富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

バビロニア小史と歴代王(旧約聖書との関連)

2014-10-17 01:51:19 | 聖書

       バビロニア小史と歴代王(旧約聖書との関連)

   バビロンは〈神の門〉を意味するアッカド語のバビリムBab.ilimに由来し,聖書ではバベルBabelと記されている。バベルBabel(神の門)とはバビロニアの天界にいたる山、つまりジッグラト ziggurat(聖塔。周囲に階段のあるピラミッド形の寺院)であった。バビロニアとは<バビロンの地>の意で、現在のイラクのバグダート以南のメソポタミア南部、チグリス川・ユ―フラテス川下流地方を指す古代オリエントの地域名であり、同地域から興った王国の名(バビロニア王国)としても用いる。

 バビロニアは、広義ではバビロニア南部のシュメールと北部のアッカド地方をふくむ地域を、狭義では都市バビロンとその周辺地域を指す。

  【メソポタミアとは:川の間の地方”の意味である。ティグリス川ユーフラテス 川の流域地方で、現在のイラクにあたる。】

  【オリエントとは”太陽の昇る所”の意味で古代ローマ人からみた東方をさす。現在、日本ではオリエントはエジプト、西アジア、小アジアを含む地域をさす言葉として使われている。】

  メソポタミアの南部では、前3500年頃 から大村落が成立し、やがて都市に発展し、都市は独立して都市国家が形成される。メソポタミアで活躍した最初の民族はシュメール人である。彼らは前2700年頃までにティグリス川・ユーフラテス川下流にウル、ウルク、ラガシュなどの多数の都市国家を形成した。しかし、絶え間ない都市国家相互の戦争によって、シュメール 人の都市国家は衰退し、セム系のアッカド人によって征服された。

  アッカド人はメソポタミアの北部の都市アッシュ-ルAssurを建設し、サルゴン1世(位前2350頃~ 前2294頃)はシュメール人の都市国家を次々に征服し、シュメールとアッカド全土を支配し、メソポタミア最初の統一国家、アッカド王国(アッシリア)を建設した。しかし、間もなく衰退して滅亡した。 サルゴン王はニネベに神殿を建設した。

 シュメール人が最後に建てたのがウル第3王朝で、創始ウルナンムの法典は、現在世界最古と言われている。

1 バビロン第1王朝(古バビロニア)B.C.1894~1595年(11名の王が即位している。)

  ウル第3王朝の終わりに、現シリア地方からメソポタミアに移住したセム系アムル人により、ウル第3王朝は、紀元前2004年頃に滅亡した。

  紀元前1900年頃アムル人はバビロンを都としてバビロン第1王朝を建国した。この王朝を別名<古バビロニア王国>という。アムル人がメソポタミアに建てた王朝はシュメールの後継者の意識を強く持ち、政治的、宗教的にはシュメールやアッカドの文明に同化していった。

  ハンムラビ王(B.C.1729~1686年)時代に全盛期を迎えた。

  紀元前1700年頃、バビロン第1王朝第6代のハンムラビ王は、マリを破壊したあと、スサを都とし、30年にわたる戦争の後にメソポタミアを統一し、中央集権国家を建設した。彼によって作られた有名なハンムラビ法典を発布し、内政を整えた。ハムラビ法典(「目には目を、歯には歯を」の復讐法が有名)は、1902年にこの都の遺跡から発見された。完全な形で残る最古の成文法である。一方、ラルさなどの対立国を打倒してメソポタミアの統一を果たした。

  都のバビロンはメソポタミア世界の中心としての地位を得て,メソポタミア南部は「バビロニア」と呼ばれるようになり,バビロンの都市神マルドゥクは神々のなかでも首位の存在となった。古バビロニアはシュメールからペルシャ湾まで、チグリス・ユーフラテス川のほぼ全流域を統治し、約200年の間続いた。

  しかし,ハンムラビ王の死後まもなくしてバビロン第一王朝は衰えていき,前16世紀初め頃にはヒッタイト王国のムルシリ1世による攻撃を受けてバビロンが破壊され,王朝は滅亡した。

2 「海の国」第1王朝(バビロン第2王朝) 1595~1750年(11名の王が即位) 

