↑ “The Deliverer will come from Zion, he will banish Ungodliness from Jacob.” (ギリシャ語原典訳)「(罪と死より)救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心(の罪)を取り除かれる。」
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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
待降節第二主日(アドベント) 2020年12月6日(日) 午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
礼 拝 順 序
司会 齋藤 美保姉
前 奏(242の2 キャンドル点灯) 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 356(インマヌエルの主イェスこそ)
交読詩編 96(新しい歌を主に向かって歌え)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)イザヤ書59章12~20節(旧p.1152)
説 教 「旧約における救い主の来臨の預言」辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 231(久しく待ちにし)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 12月13日(日)午後5時~5時50分
聖 書 イザヤ書7章10~14節
説教題 「インマヌエルの告知」
讃美歌(21) 231 175 27 交読詩篇 46
本日の説教 イザヤ書59章12~20節
59:12御前に、わたしたちの背きの罪は重く、わたしたち自身の罪が不利な証言をする。背きの罪はわたしたちと共にあり、わたしたちは自分の咎を知っている。
13主に対して偽り背き、わたしたちの神から離れ去り、虐げと裏切りを謀り、偽りの言葉を心に抱き、また、つぶやく。
14こうして、正義は退き、恵みの業は遠くに立つ。まことは広場でよろめき、正しいことは通ることもできない。
15まことは失われ、悪を避ける者も奪い去られる。主は正義の行われていないことを見られた。それは主の御目に悪と映った。
16主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのを驚かれた。主の救いは主の御腕により、主を支えるのは主の恵みの御業。
17主は恵みの御業を鎧としてまとい、救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい、熱情を上着として身を包まれた。
18主は人の業に従って報い、刃向かう者の仇に憤りを表し、
敵に報い、島々に報いを返される。
19西では主の御名を畏れ、東では主の栄光を畏れる。主は激しい流れのように臨み、主の霊がその上を吹く。
20主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると、主は言われる。
本日の説教
66章からなるイザヤ書は、1章からの39章までは、預言者イザヤの書、40章から55章までは、第二イザヤの書、56章から66章までは、第三イザヤの書として区別しています。
第三イザヤ(B.C.539~441)は、第二イザヤの感化を強く受けた預言者です。第二神殿(B.C.515年)が再建された時代から、ユダヤ教団の改革と確立までの時期に活動したと想定されます。5年の歳月を経て待望の第二神殿は完成し、祖国復興の精神的基礎はできたはずでした。しかし、第二イザヤの預言に示されているような状態にはなっていません。独立を目指すメシア王国は未完成のままでした。神殿を中心とする新しい救済の時代は到来しませんでした。宗教的な夢が破れユダヤの民は、政治的にサマリアその他の近隣地域に依存しつつ、細々と生き延びていくだけでした。ユダヤ人たちは、政治的にも、精神的にも行きづまり、退廃していました。ユダヤ人たちの間には、神に敬虔な者とそうでない者との分裂があり、支配者や富める者が貧しい者を圧迫していました。
第三イザヤの預言は、このような神殿再建をめぐる熱い期待と深い失望の中でなされた、救済の使信であり、民の嘆きであり、審判の言葉です。再建されたエルサレムとそこでの生活が多くしるされ、安息日、祈りの家、断食が強調されています。
「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが身を戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか」(58章3節)というイスラエルの民の疑問と神への訴えが記されています。58章では、それは、彼らの信仰が形だけで、社会的不正が行われており、断食や安息日遵守も形式的なものになっていると告発しています。
