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日本キリスト教 富 谷 教 会
年間標語「何事も祈って歩む、一年を送ろう」
聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、
感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」フィリピ4:6
週 報
聖霊降臨節第二十一主日 2013年10月13日(日) 5時~5時50分
礼 拝 順 序
司会 永井 慎一兄
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 464(ほめたたえよう)
交読詩編 86(主よ、わたしに耳を傾け)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書 創世記15章1 -6節
説 教 「アブラハムの信仰」 辺見宗邦牧師
讃美歌(21) 227(主の真理(まこと)は)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 2013年10月20日(日)午後5時~5時50分
聖書 創世記28章10-22節
説教 「ヤコブの夢」
交読詩編 139 讃美歌214 434 27
本日の聖書 創世記15章1-6節
1これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」 2アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」 3アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」 4見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」 5主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」 6アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
本日の説教
15:1節に、「これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。『アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。』」とあります。
「これらの出来事」とは14章に記されている出来事です。アブラムはアブラハムの改名する前の名前です。14章に記されていることを簡略にお話しいたします。
14章の1節に出てくる、シンアルの王、エラサルの王、エラムの王、ゴイムの王の四人の王からなるメソポタミアの連合軍がパレスチナ(カナン)に攻めてきたのです。
この連合軍は、チグリス・ユーフラテス川流域からトルコに至る広大な諸国からなる連合軍でした。<シンアル>はバビロニアのことです。<エラム>はバビロニアの東に位置する国です。エラサルはユーフラテス東岸の町です。ゴイムはヒッタイトの国(現在のトルコ共和国)です。
赤線を引いた地名は、創世記14章に出てくる地名です。古代のパレスチナとカナンの地図です。
当時、カナンの地は、エラムのケドルラオメル王に支配されていました。カナンの五つの都市の王たちが,同
赤線を引いた地名は、創世記14章、15章に出てくる地名です。
盟を結んで反乱を起こしました。カナンの五つの都市の王たちとは、ソドムの王、ゴモラの王、アドマの王、ツェポイムの王、ツォアルの王です。これらの王の都市は、死海を中心とする都市で、そのうち、ソドム・ゴモラ、ツォアルは死海の南端にある都市です。ソドムの王を中心とした五つの都市の王達はシディムの谷(死海の南)で同盟を結びました。カナンには中央政府がなく、これらの諸都市が王国であり、弱小国でした。
圧倒的な勢力を誇るエラムの王ケドルラオメルの連合軍は、カナンの同盟軍を包囲するように、ヨルダン川の東側の諸都市を制圧しながら南下してきました。以下は彼らが制圧した諸都市の説明です。
有澤慎一牧師解説:聖書研究会資料(12)創世記12章1節~20節より転写。
[5節「アシュテロト・カルナイム」はガリラヤ湖の東35キロ、バシャンの王オグの首都です。
「ハム」はアンモン人の首都ラバテ・アンモンの古名です。「レファイム人」「ズジム人」はヨルダン東部に住んでいた巨人族です。バシャンの王オグはレファイムの生き残りです。(申命記3章11節)
「シャベ・キルヤタイム」はアルノン川の北18キロにあったモアブの町です。
「エミム人」は「恐ろしい人」という意味です。
6節の「フリ人」は死海の南「セイルの山地」に住む人々でエドム人に駆逐されます。
「エル・パラン」はアカバ湾頭のエイラトです。
7節の「エン・ミシュパト」はエイラトの北西の高地にあるカデシュ・バルネヤのことです。
「アマレク人」は出エジプト時代にカデシュ・バルネヤ付近に住んでいたイスラエルの強敵で(出エジプト記17章8節)、エサウの子孫の一族です。(創世記36章12節)
「ハツェツォン・タマル」は死海の西岸にあるエン・ゲディの古名です。タマルとは戦勝のしるしであるなつめやしのことです。
「アモリ人」は創世記15章21節のカナンの先住民のリストに載っています。]
その同盟軍の鎮圧のために、エラムのケドルラオメル王を長とするメソポタミアの四人の王たちがカナンに攻めてきたのです。
ケドルラオメルの連合軍は、アカバ湾に近いエル・パランまで進み、そこから転進して、シナイ半島北部のカデシュに向かい、ハツェフォン・タマルに住むアモリ人を撃ち、死海方面に北上したのです。そして、シディムの谷で、ソドムの同盟軍の五人の王と対戦しました。
この戦いで、ソドムの同盟軍は敗北し、ソドムとゴモラの王も、また残りの王も敗走しました。ソドムとゴモラの財産や食料はすべて奪い去られ、ソドムに住んでいたアブラハムの甥ロトも、財産もろとも連れ去られました。
ひとりの逃亡者が、アブラムのところに来て、そのことを告げました。当時、アブラハムはヘブロンのアモリ人マムレの樫の木の傍らに住んでいました。この知らせを聞き、甥ロトを取り戻すために、自分の家で生まれたしもべと、よく訓練された者達三百十八人を引き連れてダンまで敵を追撃しました。彼らは夜、二手の分かれて敵を奇襲し、ダマスコの北のホバまで追跡しました。そしてアブラムはソドムとゴモラから奪われたすべてのものを取り戻しました。