  ハンムラビ王のもとでのバビロン第1王朝の繁栄は、周囲の諸民族を刺激し、彼らはその富をねらって侵入をくりかえした。イランや小アジアの牧畜民、特に 中央アジアや南ロシアのインド=ヨーロッパ系の遊牧民は前2000年頃から前1500年頃に大移動をおこした。ギリシア・エーゲ海方面から進出した<海の民>(前13世紀末から前12世紀に東地中海一帯の諸国家・諸都市を攻撃し、広い地域を混乱に陥れた諸民族の総称)の攻撃を受けた。なかでもアナトリア半島(小アジア)のヒッタイト(ヒッタイト古王国)が前1650年頃ヒッタイト帝国を建設し、東方に遠征。B.C.1530年頃バビロン 第1王朝を滅ぼした。以後ミタンニ、エジプトと抗争し、前14世紀頃最盛期を迎えた。

  3 カッシート王朝(バビロン第3王朝)B.C.1750~1235年(19名の王が即位)

  東方から入ってきたカッシ-ト人の王ウラム・ブリアシュが、1475年頃バビロン第2王朝を滅ぼし、バビロニアを統一した。B.C.1400年代の後半,カッシート王国はオリエントにおける五大国の一つとなり,アッシリアやエジプトなど他の大国と活発な外交を展開した。また、カッシートはシュメール文明以来の文化の継承と保存を積極的に行った。カッシート王国は400年以上の長きにわたって存続したが,B.C.1200年代中頃に東方の異民族エラム人によって滅ぼされた。

 4 イシン第2王朝(バビロン第4王朝 1235~1024年 (11名の王が即位)

   ネブカドネザル1世(1124~1103年)

 5 「海の国」第2王朝(バビロン第5王朝)1024~1064年(3名の王が即位)

 6 バジ王朝(バビロン第6王朝)1003~984年(3名の王が即位)

 7 エラム王朝(バビロン第7王朝)984~977年(1名の王即位)

 8 バビロン第8、第9王朝977~800年:9名の王、800年~:9名の王即位

 9 バビロン第10王朝 ~625年(15名の王が即位)

   7代の王メロダク・バルアダン2世(列王下20:12)

 新バビロニア(カルデヤ) 626~543年 (7名の王が即位)

   初代の王ナポポラサル(626~605年)

   2代の王ネブカドネツァル2世(B.C.605~562年)(エズラ2:1、        イザヤ21:4、エレミヤ25:27)

   3代の王エビル・メロダク(561~560年)(列王下25:27)

   7代の王ベルシャツアル (ダニエル15:1)

  オリエント世界は,抗争の果てに紀元前7世紀にアッシリアにより統一されたが、早くも同世紀後半にはその支配に動揺が起こり、そうしたなか、紀元前800年代以降バビロン周辺ではセム語系カルデア人が勢力を増した。紀元前626年、カルデアの王ナボポラッサルは、アッシリア帝国からバビロニア地方を奪取し、新バビロニア(カルデア王国)を建国した。そして新バビロニアの第2代国王ネブカドネツァル2世は,紀元前612年にイランのメディア王国と同盟してアッシリアを攻めてこれを滅ぼした。紀元前800年代以降、バビロン周辺ではセム語派のカルデア人が勢力を増した。 だけでなくシリア・パレスチナの支配権も掌握し,パレスチナに残っていたヘブライ人(ユダヤ人)のユダ王国を滅ぼしてバビロン捕囚を行った。また彼は,バビロンの復興のために建設事業を精力的に進め,旧約聖書の「バベルの塔」のモデルになったとされるジッグラトや,「空中庭園」と呼ばれる壮麗な庭園を建設した。

  ネブカドネザル2世の死後の新バビロニアでは政治的な混乱がつづき,前539年にはアケメネス朝ペルシアのキュロス2世(559~530年)によって滅ぼされた。

  こうしてバビロニアはアケメネス朝の属州の一つとなり,その後はアレキサンドロスの帝国,セレウコス朝の支配下に置かれることになる。バビロンはバビロニアの中心地としてしばらくは一定の重要性を保ったが,しだいに衰退へと向かっていった。

  旧約聖書に<カルデア>と記されている地方は、バビロニアの一部を示している。旧約聖書には4人のバビロン王の名が記されている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする