富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

 「苦難の中の喜び」 

2015-07-26 16:19:27 | 説教

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

聖霊降臨節第10主日     2015年7月26日(日)  5時~5時50分 

         礼   拝   

前 奏            奏楽   辺見トモ子姉

讃美歌(21)  528(あなたの道を )

交読詩編    84(万軍の主よ)   

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書    ペトロの手紙一、3章13~22節 (共同訳[新]p.432)     

説 教        「苦難の中の喜び」   辺見宗邦牧師

讃美歌(21)  531(主イエスこそわが望み) 

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

                                      次週礼拝 8月2日(日)午後5時~5時50分

                                      聖 書  ローマの信徒への手紙12章9~21節

                                      説 教   「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」  

                                      讃美歌(21) 149 540 24

本日の聖書 ペトロの手紙一、3章13~22節

 13もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。 14しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。 15心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。 16それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。 17神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。 18キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。 19そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。 20この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。 21この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。 22キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。

本日の説教

  ペトロの手紙一は、手紙の形式を備えた信仰者を激励する書です。紀元110年頃、ロ-マ帝国のトラヤヌス帝の時に小アジア(現在のトルコ共和国)のビティニアで大迫害が起こり、それが北部小アジア地方にも広がりました。ペトロの手紙は、ペトロの名で迫害の恐怖にあったその地方の信徒たちに宛てて書かれた牧会的な文書です。洗礼の恵みを思い起させ終末の希望を確信させることによって彼らを励まし、キリストの苦難に積極的に参与するキリスト者の生き方を勧めています。手紙全体を覆っているのは迫りくる迫害の苦難です。そして苦難に耐え抜くことによりキリストの苦難にあずかり、そしてキリストの栄光にあずかる励ましと慰めとが主題となっています。

  著者はペトロの感化のもとにあった一人のすぐれた指導者であり、書かれた場所はローマと推定されています。

   1章1節に記されている「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地」とは、一~二世紀のローマ帝国の小アジアの四つの属州の名称であり、大体アナトリア全域(現在のトルコの大部分)にまたがっています。「離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」とは、ユダヤ人ではなく、むしろキリスト者一般を指していると思われます。このアナトリア地域には多種多様な人間が住んでおり、多くの民族、文化、宗教が混在していました。この手紙の受け取り人たちは、キリスト者となる前にユダヤ人の会堂で「神を畏れるものたち」(使徒言行録10・2)と呼ばれて、旧約聖書の教えを受け、ユダヤ教の生き方に賛同していた異邦人であったと考えれています。彼らはキリスト教に改宗して間もない小さな共同体で、その多くは社会的地位も低く、奴隷や異邦人の夫を持つ婦人や若者たちがかなり多くいたようです(2・18~3・7、5・5)。

   迫害の攻撃にさらされている、この新しい改宗者たちに、義のために苦しむこと、<肉の欲>を避け、キリスト者としての「聖い生活」をし、<異教徒の間で立派な生活>をし、聖化を達成するようにと励ましています(2・11~12)。

   本書において特に際立っているのは、<苦難の中の喜び>という主題が展開され、それを現実の生活の中で実践すべきことが強調されている点です。冒頭から苦難を受ける決意が語られています。

    「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが(1・5,6)」、と苦難に耐え、試練に打ち勝つことによって、栄光と喜びに至ることが語られています。

   3章13~22節では、苦難の中にある読者を励ますために、<正しいことのために苦しむ>ことの意義が語られます。

    「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」(3・13~15)

   熱心に善が実行されるとき、本来危害を加える者はあり得ないはずですが、しかし現実にはこのあり得ないはずの事が起こります。多くの場合、この時代の迫害は、伝統を固執するユダヤ教徒の敵意のこもった暴力的行為、利益にからむ異教徒の策動が主たる原因でした。

   信仰のゆえに受けなければならない迫害に直面しているキリスト者に対して、「義にために苦しみ受ける」ことと、「心の中でキリストを主とあがめること」を勧めています。この二つはイエスご自身の教えにまでその跡をたどることができます。

   義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5・10~12)

   彼らを「恐れたり、心を乱したりしてはいけません」。それゆえ、キリスト者は「抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備え」をしているべきです。

   それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。」(3・16)

    しかも弁明は穏やかであるべきで、ごうまんな自己主張であってはなりません。<穏やかに>という言葉は、どのような苦難の中にあっても、他人に愚痴をこぼしたり責任をなすりつけたりすることなく、謙遜にひたすら耐えて神に服従することであり、この語はイエス自身の人柄を表し、キリスト者の基本的な生き方の姿勢を示しています。<正しい良心>とは、聖霊を受け神と共に物事を判断するキリスト者の心の在り方が意味されています。この世からそしられたキリスト者にふさわしい武器は「キリストに結ばれた善い生活」です。

