今日も庶民の街、リューリン・・・ でもちょっと「クルトゥーラ」(ブルガリア語で文化)的な事をして見たいゾ!! 10年近くもここら辺に住んでいるのに見ていない、そしてこの頃とても気になっていた「ムゼイ」(英語で言うところのミュージアム=美術館、博物館)の類・・・ ブルガリアに来てすぐのころ、ブルガリア語を勉強しに行った「ИЧС」(イーチェーセー・ソフィア代付属の語学学校)の遠足で元迎賓館だったボヤナの歴史博物館に行ったっきり。 歴史博物館なのに旧ソ連のミグ戦闘機や戦車が置いてあったり・・・ あ、ちょうどその時シルベスタ・スタローンの映画をそこで撮影してたなぁ・・・ そんなこんなで、よしっ!! と意を決して GO!!
市内中心部、大統領府のまん前、「考古学博物館」にまずは行ってみました。なかなか重厚な建物!! 元はイスラム教寺院だったらしい・・・ で、建物の回り、特に入口付近にも柱頭やレリーフなどがボコボコ置かれています。裏手に回るとなんとも素敵なカフェもあるこの博物館・・・ 入ってみて、入口の料金表を見てギョっ!! ひ、一人10レバとなっ!! でも、その値段から来る期待感とともに入ってみました。
ちなみにブルガリアの博物館では「カメラ・ビデオ持ち込み別料金」という所がけっこうあるので窓口のおばさんに尋ねてみると、「フラッシュをたかなきゃ写真はOKよ」との事でホッ。
まず入ると広ーいホール。そこが吹き抜けになっていて2階にも部屋があり、そこにも展示コーナー。つまり展示物がけっこういっぱいというコトですネ。博物館の入場料を、展示物の多い少ないでおトクかどうか考える・・・ のはやめましょう!! (と自分に言い聞かせつつ・・・)
基本的にこの博物館、ギリシャ、ローマ時代のものが多く、次に正教会のイコンにも通じる教会壁画が多く展示されているのですが、もっと前の時代のものもあります。洞窟壁画とか、世界どこでも同じような形の土偶みたいなのとか・・・
一番印象的だったのはトラキア人の黄金に輝く装飾品!! 何年か前に日本でも「トラキア人の黄金伝説」って流行りましたよね?! あれを見れるわけですよ!!
今のワタシでもぜひ身に着けてみたいピアス、バングルの数々!! 当時も今もやっぱりこういうの好きだもんネ。その中で圧巻なのは
金でできた顔!! これだけの金がブルガリアで採れたっていうのはスゴイ!! そしてこういうのがつい最近まで土の中に埋もれていて、今でも掘ったら出てくる、ってのはネ~!! よく盗まれなかったなァ~!!
ブルガリアにすんで何年にもなって初めてこんなところに入ってみたワタシ・・・ 今までちょっと二の足を踏んでいたのは、この国の自然の美しさに比べて、正直、正教会の美術や共産アートがちょっと暗く重く見えたからなのです。 ちょっと見る分にはいいけど、それが集められているってのが・・・ ただ、このキンキラキンのトラキア人の黄金アートはそれとちょっと違ってて面白いかなァ~・・・
東北まで足を延ばした理由の一つは、東日本大震災の被災地が今どうなってるのかをこの目で確かめたい、という事でした。友人のコネの助けもあって、訪ねることができたのは陸前高田でした。
まず連れて行ってもらったのは、今も残る壊れた道の駅・・・ 案内してくれた友人いわく、津波は押し込んできた力もすごいけど、引いていく時はもっとすごい、とのこと。それを物語るように、すさまじい力で水が流れ込んだのでしょう、建物の中もガチャガチャ、グニャグニャに壊れていて、(後述の一本松くらいある)大木が引っかかっています。
一本だけ生き残ったのに今は枯れてしまい、サイボーグになった「奇跡の一本松」・・・ 被災したその日から3年半経ってしまったことを思わせます。その中でひっきりなしに轟音を立てる銀色のベルトコンベアに超違和感・・・ 何でも被災地区に8メートルの盛り土をするんだとか・・・
そのちょうど真下にあったお店、八木澤商店!! お醤油屋さんだそうです。三升漬は試食したらとってもおいしくって・・・ 思わず2個購入。建物は仮設っぽいプレハブ・・・ でも今後も是非がんばってほしいですネ!! おいしい商品がいっぱいですから!! そして陸前高田だけでなく、被災したいろんな町にいろんなおいしいものがいっぱいあるので、是非がんばってほしい・・・
友人が以前自分が住んでいた辺りを見せてくれました。陸前高田のお祭り、七夕用のだしが準備されつつある、醤油屋さんだった建物のところです。 すぐ裏には避難できる小高い丘にある神社。津波が到達した最高点から見ると・・・ オワッと思うほど高いのです!!
このあたりは城下町で素敵な町並みだったそうですが・・・ 何も残っていません。海岸近くのベルトコンベアがかなり近くに見えて、「海がこんなに近かったんだ」と地元の人たちもびっくりするそうです。
友人はすぐに避難所に指定されていた学校へ逃げました。彼女の父親は、この、徒歩5分で登れる神社に「いざとなったら避難するから大丈夫!」と言っていたそうですが、結局そうしなかったそうで、お亡くなりになられたそうです。生と死がちょっとした事で分かたれた・・・ という事をかなり詳細に話してくれました。避難所になったその小学校の校庭でも、公民館でも避難してきた人たちが津波に流されて・・・ ほんの少しのタイミングやいた場所で間一髪そこから逃げられた人と逃げられず巻き込まれてしまった人たち・・・ なんだか心が痛くなってきました。
海岸近くのほうにも津波に持ちこたえた雇用促進住宅が一棟残されていましたが、5階はベランダの柵はほぼ残って、たぶん床を水が流れていった程度だったのでしょうが、4階から下は建物の反対側の景色が見えるほど突き抜けられていて・・・ このときいろいろな「紙一重」があったのでしょう・・・
今でもその友人は仮設住宅にすんでいます。バスルーム、空調は完備されていますが、息のつまるような集合住宅・・・ きっとストレスの大きさはワタシの想像をはるかに超えていっているのでしょう。
3年半が過ぎ、流されたところに雑草がボーボーに生え、がれきが取り除かれたところに来たワタシには何があったのか、語ってくれる友人がいてくれたおかげで少し分かりましたが、もう過去のことになってしまいそう・・・ こんなにも残された人々はまだ苦労しているのに・・・ でも、単なる過去にしないように、というみんなの思いでしょう、陸前高田にはこの日も、貸切バスのグループやいろいろな県のナンバーの車が来ていました・・・