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塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

仕事用にチャッカ・ブーツを履きはじめて

2015-01-16 00:32:45 | 日記
 僕は仕事用の革靴とベルトをそれぞれ3点用意し、日替わりで身に着けています。

 そのうち、靴の一足が傷んでしまい、もう修繕も難しいために普段履きで購入した黒のチャッカ・ブーツを仕事用で履く事にしました。

 通常の靴とは異なり、チャッカ・ブーツは踝まで覆われており、その反面はとめが3つしかないのが特徴です。

 最初は

 「踵の部分が動く最中に邪魔かな」
 「少し重く感じるかな」

 と思いましたが、そこまでの影響はありません。

 チャッカ・ブーツを履きながら仕事をして感じたのが、ナイキがてがけるマジスタです。

 マジスタは本革ではなく、ナイキの最新テクノロジーである「フライニット」をアッパーのい採用している分、あれだけ踵が覆われていても軽量に仕上がっているでしょう。

 同時にナイキは

 「サッカー・スパイクはローカットで当たり前」

 という固定概念を崩しましたよね。

 この点がマジスタが市場に与えた一番大きい影響と考えられます。

 ナイキはバスケットシューズの世界でも、フォワードの選手に向けた「フォース」、ガードのように走り回る選手に「フライト」というラインを構築し、よりポジション別に靴を提供してきた背景を持ちます。

 アディダスやコンバースも、ベルクロによる足首の保護、ナイキのエアに対抗する衝撃吸収の形を模索してきましたが、よりポジションを細分化するという提案は、ナイキが生み出したと言えます。

 サッカーでは既にウールシュポルト、ロイシュのようにGKに特化した商品を作るブランドがあります。

 アシックスもリーサル・スナイパーを提供していますが、今後は各社がよりデザインの固定概念を打ち破り、選手の特性に見合った商品を開発してゆくのでしょう。
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自主的に行動することの意味合い

2015-01-16 00:20:42 | 日記
 僕が小学生の時、そろばん教室に通っていました。

 それは自主的な行動ではなく、母の勧めによってでしたが、3級までしか取得できなかったものの、38歳の今でも学んで良かったと思う点は多いですね。

 でも、僕と一緒に通うことになった弟は嫌で嫌で仕方がなく

 「そろばんと教科書をなくした」

 といって、駄々をこねたこともあります。

 実際はテレビの裏側に隠しただけでしたが、当時は僕が弟もおもりをする形でしたから、歩く速度も違えば僕らが通う小学校が、学年によって自転車の運転を許可する、しないという方針だったので、僕も行きたくない時はありましたよ。

 そう、つまり

 「自主的に学ぶときは時間は簡単にすぎてゆく」
 「おしきせの学びは意味が無い」

 と言う点を、僕は小学校の時に学んでいたのです。

 おしきせですと、両親はその多くで

 「お前の将来のためだ」

 としたり顔で言いますよね。

 でも無視していると、何でやらないんだ、お金が無駄になったと愚痴をこぼします。

 僕たちが「買って」とせがんで無視していたならば、その批判を正しいですが、自分で勝手に買い与えてお金の無駄というのは、単なる間抜け以外の何物でもないでしょう。

 僕が英語や漢字の勉強が苦にならないのは、自分で行いたいと自主的に行動し、お金を払っている為で、休日にしようかどうかも決定権は僕にあるわけです。

 例えば先日お話したケルメの上下を購入したのも、今よりも健康な体を作るべきだと考え、ジャージはサッカー・ブランドが良いなと思い、幾つもの店舗を下調べした上で購入したわけです。

 自主的に行動することは、これだけの情熱を生みます。

 サッカーも同様で練習はやらされていても意味は無いでしょう。

 パルセイロもスクールを持ちますが、親御さんの勧めだけでサッカーの練習に通い続ける事は、いささか難しく同時に親のエゴも感じます。
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