富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「人間の創造」 創世記2章4b~9、15~25節

2017-10-29 01:28:20 | キリスト教

↑ ミケランジェロ・ブオナロッティ 「アダムの創造」(システィーナ礼拝堂天井画部分) フレスコ 280x570cm  1510年作

ヴァチカン、システィーナ礼拝堂

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句 「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようになさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

      降誕前第9主日  2017年10月29日(日)    午後5時~5時50分

              礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)   6(つくり主を賛美します)

交読詩編   19(天は神の栄光を物語り)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)  創世記2章4b~9、15~25節 (p.2)

説  教    「人間の創造」      辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   355(主をほめよ、わが心) 

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏  

 

               次週礼拝 11月5日(日)午後5時~5時50分

                 聖書   創世記4章1~10節

                 説教     「堕落」

                 讃美歌(21)449 441 24 交読詩編51篇 

  本日の聖書 創世記2章4b~9、15~25節

  4b主なる神が地と天を造られたとき、5地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。

    6しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。7主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。8主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。9主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。…………

 15主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。16主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。17ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

 18主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

  19主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。20人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。

  21主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。22そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、23人は言った。「ついに、これこそ  わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」

 24こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。25人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。

          本日の説教

 創世記の一章一節には、「初めに、神は天地を創造された」とあります。そして神が宇宙や世界、そしてあらゆる生き物を造られたことが記されています。

  しかし、現代の自然科学的宇宙論や人間を含めて動植物の進化の過程を知っている現代人にとって、聖書の物語はでたらめな神話にすぎないとして、否定してしまう人が多いのではないかと思います。自然科学が究明しようとしていることは、自然現象の生成過程についての客観的な事実の解明です。それに対して聖書の記している創造物語は天地の起源という物語を通して、この世界の存在の意味や、人間の生きる目的についての真理を知ることにあります。

創  世記の天地創造は、世界がどのようにして成立したか、を説明するために記したのではありません。そうではなく、世界と人間の存在の意味はどこにあるのか、という根源的な課題に答えたものです。

  創世記一章の天地創造は、およそ紀元前六世紀頃、バビロニアの捕囚(ほしゅう)の地、バビロンでイスラエルの祭司記者によって書かれました。イスラエルのユダ王国はバビロニア帝国に滅ぼされ、多くの民は捕囚の民として連れ去られ、苦役に服しました。紀元前597年から538年にかけて、60年近い捕囚の時期がありました。彼らにとって、そこは「異教の地」であり、多神教と偶像礼拝の支配している地でした。バビロニアの勝利はバビロンの神の勝利であると誇り、イスラエルの敗北と亡国は、彼らの信じるヤーウェ(主なる神)の敗北としてあざけられ、彼らは屈辱を味わいました。それは大きな変動と荒廃の時代でした。このような崩壊と虚無の中から、祭司記者といわれる人々は、まず<世界>の存立の根源を問いはじめました。創世記の創造物語は、こうした激動期に捕囚地バビロニアで成立したのです。この創造物語は、バビロニアの創造神話からの影響の下に成立したと言われています。バビロニア神話の方は多神教ですが、聖書の創造物語の方は、イスラエルの唯一神教の信仰によって修正され、独創的なものになっています。人間とはどのような存在であり、どのように生きるべきか、という当時の緊急かつ根源的な課題に答えたものです。イスラエルの民は、偶像を崇拝するバビロニアの民に精神的に屈することをしませんでした。深い悔い改めとともに、国を失ったのは自分たちの罪の故であることを認め、神に選ばれたイスラエルの歴史を回顧し、唯一の創造神を信じ、神は必ず自分たちを守り、この苦役から解放してくださると期待したのです。

 イスラエルはこの創造物語において、歴史を開始し、これを治め、これを審き、かつ救う全能の主なる神を告白しているのです。この言葉の根底には一切のものの造り主である創造者への賛美と神への服従があります。

  一章では、創造の最後の業として、神は人間を創造されました。神は「神にかたどって創造された。男と女に創造され」ました(1・27)。<ご自分にかたどって>は、ヘブライ語を直訳すると、「われわれの像として」となります。神が自らを<われわれ>と複数形表現しているのは、「主なる神を中心とした天的存在の議会」というイスラエルのイメージに由来します。人が「神の像として造られた」ということは、人間の外形が神に似ているという意味ではなく、人間が神と霊的に交わることができる、神に向き合う者として造られたということです。人間は「神の像」としての尊厳と地を支配する機能を担うべき存在として創造されたのです。