   神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです」(3・17、18)

   キリストの受難の意義の要約が記されています。ここではキリストの受難の<ただ一度>が強調され、そのいけにえが<あなたがたを神のもとへ導くため>であるとされています。<導く>は、ここでは祭司であるキリストが自分自身をいけにえとして<罪のために>ささげたことにより、人間が神に近づくことができるようになったという意味です。<霊では生きる者とされた>は、「神によって死からよみがえらされ、神の霊を与えられ、生きる者とされた」ということです。それはまさにキリストがわたしたちを「神のもとへ導くため」でした。

    「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。」(3・19、20)

   <捕らわれていた霊たち>とは、神に服従しなかった者たちのことです。当時創世記6章の堕落の天使は、地下の獄に投獄されたとの一般的な信仰がありました。彼らの堕落は、ノアの洪水以前の罪悪に密接に関係していたので、ノアの時代に神が忍耐して待っておられてのに従わなかった人々に、彼らも含めて考えられています。また、ノアの箱舟のときに神様に従わなかった人々たちに、キリストの福音に従わなかった後の時代の人たちも含まれているのです。

   イエスは死んで陰府(よみ)にまでくだりました。しかし、復活させられ、神の霊によって生きる者とされました。イエスは死の支配下にある捕らわれていた霊たちのところへ行き伝道され、彼らを死の支配から解放し、御自分の支配下におきました。4章6節にこうあります。「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」とあります。霊において生きるようになるためにイエス・キリストは死者たちに伝道をされたのです。イエスの贖罪はすでに死んだ者に対しても救いとなったのです。

   ノアは、聖書では、義人の代表者の一人とみなされています。<箱舟>は、後に十字架の型、教会の型と考えられるようになったが、ここでは洗礼との関連で取り上げられています。<八人>とは、ノアとその妻、そして三人の子セム、ハム、ヤフェトとその妻たち(創世記7・7)ですが、彼らは神の言葉に服従し破滅から救われたという点で、キリスト者の象徴でもありました。<水の中を通って>は、ノアたちが水を渡って箱舟に入り、洪水の中を通って安全な場所へ導かれたように、キリスト者は洗礼の水の中を通り、その水によって救われるという意味の両方をこの語句にもたせています。

   この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」(3・21)

   ノアの洪水の水は、審判と救いをもたらすゆえに、バプテスマの象徴です。救いは、キリストの復活にもとずく死の中よりの救いです。洪水は、不服従者にとっては破滅ですが、服従したノアたちには彼らの箱舟を浮かせ安全地へ運んだという意味で救いでした。<肉の汚れを取り除くことではなくて>には割礼が暗示されています。キリスト教の洗礼は不浄を除去する儀式的行為ではなく、神に正しい生活態度をとることを約束し誓うことにあります。イエス・キリストが正しい方でありながらも正しくない罪人である人間のために死んで下さり、復活なさいました。そのイエス・キリストの救いの出来事を信じ、洗礼を受けるのです。私たちが洗礼を受けるのは、それまでの罪に死に、新しい命に生きるためです。それは主イエスにおいて起きた復活に、わたしたちもあずからせていただき、主イエスと共に、神に生きる新しい歩みを始めるのです。

   キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。 」(4・22)

    復活のキリストが現在、神の主権をもって、人間だけでなく<天使><権威><勢力>と呼ばれる超自然的存在を含むすべての支配者であることを告げます。

    「復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです…わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」(ローマ8・34、37)

   キリストは「見よ。 わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいる(マタイ28:20)」と約束されました。キリストがどのような時も共にいて下さることを信じて、キリストにある勝利を確信して、この世の悪と戦いながら歩んでまいりましょう。

  今年は、高山右近が徳川幕府による迫害でマニラに追放され、亡くなってから、450年になります。ようやく、日本のカトリック教会の方々の念願であった、右近を殉教者の福者とする申請がバチカンに了承され、遅くとも来年一月までには認定される見通しとなりました(毎日新聞6月21日東京朝刊発表)。右近が亡くなる数日前、自分の死期の近づいていることを知って、モレホン神父に語った言葉を紹介いたします。

 「パ―ドレ(「神父さま」の意)。私はまもなく召されると思いますが、神がそれを希望し給うのですから私は喜び慰められています今ほど幸せな時が、これまであったでしょうか。私は妻や娘・孫たちについては、何も心配していません。彼らと私は、キリストのために追放されてここに来ましたが、彼らが私について、この土地まで来てくれた愛情に、深く感謝しています。神のためにこのような境遇になったのですから、神は、彼らにとって真実の父となり給うでしょう。」

  まさに右近は、最後まで「苦難の中でも喜び」を与えられて生きた人でした。

 

 

 

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