苦悩が歌われています。あなたは、私のまぶたを閉じさせない。私の心は乱れて、もの言うこともできません(5節)。4節と10節の最後にある「セラ」は、音楽用語で、休止という意味で、少し間をとるように指示しています
「いにしえの日々をわたしは思います、とこしえに続く年月を。夜、わたしの歌を心に思い続け、わたしの霊は悩んで問いかけます。 (6-7節)
6-7節において、詩人は、昔のことと今のことをあれこれ思い悩むうちに、神の恵みが終わって、神は沈黙されたのではないかという同じ質問を繰り返すだけで終わっています。この心に迫る告白は、彼の時代の悩みがどれほど深く神についての悩みになったかを物語っています。
「主はとこしえに突き放し、再び喜び迎えてはくださらないのか。主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に断たれてしまったのであろうか。神は憐れみを忘れ、
怒って、同情を閉ざされたのであろうか。」(8-10節)
この言葉は、もはや神は現れることなく隠れてしまい、神に突き放されてしまったのではないかという不安を歌っています。詩人は神の憐れみと恵みがなければ、ますます絶望に駆られます。そこまでどん底に彼の信仰は落ち込み、神の誠実を疑うようになって、詩人は、はっと気づかされました。
この問題に解決をもたらしたのは、11節に見られる転換です。
「いと高き神の右の御手は変わり、わたしは弱くされてしまった。」(11節)という告白によって、詩人の絶望的な認識、はっきり言えば不信仰に詩人は気付かされたのです。詩人は絶望の底に沈んで、始めて自分が人間の尺度で神をはかっていたことに気づき、神を神としない不信仰であることに突如として目ざめたのです。神がイスラエルを捨てたのではない、イスラエルが神を捨て、自分本位に勝手に捨てられた、と思い込んでいたのです。「神の右の手」とは、神のみ力、そして苦悩から御自身の民を救い出されることを表す用語です。イスラエルがエジプトから救い出され、一つの民として守り続けられ、保たれてきたのは、実にこの主の右の手によってでした。神が神である以上、その御心が変わるわけはない、その御手が変わって無力になるなどというわけがないのです。神はイスラエルにどう見えても、イスラエルの神たることに変わりはありません。たとえ捕囚の時代となり、外側がすべて変わってしまったとしても、それをもって神が変わったなどということがあろうはずはありません。イスラエルがそう思いこんで、神との関係を自分の方で心を閉ざしてしまったのです。
このことが分かって詩人は12節以下で改めて神を二人称で「あなた」と呼びかけ、過去の歴史を回顧しつつ、全能なる神の御業をそこに再発見しようとします。
「わたしは主の御業を思い続け、いにしえに、あなたのなさった奇跡を思い続け、あなたの働きをひとつひとつ口ずさみながら、あなたの御業を思いめぐらします。神よ、あなたの聖なる道を思えば、あなたのようにすぐれた神はあるでしょうか。あなたは奇跡を行われる神、諸国の民の中に御力を示されました。御腕をもって御自分の民を、ヤコブとヨセフの子らを贖われました。」(12-16節)
詩人は12-16節において、昔行われた神の奇しき御業を想起し、その御業を賛美することを始めました。詩人は神の聖さ、偉大さを驚嘆します。「あなたは奇跡を行われる神」と告白します。
17節から、詩人は天地の創造の世界に目を転じます。「大水はあなたを見た。神よ、大水はあなたを見て、身もだえ、深淵はおののいた。」ここにおいても神の偉大な業を述べています。20節はまた歴史の世界に戻り、海を渡る紅海の奇跡、シナイの荒野における神の救いは、神の尊厳と威力を示す出来事であることを回想します。
17節に、「大水はあなたを見た」とあり、20節には、「あなたの通られる道は大水の中にある。あなたの踏み行かれる跡を知る者はない。」とあります。神がイスラエルを助けたその道は確かに大水の中につくられたが、その海にできた道・神の「足跡」は、海の中に消えてしまいます。しかしそれは救われた民を通して確かに証しされています。これらのみわざの目的は、神が「モーセとアロンの手をとおして、ご自分の民を、羊の群れのように導く」(20節) ことにあったのです。
それは、ご自身の民を、神が自然を超えたところから支配し、介入することによって、民が苦難の中から救われた出来事でありました。そうであるなら、神は、現在、苦難の中にある民を、今も助けることができる生ける神であるはずです。今は希望のないような現実であっても、この生ける神に、希望を持って完全に身を委ねることが信仰であることを詩人は告白します。そして、同じ信仰がわたしたちに求められています。そこから、希望ある未来へ生きる転換が可能となります。わたしたちも、「あなたは『全能の父なる神』『奇跡を行われる神』」と神の「右の御手」を信じ、賛美しようではありませんか。