  二章四節後半以下に「主なる神が地と天を造られたとき」となっており、再び人間創造の記事が出てきます。人が一番始めに造られ、その後、動物が造られています(2・19)。造られた順序も逆になっています。二章の創造物語は、時代は古く、紀元前九世紀にカナンの地で書かれたと推定されています。異なる二つの資料をつなぎ合わせたものと考えられます。しかし、このことは聖書が神のことばであるこことは矛盾しません。聖書が神のみことばであることは、用語や文体にあるのではなく、その内容がわたしたちに語りかける神のみことばだからです。二つの創造物語は、より豊かに創造物語を伝えています。

「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。」(創2章7~9節) 

  人間は「土の塵で造られ、他の動物も「土」で造られています。これは人間が物質的な面から見れば、他の動物と共通性をもっていることを示しています。「土の塵」という表現に、人間のはかなさ、もろさがよく表されています。やがて人間は「土の塵にかえる」(3・19)もの、死ぬべき、朽ちるべきものです。しかし人間は、神の「命の息」によって「生きる者」とされています。人間は息をしながら生きる存在であり、「息」は、ヘブライ語では「霊」をも意味します。人間は、神の特別な恵みによって、他の動物とは違った尊い人格として造られています。「エデン」とは元来は地名ではなく、イスラエルでは「至福」という語と関連づけられ、「水が豊かにあるところ」(13・10)という意味で、「エデンの園」は、荒れ野の中のオアシスの意味で理解されていました(イザヤ51・3)。七十人訳(ヘブライ語からギリシャ語へ)は、園を「パラディソス」(楽園)と訳したが、この語は元々「柵や壁で囲んだ所」と言う意味のペルシア語に由来したものです。

 「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」(2・15~17)

 神はエデンに園を造り、人をそこへ置き、耕作させ、守るようにされました。<善悪の知識の木>からは、決して食べてはならない、命じられました。<善悪の知識の木>の、<善悪>は「すべて」を意味し、「知る」ことは「できる」ことに通じるところから、「全知全能」すなわち神のようになることができるという意味になります。人間が他の動物とは違って、尊い人格、自由な主体として生きる者とされていることを示すのが、エデンの園の「禁断の木の実」です。禁断の木の実が人間だけに与えられていることこそ、人間が「自由な人格」として造られていることを知ることができるのです。人間は与えられた自由を用いて神に従うことも、神に背くことも出来るのであって、そのことが人間が自由な責任ある主体であることを示しています。<食べると必ず死んでしまう>のは、本来は<善悪の知識の木>ではなく、<命の木>の実のはずなので、元来は一本の木の物語で、あとから二本の木の物語に編集されたのではないかと推測されます。

「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』……主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。『ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。』こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」(2・18、21-25)

    ミケランジェロ 「エヴァの創造」

 <独りでいるのは良くない>の<良くない>は、目的、理想などに照らしてみて「かなっていない」の意味です。人が本来共同体的人格として造られたものであることを物語っています。男だけでは真の人間の創造にはならないのです。<助ける者>も「助け合って生きる相手」のことであり、人を孤独から助けるのに最もふさわしいパートナーという意味で。人には、<彼に合う助ける者>、共存者、協力者が必要です。人間は本来神との関係の中で造られたものです。人間も男女が互いに向い合う人格的な関係が必要なのです。共同存在を本質としてる人間が他者との共同に入ることが出来ない悲惨は、罪の結果生まれたものです。人の<あばら骨>の一部で女を造ったとは、人間の愛情の座である胸からといことであり、男女とも同じ材料から造られたということです。機能の違いはあっても、男女の存在の平等性が言われています。<わたしの骨の骨、わたしの肉の肉>は、親密な共同体関係にあることを言い表します。<一体となる>は、肉体的な性関係だけではなく、人間の実存の全領域にかかわる共同体的一体性を意味しています。人と人との交わり、夫婦の関係についての素朴な表明がここでなさていま す。夫婦の関係が、親子の血縁関係よりも強いものとされています。「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」ここでの<恥>の感情は、性的羞恥心というよりも、むしろ<裸>と関連しており、自分や自分の弱さをそのまま相手にさらけ出して、お互いに裸であることを認め合えないような関係の欠如が「恥」という感情で表現されています。

 創世記の人間の創造、男女の創造神話は、科学以前の時代の産物でもないし、幼稚な思考の結果といったものではありません。そこには神話的表現を借りながら深い真理が語られているのです。人間存在のあるべき姿が示されています。それは現代人にとっても有益な神のみことばであることには変わりありません。

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