戦いに勝利して帰還したアブラハムを、サレムの祭司でもある王メルキゼデクが、エルサレムの近い「王の谷」で迎えました。「サレム」とはエルサレムのことです。メルキゼデクはアブラムに「パンとぶどう酒」を持って来て、アブラハムを祝福しました。アブラハムは、返礼として戦利品の十分の一の贈り物をささげました。
ソドムの王もアブラハムを出迎え、こう言いました。「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください。」しかし、アブラハムは、「あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません。『アブラムを裕福にしたのは、この私だ』とあなたに言われたくありません」と言って断りました。神さまからいただく祝福の方を大切にしたのです。
ここまでが、14章に記されていた出来事です。15章1節の「これらのことの後で」とは、以上のような出来事を指しています。
主なる神の啓示がアブラハムにありました。敵・連合軍の報復に対する恐れと不安の状態にあったアブラムに、神は「恐れるな、アブラハムよ。わたしはあなたの盾である」と言って、アブラハムを保護することを約束されました。主御自身が彼の盾となって彼を守ってくださるので、決して恐れることはないと言われたのです。
そして、「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」と約束されました。ソドムの王からの報酬を断ったアブラハムへの慰めの言葉です。
アブラハムは、「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」と尋ねました。アブラハムの妻サラは不妊でした。たとえ報いが非常に大きくともそれを受け継ぐのは自分の子ではないとアブラハムは述べたのです。
アブラハムは言葉をついで、「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくだいさいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」と語りました。自分の家の奴隷が相続人となると述べたのです。
アブラハムは、12:7節で、「わたしはあなたを大いなる国民とする」という神の言葉を受けて七十五歳のとき、旅立ったのです。そして、その後、13章16節でも、「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」という約束を受けていたのに、まだ子が与えられていないことに対する神に対する非難が込められています。
すると、主の言葉が彼にありました。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」「あなたから」という言葉は、原語で「あなたの腹から」と言う意味です。他人ではなく、あなたから生まれる者から子孫が与えられる、というのです。
主なる神は、彼を外に連れ出して言われました。「天を仰いで、星を数えることが出来るなら、数えてみるがよい。」そして言われました。「あなたの子孫はこのようになる。」神は、言葉だけでなく、目に見える形でアブラムが神を信頼するように導かれたのです。
晴れた夜空の天を仰ぎ、無数の星を見たアブラハムは、創造主なる神の偉大さと人間の無力さを覚えたことでしょう。こどもが与えられないという厳しい現実が続く中で、神の約束を信じられなくなっていたアブラムのために神は再び、「あなたの子孫はこのようになる」と約束の言葉を語ってくださったのです。数え切れないほどの星をつくられた神は、必ず約束を実現できる全能の神であることを覚え、アブラハムは主と主の言われた言葉を信じました。神はアブラハムのその信仰を義と認められました。義と認めるとは、全き者、罪なき者、正しい者と認めるということです。
パウロはこのアブラムの記事を例にとり、信仰による義について次のように言いました。「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」(ローマ4:5)。神を仰ぎ、神の約束を受け入れたとき、その信仰が人間と神との正しい関係に導いたのです。アブラハムの実行力や賢さや信念を認めて、神は彼を義と認めたのではなく、神の約束の言葉に対する信仰を見て、神は彼を義とお認めになったのです。
「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」 ヘブライ語の聖書原典には、次のようにしるされています。ヘブライ語は右から読みます。
וְהֶאֱמִן, בַּיהוָה; וַיַּחְשְׁבֶהָ לּוֹ,צְדָקה
次のように読みます。 ヴェ・へ、エーミン; バ・ヤーウェ ヴァ・ヤ‐フシュヴェ‐ハ ロウ、 ツエダカ
直訳すると、「そして彼は主を信じた。彼(主)は彼を義と認めた」となります。
最初のוְהֶאֱמִן という語は、 וְ (そして)、הֶ (彼は)、אֱמִן (信じた)という三つの単語から成っています。
アブラハムが「信じた」という場合のヘブライ語動詞の< אֱמִןエーミン>の語根は、「真実であった」という意味の動詞< אָמַןアーマン>です。私たちが祈りの終わりに唱える<アーメンאָמֵן>の語根も同じ<アーマン>です。
<アーメンאָמֵן>は、「本当に」、「真実に」という意味の副詞です。わたしたちが礼拝で、「ア―メン」と言うときは、
「本当に」「まことにそうです」「まことにそうでありますように」「然り」「そのとおり」という意味に用いられ、感動詞(間投詞)として用いられています。捧げる祈りや賛美歌が、「心からのものです」ということを表現します。
私たちが神に祈りを捧げてアメーンと唱える時に、それは単に形式的な締めくくりの言葉ではなく、全能の神のご支配を信じ、神にすべてをゆだねることの表明として唱えるべきです。アーメンの言葉は、信仰の父とされたアブラハムの信仰を言い表す言葉であることを覚えたいものです。われらの救い主イエス・キリストと、父なる神を見上げて、共に歩んで行きたいと思います。