「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(59章1-2節)
神は働きたまわないのか、主の手は短くて救うことができないのか、と言う民のつぶやきに対して、預言者はその理由は民の罪にあることを指摘します。神が彼らを見捨てたのではありません。彼らが神に背いたのです。彼らの咎が、彼らと神との仕切りとなり、彼らの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのです。彼らがそのようになったのは、すべて彼ら自身に原因があったのです。
「お前たちの手は血で、指は悪は悪によって汚れ、唇は偽りを語り、舌は悪事をつぶやく。正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者もない。まなしいことを頼みとし、偽って語り、労苦をはらみ、災いを産む。」(3-4節)
手は血で汚れ、指は悪で汚れています。くちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやきます。正しい訴えをする者も、真実をもって弁護する者もなく、むなしいことにたより、うそを言います。人を陥れるような言動をし、事実、人を陥れるのです。暴虐と圧制があり、権力者は裁判において、金や力を笠に着て弱いものをしいたげていると社会的不正を罪として告げます。
「彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流そうと急ぐ。彼らの計画は災いの計画、破壊と崩壊がその道にある。彼らは平和の道を知らず、その歩む道には裁きがない。彼らは自分の道を曲げ、その道を歩む者はだれも平和を知らない。」(7-8節)
彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速いのです。彼らは平和の道を知らず、その道には公平がありません。彼らは自分たちの道を曲げ、そこを歩く者はだれも、平和を知らないのです。
この言葉を、パウロが「正しい者は一人もない」と、すべての人間が、皆罪の下にあることを記すのに用いています(ローマ3章15-17)。これが人間の姿です。イザヤは罪が救いの到来を妨げている状況を指摘しますが、パウロはこの箇所を引用して、ユダヤ人の罪の中に、全世界の人間の罪というものが最も深い形で示されていることを見たのです。
預言者イザヤは、1節から4節までは、<お前たちは>と語り、5節から8節までは、<彼らは>と言って、彼らの罪を指摘しました。しかし、9節から11節では、<わたしたち>という言葉に変わります。預言者は民の一人として、罪の現実を嘆きます。預言者は民の罪を指摘し、裁くのではなく、民と共に罪を嘆き、民に代わって罪を告白し、とりなしの務めをします。
「それゆえ、正義はわたしたちを遠く離れ、恵みの業はわたしたちに追いつかない。わたしたちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ、輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている。」(9節)
<それゆえ>とは、自分たちの罪のゆえに、ということです。神の正義から遠く離れてしまっているわたしたちイスラエルの民の祈りは、もはや神の耳には届きません。
「正義を望んだが、それはなかった。救いを望んだが、わたしたちを遠く去った」(11節b)
それは、神がイスラエルの「訴えを無視している」というのではなく、罪によって、その声が届かなくなっているのだと第三イザヤは説きました。
「御前に、わたしたちの背きの罪は重く、わたしたち自身の罪が不利な証言をする。背きの罪はわたしたちと共にあり、わたしたちは自分の咎を知っている。」(12節)
わたしたちの背きの罪は重いことを正直に認めています。私たちの罪は、単なる行為としての罪ではなく、そむきの罪は常に自分にまとわりついている性質としての罪だと告白しています。
「主に対して偽り背き、わたしたちの神から離れ去り、虐げと裏切りを謀り、偽りの言葉を心に抱き、また、つぶやく。」(13節)
わたしたちは主なる神に対して偽り、そして背き、わたしたちの神からすっかり離れ去ってしまい、虐げと裏切りを謀り、偽りの言葉を心に抱き、また、つぶやくような始末ですと告白します。3節から8節までのところで、「あなたがたはこうだ」と神が言われたことに対して、「そうです、その通りです」と、それをそっくりそのまま認めている形になっています。主語が「わたしたち」に変わっただけです。しかし、ここから本当の救いが始まります。
「こうして、正義は退き、恵みの業は遠くに立つ。まことは広場でよろめき、正しいことは通ることもできない。」(14節)
こうして、神への不従順から公平と正義はわたしたちから離れ去ってしまい、主なる神の恵みの業は、わたしたちから遠く離れたところにあります。正義がなければならない公開裁判の場である広場に、主なる神の正義は、そこに満ちた悪と罪のゆえによろめき、主なる神の正義はそこを通ることもできない。
「まことは失われ、悪を避ける者も奪い去られる。主は正義の行われていないことを見られた。それは主の御目に悪と映った。」(15節)
人々の間に、まことはすっかり失われてしまい、悪を避ける者たちも、悪を行う者たちによって亡き者とされてしまった。主はそれを見て心を動かされたのです。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができないのを見られて、心を痛められたのです。
第三イザヤは同胞の罪を自己の苦しみとして嘆くばかりでなく、神の前にその罪を告白しているのです。罪も咎も皆究極的には神に対する反逆に外なりません。罪の告白こそが、やがて救いに至る第一歩です。絶望はここに姿を消し、暗黒に光がすでに差し込んでいます。ここで神自らが登場し、罪と戦う勇士として描かれます。
「主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのを驚かれた。主の救いは主の御腕により、主を支えるのは主の恵みの御業。 」(16節)
主は、真実を支える人、公義のないのを見て、心を動かされました。主はこの罪に立ち向かう人のいないのを見て、また、とりなす者がいないのを見て驚かれました。人間の側には、この罪から救うことのできる人は誰もいないということです。だからこそ、主が立ち上がってくださったのです。だから主はご自身の御腕によって救いをもたらしてくださるのです。
「主は恵みの御業を鎧としてまとい、救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい、熱情を上着として身を包まれた。」(17節)
ここには、復讐の衣を身にまとい、熱情を上衣として身におおわれた」とあります。<復讐>とか<熱情>とは、神が、義と救いとさばきにおいて、熱心に働かれるということです。まさに救いは私たちの力ではなく、主の熱心によるのです。ここでは義や救いが身につけるものとして表現されています。
「主は人の業に従って報い、刃向かう者の仇に憤りを表し
、敵に報い、島々に報いを返される。」(18節)
主は彼らのしうちに応じて報い、その仇には憤りを報い、その敵には報復をし、島々にも報復します。<敵に報い>の敵は、神の民の内部にある悪しき者をさします。民の中で悪をなす者を裁き、さらに、イスラエルに敵する国々を裁かれます。
「西では主の御名を畏れ、東では主の栄光を畏れる。主は激しい流れのように臨み、主の霊がその上を吹く。」(19節)
主は報復するために、激しい流れのように来られるというのです。その時に主は彼らのしうちに応じて報い、その仇には憤りを報い、その敵には報復をし、島々にも報復をされるのです。そして、西の方では、主の御名が、日の昇る方では、主の栄光が恐れられます。主の報復はまるで激しい流れのように来られ、その中で主の霊が吹きまくるのです。
「主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると、主は言われる。これは、わたしが彼らと結ぶ契約であると主は言われる。」(20-21節)
主なる神はシオンと<罪を悔いる者>のところに<贖う者>として来ることを約束します。ここには、<罪を悔いる者のもとへ来る>とあります。パウロはこのイザヤ書59章20-21節の預言を次のように引用しています。
「26救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。27これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶわたしの契約である。」(新共同訳ローマの信徒への手紙11章26-27) ネストレ・アーラントの「ギリシア語新約聖書」にもそのように記されています。最も重要な違いは「救う方」が「不信心を取り除く」ということです。27節でも繰り返して強調しています。つまり悔い改める者に赦し、贖いが与えられるというのではなくて、不信心な罪人から、救い主ご自身が不信心、罪を取り除いて下さると言われているのです。人間の悔い改めが先にあり、それに対して神が赦し、救いを与えて下さるのではなくて、神によって遣わされる救い主が、罪人から罪を取り除き、救ってくださるのです。
第三イザヤが預言した「贖う者」が来るという約束の成就を、わたしたちはどこに見るでしょう。神の義は、どのようなかたちで実現されたでしょう。神は御子を十字架につけることによって義を貫かれました。罪を裁き、不信心を取り除いてくださったのです。罪の根である神と人とに対する誇り、自己顕示欲という不信心を取り除き、霊に従て歩む道が開かれたのです。わたしたちを贖う者、罪から解放する者としてこの地上に来てくださったのがイエス・キリストです。愛と憐れみにみちたイエスこそ、罪と戦って打ち勝ち、復活され、わたしたちを死の支配から解放し、神の支配、神の国を現実のものとしてくださった救い主です。